1926年度 (大正15年度)
1926(大正15)年度
できごと
- 1926(大正15)年
- 03 校舎(現称・旧館)全部が落成した。
- 04.04 入学式 中4回生
- 04.22 宮中観桜式会陪観のため、岡田学校長新宿御苑に出席
- 05 校舎完成祝賀を兼ね開校記念式が挙行された。
- 創立当時、学校の周囲には人家まばらで原と畑地と林が続き、鉄筋コンクリート3階建の屋上に聳える8角塔は8中の象徴と仰がれた。
- 05.05 校舎完成祝賀を兼ねて開校記念式を挙行
- 06.10 李王殿下国葬につき休校
- 07.17 水泳大会を行う
- 09.01 始業式、震災記念講話、精神作興詔書[1]捧読
- 09.28 以下の見学実施。1年 小石川植物園、2年 お茶の水東京博物館、3年 エビスビール会社、4年 製氷会社
- 10.11 第四学年生午後8時5分上野駅発にて仙台、松島地方の旅行の途に就く
- 10.12 第四学年旅行不参者報知新聞社見学
- 10.13 以下の遠足・旅行。1年 高尾山、2年 横須賀軍港、3年午前6時50分上野駅発にて日光中禅寺旅行の途に上る
- 10.14 第三、四学年旅行隊帰京
- 10.20 第一、二学年代々木方面にて野外演習を行う
- 10.21 昼食後朝礼の場所にて山本教諭より長慶天皇[2]に関する講話あり
- 10.22 長慶天皇を皇代に列する親告祭挙行せらる、につき臨時休業
- 10.24 保証人会開催
- 10.27 第三、四学年野外演習
- 10.31 天長節祝日奉賀式挙行
- 11.02 秋季陸上運動会挙行
- 11.03 明治神宮参拝、後、神宮競技参観
- 11.08 授業時間変更、始業を30分遅らす
- 11.08 学校長台湾にて開催せらる、全国中等学校長会議に出席のため午後7時20分東京駅発の汽車にて出張
- 11.15 以下の見学を実施。1年 遊就館、2年 報知新聞社、3年 上野動物園、4年 商工省地質研究所
- 11.16 第四学年陸軍自動車学校見学
- 11.19 第三学年明日にかけ野外演習を行い、南多摩郡八王子村の民家に宿泊す
- 11.24 剣道仕合を行い職員生徒一同参観
- 12.04 第3、4時限講堂にて学校長の台湾視察談あり
- 12.10 第四学年生明日にかけ野外演習を行い、南多摩郡由井村の民家に分宿す
- 12.16 聖上陛下御容態御危変の号外出る
- 12.17 聖上陛下御容態御変りあらせられず。朝礼の際学校長より聖上陛下御不例[3]につき生徒一同に訓話あり
- 12.17 学校長宮城に出頭聖上陛下御不例につき天機を奉伺[4]す
- 12.24 終業式
- 12.25 聖上陛下午前1時25分崩御。明後27日午前9時30分奉悼式を挙くべきに付き通知状発送
- 昭和元年
- 12.27 「昭和」と改元。午前9時30分奉悼式挙行午後5時学校長鈴木教諭及び生徒総代5名神田一橋商科大学に集合文部省関係団体に参加して二重橋前に堵列大行天皇の霊柩を奉迎す
- 1927(昭和2)年
- 01.08 午前8時より始業式、今上陛下践祚[5]の勅語の捧読、講話あり
- 01.14 東京府より庁員出張会計検査を行う
- 01.17 秩父宮殿下御帰朝奉迎のため職員生徒代表各2名午後2時出発
- 01.24 学校長本日午前0時より6時まで宮中の殯殿[6]の御通夜の為め参内
- 01.28 以下の見学を実施。1年 上野博物館、2年 多摩川水道水源地、3年 芝瓦斯会社、4年 東京博物館
- 02.03 陸軍歩兵大佐梅津美知郎四来校 教練の査閲を行う 午後講堂にて同氏の講話あり
- 02.07 御大喪儀葬場殿の儀を執り行わせらるにつき、遙拝式を挙行す
- 02.08 御大喪儀陵所の儀につき休業
