「1922年度 (大正11年度)」の版間の差分

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
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'''生徒の見た小山付近の変遷'''
'''生徒の見た小山付近の変遷'''
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 当時、8中の生徒であった伊藤平次君と山田毅一君の作文は小山の景観を次のように述べている。(校友会雑誌(6号・10号より)
 当時、8中の生徒であった伊藤平次君と山田毅一君の作文は小山の景観を次のように述べている。(校友会雑誌第6号・10号より)
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'''荏原郡の交通と町の発達'''
'''荏原郡の交通と町の発達'''

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(編集中) (編集完了)

1922(大正11)年度

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できごと 詳細・引用・寄稿
4月X日

4月X日
4月XX~XX日
5月 4日
5月XX日
5月XX~XX日
5月XX日
6月XX~XX日
6月XX日
7月X~XX日
7月XX日
8月XX~XX日


9月1日
9月2日~4日
9月9日~11日
9月XX~XX日
10月X日
10月XX~XX日
11月XX~XX日
11月XX日~XX日
11月XX
12月XX~XX日
12月XX日


1月X日
1月X~XX日
1月XX日
1月XX日
3月X~XX日
3月8日
3月XX日

入学式 中2回生(男子XXX名)

始業式
健康診断
開校記念日
春の遠足
中間考査
PTA総会
3年ア・テスト
生徒総会
期末考査
終業式
林間学校


始業式
ア・テスト
水泳大会
文化祭
運動会、X・X日代休
中間考査
2年修学旅行
3年ア・テスト
生徒総会
期末考査
終業式


始業式
1・2年ア・テスト
3年ア・テスト
ロードレース
期末考査
終業式

ダミーテキスト ダミーテキスト

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ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト
ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト
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(「XX周年記念誌」PYY)

ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト
 ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト
 ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト その後弁論班にも入って多くの先輩達の教えを受けたことも今ではなつかしい想い出である。
(「創立XX周年記念誌」PYYY)

世 相
5月XX日

7月XX日

流行語
流行歌

〇〇〇〇〇〇〇〇

〇〇〇〇〇〇〇〇

〇〇〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇〇〇



できごと

(編集中)

8月24日 東京府荏原郡平塚村小山ニ本校ヲ設置シ 1923(大正12)年4月ヨリ開校ヲ認可セラル
3月:目黒-田園調布-蒲田を結ぶ目蒲線が全通


50周年記念誌(P106)より





地 誌


1923年(大正12年) 8中創立前の学校付近

江戸時代の小山は幕府の直轄領
 小山村は江戸時代に近隣の大井村、中延村、上・下大崎村、桐谷村と共に徳川氏の直轄領であり代官が支配していた。
 目黒川の沿岸には、せまいながらも一帯に水田が開け、武蔵野原にはめずらしし、米産地だったといわれる。一方目黒区碑文谷あたりから流れる小川に、品川用水のあまり水が落ちていた立会川のため中延あたりは早く開けたようである。
 学校の北を東南に流れる品川用水は元禄4年(1691)に幕府の命でつくられたもので、用水は多摩郡境村で多摩川の水を分水して流し、戸越村で二つにした。一つは桐ヶ谷・大崎の村を流れ品川町付近で目黒川に落ち、もう一つは中延村を経て立会川に落ちていたかんがい用水である。
小山という地名の由来
 江戸時代の郷名帖には仮名で「ヲヤマ」とあるらしい。やがて多摩川筋の「ヲヤマ」(尾山)とまちがわぬよう当方は小山と当て字して「コヤマ」と呼ぶようになったかと思う。小山本通りに近い三谷八幡は、元禄のころに小山八幡社から分かれたという。すなわち新編武蔵風土記稿には「元禄の末小山村高269石余り、以前は50石許り」とある。

 元禄ごろに人口急増、経済力も増大したので新開地の三谷に新しく八幡社を分けて小山八幡となった。
 立会川と目蒲線が交叉するところに西小山駅と商店街がある。この付近は小山田圃とよばれた水田があって、ここが小山集落の発祥地らしい。地名も字本村と呼ばれた。駅の南方3,4分の所に洗足方面の岡の一角がつきでて川にのぞみ、その上に矢幡社が祀られ、小山八幡(別名本村八幡)といわれる。(40周年誌・都築秀徳氏稿より)

