トーク:1922年度 (大正11年度)

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
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1922(大正11)年度

できごと 詳細・引用・寄稿

 


第8番目で第8中学校ときまる
 当時府立中学校は創立順序に従って数字で校名を表わしていたので、本校は第7番目の現墨田川高校の次に創立されたため、「東京府立第8中学校」略して「8中」となった。
(「50周年記念誌」P26)

校章は開校前にきめられていた
 8中の桜の帽章は開校以前岡田校長によって決定された。1923(大正12)年1月、岡田校長が任命されると、職員採用にも先立って校長の前任校青山師範学校の図画担任赤津先生と相談して決定したものである。当時は帽章のみで襟章はなく、襟には学年とクラス名のみをつけた。
(「50周年記念誌」P26)
鯉幟・万国旗・応援バック
 8中は5月5日の開校記念日に小運動会、秋11月に大運動会を行なった。小運動会では、鯉幟を掲揚し、運動場に万国旗を張った。秋の場合は、万国旗だけが掲揚された。戦後4色組分けの運動会が実施されるようになると、生徒の控席が、各色組の応援団席となり、生徒の創意によって、約畳4枚程のバック絵が作られ、応援席の背後に掲揚された。万国旗は、1965(昭和40)年頃いたみと各国の国旗が揃っていないことなどでその姿を消した。青空にはためく旗、雨に濡れていた旗、今は万国旗は遠い思い出となった。
(「50周年記念誌」P26)

校歌には8中精神をよみこんである
  8中校歌は創立の年に本校国漢科教諭の臼杵東嶼先生によって作詞され、音楽科嘱託の松園郷美先生によって作曲された。簡潔で明快、力強い校歌で、1951(昭和26)年現在の校歌ができるまで8中校歌として愛唱された。  作詞者臼杵束嶼先生は創立当初から在職された方で、本年83歳になられ、大阪府豊中市の自宅に御健在である。このたび50周年史編集に当たって.次のような書簡を寄せられた。  岡田校長から、校歌を作ったらどうかとの話があり(開校の翌年か)、国漢科の先生方にたのみましたが、どなたからも草案が出ないので、私が科の主任でもあった関係から、草案のつもりで作ったのを、先生方もこのままでよくないかということだったので、これを校長に出したところ、校長にも別に異見はなくて、そのまま決まったような次第です。校長は体育には非常に熱心であったので、それはそれとして結構ですので、私は精神の方をもと考えて作りました。各節の折返しに「8中」を3回も出したのは、私が早稲田の校歌を好んでいたことに、無関係ではないようです。発表会というものがあったかどうか記憶がありません。多分作曲者の松園先生が、音楽の時間に教えたものと思います。(中略)全校生徒が必ず合唱するのは運動会の終了時だったように思います。 (昭和47年10月4日付書簡)

府立第八中学校校歌

1.富士の雄姿を 望む学舎
 小山にありて ゆるがぬ心
 八中八中 我等の八中
2.富士の雄姿を 望む学舎
 不動にとりて 不壊(ふえ)金剛心
 八中八中 我等の八中
3.富士の雄姿を 望む学舎
 玉川くみて 曇らぬ心
 八中八中 我等の八中

  栗原 源七 作詞
平井 康三郎 作曲

(「創立50周年記念誌」P28)

世 相
5月XX日 〇〇〇〇〇〇〇〇

7月XX日 〇〇〇〇〇〇〇〇


流行語 〇〇〇〇〇〇〇〇