- 02.11 紀元節なるも諒闇[7]中につき式を挙げず
- 02.14 正午より世界探検家菅野力夫氏の講話あり
- 02.15 学芸会、諒闇中なれば余興に類するものを行わず
- 02.18 学校長午後中学校長会に出張
- 02.19 第一学年生徒野外演習
- 02.21 全校多摩御陵参拝
- 03.06 入学資格検査試験を行う。受験者10名
- 03.13 入学試験学科試験挙行
- 03.15 午前7時身体検査及び試問を受くべき者を掲示、午前8時より身体検査及び試問を施行
- 03.16 午前8時入学試験合格者発表
- 03.24 終業式
世相
- 1926(大正15/昭和元)年
- 12.25 大正天皇崩御
- 12.27 昭和と改元
- 1927(昭和2)年
- 03.05 新潮社世界文学全集刊行
- 03.15 金融恐慌おこる
- 流行語-文化住宅・福本イズム
- 流行歌-この道・関の五本松
開校記念式
- 開校記念式は大正15年5月5日
創立以来3年にわたったわが8中の新築工事も偉大なる幾多の努力の結果として遂にその落成を見るに至り5月5日端午の節句を選んで開校記念式が挙行された。
早朝第1鈴によって先ず生徒集合し直ちに式場へはいる。次いで職員の入場も終り一同式の開始をまつ。第2鈴によって来賓入場あり、
そのまま一同君が代合唱によって式は開始された。
1 学校長式辞 詳細は開校記念式岡田校長式辞をクリック。
2 府知事閣下の告辞
3 来賓祝辞(文部大臣閣下、中野府会議長、長谷川青山師範学校長、砂崎第7中学校長)
4 生徒総代の祝辞
(運動会)
開校記念落成祝賀式後直ちに挙行せられた。
10時30分春雨の中に岡田校長、伊藤運動部長先生のお話の後、軍楽隊の奏でる曲の中で開会した。程もなく雨も晴れて薄雲の所謂8中運動日和となり、
屋上に泳ぐ鯉幟5旒翻る中に競技は進行した。殊に剣道野試合は勇壮活発、一大壮快事であった。
(余興)
午後3時より講堂において識淡大島伯鶴「小牧山軍記」、丸一小仙一座の大神楽、一つ毬、土瓶の芸、傘の曲芸、日本手品、皿の綾取、掛合話で5時終了(校友会雑誌3号より)。
(寄稿)
開校記念日の朝 1F 栗田 典
いよいよ5月5日は来た。開校記念日なのだ。サイレンが鳴って各々が定められた仕事についた。鯉幟を屋上に立てるもの、万国旗を屋上から下へ張るものもある。
だがあまりひっ張るので何度も何度も切ってしまう。急に「本日は晴天なり」とでかい声を出すものがある。何かと思うと拡声器だ。人が蟻のように、その下へ集まっている。
その内に音楽の先生が蓄音機の拡声器をもってきた。その間に屋上で鯉幟が7本の間に国旗が立てられた。学校でお節句をするなんて、ほんとに珍しいことだ。音楽の先生が自慢するのもむりはない。
「今年はすこし増したようだね」と2人の上級生の1人が言った。それから上級生は8中まんじゅうの事などを話していた。8中にはずいぶん8中固有の名詞がある。「8中ボーイ」や「8中健児」「8中まんじゅう」等。
その内に第2のサイレンによって運動会は始まった。(校友会雑誌6号<昭和4年>より)
- 開校記念式式辞 初代校長 岡田藤十郎
本日落成祝を兼ね開校記念式を行なうに当たり府知事閣下を始め来賓各位の御臨場を辱うし、文部大臣閣下より特に祝辞を賜わることは当校に取り無上の光栄とし深く感謝する次第であります。
当校は大正12年の開校でありまして同年工事に着手し本年3月竣工致したのであります。不幸にして工事中震災の大打撃を受けたに関らず府当局の多大の御尽力と請負者の忠実なる作業の結果として、予定の期限内に著々工事を進め幸いに大なる支障なく校務を進めることの出来ましたことは深く感謝する所であります。
敷地の坪数は4431坪、校舎の延坪数1857坪、建築費総額70万4500円であります。
