岡田 藤十郎

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
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岡田藤十郎 初代校長

岡田 藤十郎(おかだ とうじゅうろう、1923年1月 - 1937年11月)は、日本の教育者。東京府立第八中学校校長(初代)

本校歴

1923(大正12)年1月20日 東京府立第八中学校初代校長として赴任
  4月8日 入学式を青山師範学校講堂にて挙行。1年281名(志願者1,047名)、6学級で発足
  9月1日 関東大震災の被災生徒および一般被災者の救援活動実施
  11月29日 校友会規則を制定
  12月2日 保証人会(父兄会)組織が成立
1924(大正13)年4月1日 新築校舎一部完成。正門および西館3階建。2・3階普通教室8、1階理科特別教室(物理実験教室、器財室、物理準備室、物理講義用階段教室)、用務員室
  7月 体育の水泳授業実施(神奈川県中原村丸子先多摩川水面800坪を借用
1925(大正14)年4月 校歌を制定
  5月5日 開校記念日を5月5日に設定
1926(大正15)年2月24日 教練の第一回査閲を実施
  3月18日 入学試験合格者発表、乙種合格者に対して抽選実施
  3月20日 校舎全館落成。校舎中央屋上に八角塔
1927(昭和2)年7月1日 プール完成、35m×12m(大プール25m×13m、6コース、小プール10m×13m)
1928(昭和3)年3月8日 第一回卒業式挙行(中1回:200名)
  4月 各学年6学級として完成
1929(昭和4)年4月 補習科を設置(1930年3月まで)
1934(昭和9)年10月15日 多摩川河原を借用、運動場として使用
1935(昭和10)年3月31日 東京府立八中夜間中学を設置開校する(第一学年1学級)
1936(昭和11)年7月 校友会の寄付により図書館兼工作室完成(木造2階建423㎡)


岡田藤十郎伝

岡田藤十郎伝」は、藤十郎のご子息である高氏が父の伝記を執筆しようと言う構想を持ち資料を集めていた。中学一回生藻寄氏が「校長先生ありがとう」と「八中一回生のうた」をつくり中学一回生の中野氏がこれを高氏に贈ったことをきっかけに中学一回生との交流が始まり、高氏の岡田藤十郎傳の編纂に力を貸してほしいという要望に中学一回生が同意して、引継ぎしてから3年の月日を要して、1984年(昭和59年)5月10日に上梓されたものである。