明治時代は平塚村大字小山
 大政奉還後、将軍直轄領は新政府の直轄地となり、府県が置かれた。このとき品川は武蔵県となったが、明治2年(1869)に武蔵県は廃止され品川県となり小山はその中にはいった。
 明治4年、品川県は廃止され、改めて東京府が設置され品川は東京府にはいり、小山は東京の一部となった。
 明治21年に施行された町村制により品川宿6ヵ村は品川町となり、大崎5ヵ村に今の白金猿町の一部が合併して大崎村、大井地区は大井村、荏原5ヵ村は平塚村となり1町3ヵ村の品川地区ができあがり、小山は平塚村大字小山となった。
 大正12年9月1日の関東大震災では、さいわい被害がきわめて少なかったので、震災で焼け出された人々が移って住むようになり、しだいに田畑が住宅地に変わってきた。
 昭和2年に平塚町を荏原町と改称し、昭和7年1月に東京市隣接5郡が東京市に編入することになり荏原町は荏原区となって、小山は荏原区小山町となった。(品川区勢概要より)



小山は大震災直後から発展した

大正末~昭和初期の小山本道略図(40周年記念誌)
1973年(昭和48年)の小山台高校付近 (日地販より)

 小山本通りは小山銀座通りとともに、震災直後から急速に発展したが、大正14年頃には飾りつけの良い商店は駅に近い、1,2,3丁目までで、4丁目は家もまばらとなり、空地も多く風に吹きさらされ、両側の畑地には笥林の残りもちらほらしていた。
 本通り末端部、すなわち4丁目の北側に小さいながら10数軒の商店がならび、古びた片側町を作っていた。これは平塚橋を中心とする古い農業集落を顧客とするもので、1,2丁目の駅周辺のお客相手の商店街とは雰囲気を異にしていた。本通り中間の空白地帯も昭和3年頃にできた本通り市場、昭和6年の映画電気館(現荏原武蔵野館)が客を呼び徐々に商家が混んできた。昭和4年に川崎第百銀行(現大丸百貨店)、昭和5年に東京電灯出張所(現東電品川支所)ができて町に重みが加わった。
 本通り550mの町筋は漸く1本の商店街に発展し、銀座通りを引離す町勢となった。本通りは電車線路に直交するため交通量の多いことが発展の要因である。
 昭和20年5月10日、24日の米機B29大空襲の業火で小山は灰燼となった。8中も翌払暁講堂・体育館およびこれに接続した靴置場・便所を焼かれてしまった。
 戦後昭和22年に新しい日本国憲法、地方自治法が施行され、荏原は品川に合併され品川区となり、学校は品川区小山3丁目25番地となった。
 昭和41年より町名表示変更により3丁目3番32号となり現在に至っている。











生徒の見た小山付近の変遷
 当時、8中の生徒であった伊藤平次君と山田毅一君の作文は小山の景観を次のように述べている。(校友会雑誌第6号・10号より)

荏原郡の交通と町の発達
 今の小山付近にしてもただ平々坦々たる田畑のつづきであった。大正10年頃だったかに目黒蒲田電車が先づ蒲田を起点として多摩川に沿うて調布から目黒に出たのであった。その頃度大正12年に関東大震災があって、蔵前高等工業が大岡山に移り、わが第8中学も建築中であったので、これらの学校の近所にぽつぽつ家ができはじめたのが元で、避難民が多く山手方面からきてからいつか郊外に住まう様になった者も少<ないのである。

 震災後にばかに発展しはじめたのがそもそも今の小山付近の瓦の波。武蔵小山を中心として建った家は段々とその数を増して遂に戸越・大井と連絡して町の一大連鎖を造ったのである。小山付近の家並は続いて碑文谷、洗足台の方へ続き、ここに西小山駅の増設にまで至った。
 また目黒川沿岸の地帯はついこの間までは、目黒たんぼと云ってたんぼだったものだが、環状道路ができかかる頃から、大崎五反田方面から埋まって不動前付近は一面の家、また目黒付近にも大分増えてきたからここに一つの大きな町の続きができるわけだ。
 かくの如くにして荏原郡は大した発達を見せている。人口にしても大したもので今ではざっと50万はあるでしょう。見よ朝の小山の混み方、一つは交通の発達、一つは震災のお蔭だ。そうしてこんな郊外にかくも立派な町が生れたわけだ。 (創立50周年記念誌:昭和4年9月5日 5B 伊藤 平次:中3回)
















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関連項目

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脚注




2023年8月31日:直近編集者:Adminkoyama100
TimeStamp:20230831173312