開校第1年には品川町の好意により同町三木小学校の一部を借り受け仮校舎にあて第2年目に一部工事の出来を待って移転したのであります。創立準備事務所並に第1回第2回の入学試験場はすべて青山師範学校に御迷惑をかけたのであります。この機会において改めて両校の御好意に対し感謝の意を表します。
生徒は毎年6学級約270人募集致すのでありますが応募者は震災の翌年800余名であったほか第1回以来常に1000名以上に達し玉石混淆ではあるが、府立中学としては数において常に第2位を下りませぬ。準備教育難の現状に鑑み普通教育の本旨に省みて抽籤加味の選抜法を試みているが知力体力共に優秀のものは、甲種合格として先入資格を与えますが心身能力の発達普通以上のものは一率に合格を認め公平なる抽籤によりて採否を決するのであります。今日までの経験によればこれは最も適切なる方法と認めている次第であります。
現在生徒の数は第1学年より第4学年まで1006名であります。国民の心身発達の不満足なる現況に鑑み最も意を体育に用い、自治的訓練に重きを置き智育の方面においては努めて内容の充実に注意を払っているが、開校後日なお浅くその成績につきては何等取立てて御報告する程の事もありませぬ。唯現にこのところに集まっている生々とした頼もしき1000の少年、これが過去3年間の8中教育の全成果であることを御認めを願います。非才不徳なる私には責任の余りに重きに過ぐることを恐るるのでありますが、幸いに当局の御鞭撻と府民の同情とに信頼し職員生徒と共に協力一致して、誠心誠意校務の充実発展に力を尽し期待に背かぬように努むる覚悟であります。これをもって式辞と致します。(大正15年)
(「創立50周年記念誌」P44)
思い出
武蔵小山駅を降りてすぐの裏門から入ると、だだっぴろい校庭の向うに3階建ての大きな大きな校舎が見えた。その時まだ三年生までしかいなかったのだから、たぶん三年生たちだったろう、まるで赤鬼のように顔を真赤にして、校庭一杯、サッカーの練習で走りまわっていた。大井町の原小学校を卒業しようとしていたぼくら数人が受験の手続きを取りに行った時のことである。校庭も校舎も生徒もばかでかく見えたあの印象は未だに消えない。それは小学生の目の高さから見た八中だったのだ。
八中時代を顧みると、やはり何と言っても初代校長岡田藤十郎先生の理想主義的な教育のことが思い出される。具体的には、定期試験がなく、小テストを繰り返し行うことなどをはじめとしていろいろな面に現われていたが、今はその一、二に触れるに留めざるを得ない。
習字はペン習字だけで、斉藤先生という立派な専門家の先生の指導を受けた。おかげでペン字を書くには困らないが、今でも結婚式に出る時に署名に毛筆しか備えていない場合があって、小学校以後、筆を使ったことのないぼくは閉口することがある。だがそれにもかかわらず、ペン習字に限ったのは岡田先生の見識であったと考えている。
当時の男子校には音楽の時間がないものさえあったが、情操教育を重視して、四年生まで音楽の時間があったのはすばらしいことだ。おかげでぼくもおたまじゃくしが読めるようになり、今でも楽器をいじって楽しむことができるのは何というありがたいことだろう。
八中から小山台高校へ、戦前・戦中・戦後と、わが母校の校風も変遷したが、ぼくは、手放しでではないにしても、古き良き時代を懐かしむのである。
(高村新一 中4回「創立60周年記念誌」P96)
学芸会
- 2月15日(火)午前9時より
- 開会挨拶 岡田藤十郎会長
- 嶺は近し(合唱):第一学年有志
- 相模灘の落日(誦):2B 田村五郎
- The Months(誦):2D 佐野一雄
- 三人の癖(話):1A 木村俊雄
- 例年は八中校歌斉唱だが、今回は諒闇中のため取りやめ
運動会
- 11月2日(火)開催