その構成は、序文に始まり跋文で終わるが、第壱部:岡田藤十郎の教育理念を語る 第弐部:生徒の見た岡田教育 第参部:発表論文と資料 となっている。



入学志望者の父兄諸君に望む  1923(大正12)年1月 東京府立第八中学校長 岡田藤十郎 創立当初の声明

府立第八中学校は大正12年4月から新たに設立されるので私がその校長を拝命しました。
新たなる仕事には新たな方針を定めて取り掛からねばなりません。
私は次に述べる方針で次代の府民の育成のために誠意誠心微力をつくしたいと思います。
最愛の子弟を当校に入れようとなさる父兄諸君は予めその方針を御諒解くださることを望みます。
【1】中学教育は必ずしも高級学校への入学準備をのみ目的とする教育でないことは申すまでもありません、特に府民の租税によりて経営する府立中学校では府民一般の子弟に対しなるべく入学の機会を均等にすることを本旨とせねばならぬはずであります。
 学校教育の必要を痛切に感じるものは特殊な秀才でなくて普通一般のものであります、特に今の時勢は少数有識階級の者が多数無識階級の者を愚民として支配した昔の時代とはよほど趣を異にし一般民衆の理解力を進め知見を向上発展することが極めて必要になってきたのであります。
 普通選挙も早晩実施されねばならぬことは明らかであるがその結果がいかになるかは一般民衆の知見の発展の程度と理解力の進歩の程度如何によって定まるのであって、教育なく修養なき多数愚民の政治は国家を破滅に導く恐るべき悪政に堕することは申すまでもありません。
 今後の普通教育特に社会の中堅人物を養成する高等普通教育に於いてはこの点に着眼して一切の施設を進めねばなりません、生徒たちに因襲に囚われ秀才教育にのみ腐心して一般民衆の啓発を顧みぬごときは時代錯誤であります。
 されども理解ある一般民衆の中心に立ちてこれを指揮し誘導する者は天分を有する秀才の任務であるから秀才教育も軽視してならぬことは無論であって、要は秀才を逸せず普通一般の者をも忘れず各々その才能を発揮して本分を全うせしむるにあるのであります。
【2】極端なる入学準備教育の弊害については当局者も父兄も学校当事者も皆常に憂慮し慨嘆しているのであります、それにも関わらずこの弊風は年と共にますます甚だしくなる傾向があります。
その原因は種々ありましょうが因襲に囚われ姑息に安んじあえて改むることに努めぬのが第一の原因であると思います。
 それで私は試みに下記の方法を採用し幾分にてもこの弊風を緩和することに貢献してみたいと思います。
 (1)入学試験の学力考査はなるべく簡単にし、小学課程の範囲と程度を一歩も超えぬように注意して考査することにいたします。
 (2)身体検査の結果にも充分に注意し過度にして不当なる教育のため甚だしく健康を害しているもの如きも健全優良なる身体とは認めぬことにいたします。
 (3)学力考査の成績も身体検査の結果も上中下の三等に区別し、下と認める者は不合格としその他を総じて合格といたします。
 (4)合格者の中で学力身体共に上の者を甲種合格としてその他を乙種合格といたします。入学者採定の順序はまず甲種合格者を採り次に乙種合格者を採ることとし、いずれの場合にも同種の合格       
   者の数が所要の定数を超えるときは抽選により採否を定めることにいたします。
 (5)心理的考査(メンタルテスト)の方法で能力を判定することは入学試験には当分採用いたしません。
 (6)口頭試問の方法によって志操性格を判定することは当分採用いたしません。ただし小学校長の所見を参酌し甚だしく他人に悪影響を及ぼす恐れありと認める者は不合格といたします。
   この方法によればなるべく入学の機会を均等にすることを原則とするけれども各自の努力の結果をも相当に認めることになり、秀才を逸する恐れが少ないと共に一面にはまた健康を害すること 
   も顧みず、小学教育の本旨を無視してまでも過度にして変則なる準備教育をなす弊風を幾分か緩和することができると信じます。
【3】相互信頼の情誼の欠乏することは公私上下を通じて現代社会一般の弊風であります。教育の仕事は子弟間の相互信頼の情誼を根底として始めてよい成績があがるものであり、普通教育は社会改善の先駆とならねばならぬ責任があるという立場から考えて、私は「信用第一」ということを教育の根本方針といたします。それで私は教職員は無論、生徒ひとり一人の人格を平等一様に尊重し絶対に信用いたします。すべて真正面から督励して積極的に教育することに務め、裏面から監視して欠点短所を補正することのみに腐心するような消極的な教育はなるべく避けたいと思います。人は自己の能力を信じ自己の人格をみとめることにより始めてよく発展もし責任をも感じるものであると言うところから考えても此のことは教育上最も重要なことであると信じます。
【4】人間の本性は善か悪かまたはどちらつかずか、言い換えると白か黒か灰色かということは昔から定まったことのない問題であります。しかし人間を教育するからにはどちらにか定めてかからねば教育の筋目が立たぬと思います。それで私は人の本性は善なりと仮定してその方針で教育いたします。人は完全か不完全か、言い換えると人は無瑕か瑕物かということも見方によりいずれとも考えられます。この点についても私は無瑕と仮定しその所に教育可能性の本源を認めて教育いたします。大切な玉を無瑕のままに磨き上げ、大事な苗を無瑕に育てあげるという考えで教育したいと思います。つまり訓練も教授も外部から何か善きもの完きものをつけくわえるのではく人間固有の全善性全能性を成長させ発展させるように助力し指導するという考えで教育したいと思うのであります。
【5】大器晩成ということは意味深き言葉であると思います。日本国民が一般に早熟早老の傾向があり、体力も比較的劣等であることから考えるとこのことは特に考慮する必要があると信じます。
一年早く教育して十年早く死なすより、一年おそく世に出して十年長く活動する方が本人のためにも社会のためにもどれほど幸福であり利益であるか分かりません。急がば回れとも申します、私は大望を遠き将来に置いて急がず迫らず現在の一歩一歩を堅実に進めていきたいと思います。あわただしく大急ぎの教育は人の子を墓場においやるようなものであると思います。
 早熟的な素質ある子弟を持ちたる父兄方は特にこの点を考慮して最愛の子弟の前途を誤ることなきように予めご注意なさることを望みます。
以上を新設第八中学校の根本方針と定め一切の施設をこの方針により行うことにいたしたいと思います。
 最愛の子弟を当校に入学させようとなさる父兄諸君は何卒この方針をお認めの上出願されることを切に希望いたします。
 



