1922年度 (大正11年度)

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
2023年8月31日 (木) 17:53時点におけるAdminkoyama100 (トーク | 投稿記録)による版 (→‎1922(大正11)年度)
ナビゲーションに移動 検索に移動

(編集中) (編集完了)

1922(大正11)年度

以下の表にDropbox保管のExcelファイルより転記すること。

こちらをダウンロードして、Excelから起動して転記する

できごと 詳細・引用・寄稿
8月24日



3月



3月

東京府荏原郡平塚村小山ニ本校ヲ設置シ 1923(大正12)年4月ヨリ開校ヲ認可セラル



青山師範学校(現東京学芸大学=赤坂区青山北町5丁目)内で東京府荏原郡平塚村小山東京府立第8中学校入学試験を行い、志願者1,047名、入学許可者281名
目黒-田園調布-蒲田を結ぶ目蒲線が全通

ダミーテキスト ダミーテキスト

 ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト
ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト
ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト
ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト
ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト
(「XX周年記念誌」PYY)

ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト
 ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト
 ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト その後弁論班にも入って多くの先輩達の教えを受けたことも今ではなつかしい想い出である。
(「創立XX周年記念誌」PYYY)

世 相
5月XX日

7月XX日

流行語
流行歌

〇〇〇〇〇〇〇〇

〇〇〇〇〇〇〇〇

〇〇〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇〇〇



できごと

(編集中)

1922(大正11)年 8月24日 東京府荏原郡平塚村小山ニ本校ヲ設置シ 1923(大正12)年4月ヨリ開校ヲ認可セラル
1923(大正12)年春 青山師範学校(現東京学芸大学=赤坂区青山北町5丁目)内で東京府荏原郡平塚村小山東京府立第8中学校入学試験を行い志願者1,047名、入学許可者281名
1923(大正12)年 3月 目黒-田園調布-蒲田を結ぶ目蒲線が全通


50周年記念誌(P106)より



地 誌


1923年(大正12年) 8中創立前の学校付近

江戸時代の小山は幕府の直轄領
 小山村は江戸時代に近隣の大井村、中延村、上・下大崎村、桐谷村と共に徳川氏の直轄領であり代官が支配していた。
 目黒川の沿岸には、せまいながらも一帯に水田が開け、武蔵野原にはめずらしし、米産地だったといわれる。一方目黒区碑文谷あたりから流れる小川に、品川用水のあまり水が落ちていた立会川のため中延あたりは早く開けたようである。
 学校の北を東南に流れる品川用水は元禄4年(1691)に幕府の命でつくられたもので、用水は多摩郡境村で多摩川の水を分水して流し、戸越村で二つにした。一つは桐ヶ谷・大崎の村を流れ品川町付近で目黒川に落ち、もう一つは中延村を経て立会川に落ちていたかんがい用水である。
小山という地名の由来
 江戸時代の郷名帖には仮名で「ヲヤマ」とあるらしい。やがて多摩川筋の「ヲヤマ」(尾山)とまちがわぬよう当方は小山と当て字して「コヤマ」と呼ぶようになったかと思う。小山本通りに近い三谷八幡は、元禄のころに小山八幡社から分かれたという。すなわち新編武蔵風土記稿には「元禄の末小山村高269石余り、以前は50石許り」とある。

 元禄ごろに人口急増、経済力も増大したので新開地の三谷に新しく八幡社を分けて小山八幡となった。
 立会川と目蒲線が交叉するところに西小山駅と商店街がある。この付近は小山田圃とよばれた水田があって、ここが小山集落の発祥地らしい。地名も字本村と呼ばれた。駅の南方3,4分の所に洗足方面の岡の一角がつきでて川にのぞみ、その上に矢幡社が祀られ、小山八幡(別名本村八幡)といわれる。(40周年誌・都築秀徳氏稿より)

明治時代は平塚村大字小山
 大政奉還後、将軍直轄領は新政府の直轄地となり、府県が置かれた。このとき品川は武蔵県となったが、明治2年(1869)に武蔵県は廃止され品川県となり小山はその中にはいった。
 明治4年、品川県は廃止され、改めて東京府が設置され品川は東京府にはいり、小山は東京の一部となった。
 明治21年に施行された町村制により品川宿6ヵ村は品川町となり、大崎5ヵ村に今の白金猿町の一部が合併して大崎村、大井地区は大井村、荏原5ヵ村は平塚村となり1町3ヵ村の品川地区ができあがり、小山は平塚村大字小山となった。
 大正12年9月1日の関東大震災では、さいわい被害がきわめて少なかったので、震災で焼け出された人々が移って住むようになり、しだいに田畑が住宅地に変わってきた。
 昭和2年に平塚町を荏原町と改称し、昭和7年1月に東京市隣接5郡が東京市に編入することになり荏原町は荏原区となって、小山は荏原区小山町となった。(品川区勢概要より)



小山は大震災直後から発展した

大正末~昭和初期の小山本道略図(40周年記念誌)
1973年(昭和48年)の小山台高校付近 (日地販より)