- 種目等の詳細は運動会:1926年(大正15年)をクリック。
修学旅行
1926(大正15)年第3学年は日光方面に、第4学年は東北方面に修学旅行(3年生以上は宿泊を伴う旅行を実施していた)。
部活動
1927(大正15)年篭球部新設
図書部/図書館
図書部は、はじめ校友会の学芸部に属していたが1926(大正15)年に独立した。
図書館の運営は図書係の職員と各学級から選ばれた人物、学力、健康ともに優れた図書委員の協力によって行なわれ、放課後は4時まで開館、昼は体操をするため開館しなかった。
「校友会雑誌 第3号」
- 第3号は現在探索中です。
関連項目
*← 1925年度 (大正14年度) *→ 1927年度 (昭和 2年度)
脚注
- ↑ 関東大震災直後の1923(大正12)年11月10日に出された詔書で、教育勅語と戊申詔書の流れをひき、当時の社会的・思想的激動に対して国民精神の振興を呼びかけたもの。「国民精神作興に関する詔書」の略称。第1次大戦以降大正デモクラシーの思想が広がり、震災直前には第1次共産党検挙が行われるという動きの中で、この詔書は「浮華放縦ノ習、軽佻詭激ノ風」と激しい語調で非難し、「質実剛健・醇厚中正」に立ち返り、国家の興隆を図れと国民を戒めた。
- ↑ 長慶天皇(ちょうけいてんのう、1343年-1394年8月27日)は、日本の第98代天皇および南朝第3代天皇(在位:1368年3月 - 1383年冬)。諱は寛成(ゆたなり)。南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、1911(明治44)年3月に明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も在位認定されないままであったが、大正時代に入り、八代国治・武田祐吉の実証的研究が決定的な在位説として評価される。これを受け宮内省の調査が行われ、1926(大正15)年10月21日に皇統加列についての詔書発布があり、ここにようやく長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。
- ↑ 「ごふれい」ある人を敬って、その人の体の状態が通常でないことをいう。 御病気、特に貴人の病気をいう。
- ↑ 「天機」は天皇の機嫌、「奉伺」は目上の人の機嫌をおうかがい申し上げること。
- ↑ 「践祚(せんそ)」とは天子の位を受け継ぐこと。先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。古くは「践阼」と書き、「践」とは足で踏むこと、転じてその地位を踏むこと、「阼」は天子の即位の祭りを行う際に登る東側の階(きざはし)すなわち阼階(そかい)のこと。
- ↑ 殯宮は「もがりのみや」という名で天皇の大喪の礼までの間、皇居宮殿内に仮設される遺体安置所の名として使用される。死後13日目に遺体を収めた柩は御所の櫬殿(しんでん)から宮殿内の殯宮(ひんきゅう)に移御され、45日目を目処に行われる大喪の礼までの間に、通夜にあたる諸儀式「殯宮祗候(ひんきゅうしこう)」が行われる。
- ↑ 諒闇(りょうあん)とは、「礼記」にあるように父母が亡くなった後に「喪を行う部屋や建物」という意味で、転じて「喪に服す」という意味で古代中国では使われた。この「礼記」を範として、日本では天皇が父母の崩御にあたり喪に服する期間を諒闇と言うようになった。
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2025年3月10日:直近編集者:SGyasushi
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