エピソード

岡田校長時代

  小山台高校は大正十二年四月開設の府立八中が韮礎となっている。初代校長岡田藤十郎先生により教育方針・職員組織・教育課程を始め制服・制帽その他一切の基本的な事項が定められ、約十四年間育ち盛りの男子を対象として実施せられた。岡田校長は人性を善と仮定し、自他人格の尊重を基調とし、強圧的な団体規制には消極的な合理主義的で、独創力に富んだ非常に固い信念の人柄であった。在職十三年余の八中教育はこうした先生の性格の発露であって、学校経営の色々な面において当時はもとより現在でも、其処此処に見られるような教育と異なり、著しい特色があった。入学者選抜に際しては試験成績の優秀者のみを採るのでなく、相当の成績を得た者には入学の機会を与えようと、合格者を甲・乙二種とし、乙種合格者については抽裁により入学者を定めるという方法を続けた。こうして最初の入学者は一年間三木小学校で指導せられ、この間に「八中八中われらの八中」という校歌も制定せられた。生徒指導に当たっては、生徒を善いもの立派なものとして取り扱い、監督はするが、監視はしないという方針を貫かれ、後に図書室を設けた時も、当時ほとんど例のなかった自由閲覧制度を採ったことは進歩的英断という外なく、読書後は必ず元の位置に返すよう奨励し、如何なる場合にも復旧ということが強調せられた。学業成績の評定は上・中・下の三段階に区別するに止め、学年成績も甲・乙・丙・丁の四段階で示された。そして修身・体操・唱歌はこれを除外したことは知育万能の教育に一大警告を与えたものといえよう。しかし知育を軽視したのではなく、理解・一記憶には徹底を期し、常に練習を行ない、発表の機会をなるべく多く与えるようにした。試験に類することもすべて練習と言い、こうしたすべての結果を総合して成績を評価したのである。身体の発育については先生考案の充実指数を用い、指数十二を以て標準とし、毎月全生徒の身長・体重を測定し、指数の動きに注意せられた。そして体育としての水泳に力を入れ、早くから多摩川や中野方面のブールで全校生徒にこれを行なわせた。しかし校外に出ることははなはだ不便であったので、現存のプールを新設し、時間割に組み込み、校内で不自由なく水泳を行なうこととした。先生がしばしばプールのデッキに出られ、生徒が水と取り組む姿をニコニコと観ておられた姿が今も目前にちらつく。競技としては野球は厳禁、柔道も行なわなかったが、サッカーと剣道は奨励し、下丸子多摩川の川敷を借りて広大な運動場を設けたのも先生の時と記憶している。先生は全員表彰主義を採り、体育賞・学業賞・操行賞及び特別賞を設け、自ら考案せられた銀の雫ハッジを襟につけさせ、一月交替で該当者を表彰、一年の間には全員が何れかの点で表彰せられることとせられたのは特色中の特色であったと思う。三木小学校時代の関東大震火災は後年の戦災と共に終生忘れ得ない大事件であった。被災を免れた一年生徒は職員共々衣類を持ち寄り、トラック二台に積み込み、江東方面の被災者を慰問したことは、最も深い印象の一つとなっている。現在の古い校舎は震災後から大正十四年度末までに建築せられ、この種の学校建築としては試作品であったと言えなくもない。学級数二十九に対し、すべての特別教室も加えて二十八を設けたことは、教室の使用度を最高に経済的にしようとの考えによったもので、随分きゅうくつな思いをしたことは誰にも想像し得られよう。大正十四年春創立記念日を五月五日と定め、翌年の同日落成祝賀開校記念式を挙げた。この日全生徒職員に紅白の大鰻頭を配ったが童いつか八中鰻頭と称えるようになり運動会等行事の時の祝品として長く用いられた。八中鰻頭と共に忘れ得ないものに五月の屋上に掲げられた大鯉幟がある。何れも岡田校長が生徒に寄せる愛情の発露であったといえよう。こうした教育の中に生徒はのびのびと成長し、第一回の卒業生により、学校の象徴たる校旗が寄贈せられた。施設としては後に工作室・図書室を増築し植樹も次為に行なわれた。今も小山台に景観を添える銀杏・椎・ヒマラャシーダなどは岡田校長時代に植えられたもので、御大典記念の大植は台風に折られ、春の弥生に武蔵小山の花の名所となった桜は戦災を受けて今は僅かに二、三基の名残りをのみ残し、当時を知る者にとって誠に寂しい思いをさせている。(四十周年沿革史より抜粋)

関連項目

着任:1923年1月20日
退任:1937年11月11日
在任 後任

1923年度 (大正12年度)

1924年度 (大正13年度)

1925年度 (大正14年度)

1926年度 (大正15年度)

1927年度 (昭和 2年度)

1928年度 (昭和 3年度)

1929年度 (昭和 4年度)

1930年度 (昭和 5年度)

1931年度 (昭和 6年度)

1932年度 (昭和 7年度)

1933年度 (昭和 8年度)

1934年度 (昭和 9年度)

1935年度 (昭和10年度)

1936年度 (昭和11年度)

1937年度 (昭和12年度)

中島 嘉之吉







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脚注: 

2024年2月19日:直近編集者:Adminkoyama100
TimeStamp:20240219143928