 小山本通りは小山銀座通りとともに、震災直後から急速に発展したが、大正14年頃には飾りつけの良い商店は駅に近い、1,2,3丁目までで、4丁目は家もまばらとなり、空地も多く風に吹きさらされ、両側の畑地には笥林の残りもちらほらしていた。
 本通り末端部、すなわち4丁目の北側に小さいながら10数軒の商店がならび、古びた片側町を作っていた。これは平塚橋を中心とする古い農業集落を顧客とするもので、1,2丁目の駅周辺のお客相手の商店街とは雰囲気を異にしていた。本通り中間の空白地帯も昭和3年頃にできた本通り市場、昭和6年の映画電気館(現荏原武蔵野館)が客を呼び徐々に商家が混んできた。昭和4年に川崎第百銀行(現大丸百貨店)、昭和5年に東京電灯出張所(現東電品川支所)ができて町に重みが加わった。
 本通り550mの町筋は漸く1本の商店街に発展し、銀座通りを引離す町勢となった。本通りは電車線路に直交するため交通量の多いことが発展の要因である。
 昭和20年5月10日、24日の米機B29大空襲の業火で小山は灰燼となった。8中も翌払暁講堂・体育館およびこれに接続した靴置場・便所を焼かれてしまった。
 戦後昭和22年に新しい日本国憲法、地方自治法が施行され、荏原は品川に合併され品川区となり、学校は品川区小山3丁目25番地となった。
 昭和41年より町名表示変更により3丁目3番32号となり現在に至っている。











生徒の見た小山付近の変遷
 当時、8中の生徒であった伊藤平次君と山田毅一君の作文は小山の景観を次のように述べている。(校友会雑誌第6号・10号より)

荏原郡の交通と町の発達
 今の小山付近にしてもただ平々坦々たる田畑のつづきであった。大正10年頃だったかに目黒蒲田電車が先づ蒲田を起点として多摩川に沿うて調布から目黒に出たのであった。その頃度大正12年に関東大震災があって、蔵前高等工業が大岡山に移り、わが第8中学も建築中であったので、これらの学校の近所にぽつぽつ家ができはじめたのが元で、避難民が多く山手方面からきてからいつか郊外に住まう様になった者も少なくないのである。
 震災後にばかに発展しはじめたのがそもそも今の小山付近の瓦の波。武蔵小山を中心として建った家は段々とその数を増して遂に戸越・大井と連絡して町の一大連鎖を造ったのである。小山付近の家並は続いて碑文谷、洗足台の方へ続き、ここに西小山駅の増設にまで至った。
 また目黒川沿岸の地帯はついこの間までは、目黒たんぼと云ってたんぼだったものだが、環状道路ができかかる頃から、大崎五反田方面から埋まって不動前付近は一面の家、また目黒付近にも大分増えてきたからここに一つの大きな町の続きができるわけだ。
 かくの如くにして荏原郡は大した発達を見せている。人口にしても大したもので今ではざっと50万はあるでしょう。見よ朝の小山の混み方、一つは交通の発達、一つは震災のお蔭だ。そうしてこんな郊外にかくも立派な町が生れたわけだ。(昭和4年9月5日 5B 伊藤 平次:中3回)

小山の思い出(学校の10周年に当たって)
 秋になって猟の解禁となると、鉄砲打ちがよくやって来たものだ。そんなにさびれてゐたのがこの付近であった。今から14~5年前のことである。
 付近一帯全部畠で、麦や陸稲が秋には美しい黄金の波を作ってうねっていた。「案山子」が番をして、鳴子がカラカラと雀を追っている。夕方になると夕食の煙が森の上に、紫色に立ち上っていた。農夫は家路に就く。日が募れると、ポツポツ灯火が見えるだけであった。斯くして夜が深けてしまうと聞こえるものはただ虫の声。その次の日も、また次の日も、実に単調に暮れてしまった。
 学校は、僕の記憶している範凹では只一つで、袴をはかない鼻垂れ小僧が多かった。そして土地以外の者が来ると皆がじろじろと見たものだ。言葉まで凡そ田舎びていた。大声で、べちゃべちゃしゃべってゐた者が、昨年から大東京市民になったのだからあきれる。
 未だ学校に行かなかった僕は、毎日この畠の付近や大根の洗場である小さな小池で、メダカを取ったりして遊んだ。しかし暫くして僕達のよい遊び場は皆うづめられていった。トロッコが後から後から砂を運んで来た。何になるんだろうと思ってゐた。そのうちに赤土の土手が長く長く続いて行った。枕木が敷かれ始めた。電車が通るんだな、と思った時にはなんだか嬉しいような気がした。
 セメントを流すための鉄の塔が森よりも高く立てられた。グルグルと砂とセメントが混合されて上から流れ出て来た。ガーガーとその音が静かな田園の空気を引き裂いた。電鉄が開通し始めたのはそれからずっと後だ。小山駅(元は武蔵小山といわなかった)といっても名ばかりで、土を高くした丈けであって改札なんて無かった。
 白い大きな建物が半分できかけたときに、あの地震だ。倒れるような家もなかった。被災者がやって来る。家が建ち始める。道路が作られる。畠が段々無くなる。震災が小山を都会にした。それから10年後、家はもう飽和状態である。昔、雲雀の鳴いた所、雲雀の声はチンドン屋の雑音に敗かされてしまった。緑色から黒色に。屋上から見ることのできるだけでも学校7つ、映画館6つ、煙突数10本。バーができる、デパートができる。一体どうなるんだ、末恐ろしいことだ。(昭和8年9月 5E 山田 毅一:中7回)













<







関連項目

 * ← 1921年度 (大正10年度)   * → 1923年度 (大正12年度)


 ↑ページトップ   ↑↑ メインページ「年度別アーカイブ」へ移動

脚注




2023年8月31日:直近編集者:Adminkoyama100
TimeStamp:20230831175328