中島 嘉之吉

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
2023年11月29日 (水) 23:22時点におけるAdminkoyama100 (トーク | 投稿記録)による版
ナビゲーションに移動 検索に移動
中島嘉之吉 二代校長

中島 嘉之吉(なかじま かのきち、)は、日本の教育者。東京府立第八中学校第二代校長(在任期間:1937年11月12日 - 1945年6月30日)

1948(昭和23)年12月1日逝去 


本校歴

1938(昭和13)年5月28日 全校マラソンを実施(多摩川堤)する。
1939年 4月   夜間中学は第1学年より2学級編成となる。 
    4月   補習科の設置を再開する。(1945年3月まで)
1940年 3月   夜間中学第1回卒業式を挙行する。
    10月20日 紀元2600年奉祝運動会を挙行する。
1941年 4月 1日 東京府立八中夜間中学を東京府立弘道中学と改称、校友会を報国団と改称する。 
1943年 4月 1日 中等学校令改正により、4年制の第1学年入学する。
         東京府立弘道中学は、東京府立第八中学校夜間課程となる。  
1943年 5月   最後の修学旅行を5年生について実施する。(伊勢神宮方面)
    7月 1日 都制施行により、校名を東京都立第八中学校と改称する。
1944年 4月20日 学徒動員令により学徒勤労報国隊を結成し5年生が勤労動員に出動する。
1945年 1月   海軍艦政本部の一部が本校に疎開し使用する。(講堂とと3階全教室・西館2階教室)
    5月23日 空襲により、屋内体操場・銃器庫・八角便所、売店、講堂が消失する。


エピソード

中島校長時代

 岡田校長は昭和十二年十一月退職、後任に府立第二中学校長であった中島嘉之吉先生が補せられた。先生も頭脳明断で政治的才能を備え、力で推し進めるという風の人柄であった。国家主義・軍国主義の盛んであったせいもあり、質実剛健を標梼し、個人尊重よりも団体の規律・秩序を重視し、鍛錬主義の教育が行なわれた。そして上級進学に力を入れ、実力考査や定期試験を行ない、成絞も学年末には中央の示す秀・優・良・可・劣で示したが、平素は素点で表わし、言わば一点一分を争わせるようなやり方をせられた。もともと素質の優れた八中生のこととて、その成果はめきめきと現われ、この面での優秀校と自他共に許す程になった。教練は岡田校長時代からやらされたが、はなはだ消極的であった。中島校長は好きでもあったようで、これにも力を入れ、校庭で厳しい訓練を課する外、近く遠く度々行軍を行ない、習志野や富士山麓の陸軍廠舎に宿泊しての野外教練も盛んに行なった。年に一回の軍の査閲に備えて、各種教練は幣正確実を期し、受閲に際しては校舎内外の清潔整頓に至るまで寸分の隙きのないようにし、肢も緊張し厳粛の気分が校内に充満するを覚えた。大東亜戦争突入以後は全国的組織の報国隊ができ、校長以下教職員腰に指抑刀を吊り、生徒隊の指揮を執る光最さえ脹州せられた。そして教練の成紙は、中島校長就任以後年肺に川上し、都下でも最も俊秀な学校と認められるようになった。昭和十三年頃から行なわれた勤労作業も忘れられない。後には勤労報国隊が編制され、林業試験場の除草・整地、多摩川運動場の開墾及び農耕、更には皇居外苑の造成にも他校の奉仕隊と成績を競ったこともあった。こういう次第で学校だけでは十分でないとし、修練道場を造ろうと各方面に土地をさがした末、農林省から那須高原に七万坪を借り受け、地鎮祭まで行なったが、木材の統制が厳しくなり、これを入手することができなくなったため遂に工事を進め得ず、戦後この広大な僻地を返還してしまうことになったのは返す返すも残念であった。戦局の進展につれ動員は農地や工場にも向けられ、八中生も学徒勤労報国隊として、下丸子・蒲田・其の他の方而の工場に動員せられ誉学業を放棄して軍需生産の労働に服せしめられた。この動員中湘川の鉄工所で早川君が感電により犠牲となったことは最もいたましいことであった。米軍空襲下校長以下全職員の最大責任は、御真影及び詔書・勅語の奉護であって、学校警備のこともあり宿直員も増員せられたが、東京都では西多摩の山間地に奉遷地を定め、八中奉戴のものは吉野村国民学校の奉安所に遷され、奉遷所には三、四人あてと校長が交替で昼夜奉護の任に当たったものである。戦局が悪化するにつれ、深刻な食糧不足と空襲の危険が逼迫し、国民学校児童・民家・工場などの疎開が相いついだが、八中校庭も耕地として食組自給に一役を買い、数個の防空壕も術築せられた。この頃海軍艦政本部の一部が八中に疎開して来、講堂・三階の全部と二階一部の教室が作業場に当てられた。然るに戦局はいよいよ不利となり、昭和二十年五月二十三日夜から始まった空襲で、八中も翌払暁講堂・体育館及びこれに接続した靴置場・便所を焼かれてしまった。終戦後最も困った事は降雨による二階・一階への水漏りであった。また校舎が煤けているのは古くなったせいだけでなく、そこここで暖一房や炊事のために焼木材を燃やした時の煙によるものである。こういうわけで戦時中の八中は一股の例外でなく非常に苦しい時代であった。被災前五月の初めに中島校長に退職の勧告があり、留任懇請も容れられず、先生は六月退職せられ、都の視学官山根邦夫氏が校長事務取扱として着任、週に一・二回位出校して事務を執られた。勿論戦時体制の強化に努めたが、八月に入り広島・長崎に原子爆弾が投下せられ、敗戦は決定的となり、八月十五日昼頃天皇陛下の玉音放送があり、終戦の詔勅が宣布せられた。校長室で拝聴の職員一同に声を発する者もなく、ただ呆然となったことは申すまでもない。無条件降伏ということで不安は国内に充満したが、そういうことに頓着なくマッカーサー元帥以下連合軍の進駐となり、第一生命ビルに最高司令部が置かれ、迅速強力に占領政策が進められた。学校にもジープを駆って軍人が乗り着け、隈なく校内を捜索し、焼残りの銃剣などを押収して引きあげた。追っかけて超国家主義・軍国主義・神道に関する書籍などは焼却を命ぜられ、教練はもとより修身・歴史の授業は禁止せられ、地理なども超国家主義につながるような章句は抹消せられなどした。教育面の管理に当たる者も軍人で、八中はジュッヘルという中尉の管理下に置かれたのであった。(四十周年沿革史より抜粋)

関連項目

着任:1937年11月12日
退任:1945年6月30日
前 任 在 任 後 任
岡田 藤十郎

1923年度 (大正12年度)

1924年度 (大正13年度)

1925年度 (大正14年度)

1926年度 (大正15年度)

1927年度 (昭和 2年度)

1928年度 (昭和 3年度)

1929年度 (昭和 4年度)

1930年度 (昭和 5年度)

1931年度 (昭和 6年度)

1932年度 (昭和 7年度)

1933年度 (昭和 8年度)

1934年度 (昭和 9年度)

1935年度 (昭和10年度)

1936年度 (昭和11年度)

1937年度 (昭和12年度)

岩本 實次郎



関連事項

↑ページトップへ    ↑↑「歴代校長一覧」のページに移動   ↑↑「恩師の思い出」のページに移動    ↑↑「卒業生・同窓生」のページに移動    ↑↑「菊桜会歴代会長」のページに移動    ↑↑メインページ(人物アーカイブ)に移動

脚注: ・

2023年11月29日:直近編集者:Adminkoyama100
TimeStamp:20231129232238