「伊藤 太一郎」の版間の差分

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
(同じ利用者による、間の1版が非表示)
25行目: 25行目:
   昭和44年は、学校紛争の波が大学から高校に及んで来て、各都立高はその渦中に激しく揺れ動いた年であった。この秋小山台高校も不穏な動きが見られたが、教育に対する強い信念を持つ教職員の団結と根気強い努力により生徒との話し合いの姿勢をくずさず、掲示と集会等の問題について生徒総会において討論が重ねられ、それらの論議から「掲示・集会等に関する規定」およびこれに関連する「協議会規定」が作られた。これによって学校紛争の危機は回避されたのである。このような事態に対処して、小山台高校の教職員のすぐれていること、生徒諸君も良識ある生徒であることを痛感し、改めて小山台高校の伝統の重さを思い知らされたことである。ここに小山台高校60周年を迎えて、校舎の改築も殆ど成り、校運は更に一層の飛躍と発展を見せることと思うにつけ、私の在任の六年の間は、いろいろなことはあったにせよこの上なく幸福であり、栄光の日々であったと思う。(第七代校長 昭和42~48年在職)(60周年記念誌より)
   昭和44年は、学校紛争の波が大学から高校に及んで来て、各都立高はその渦中に激しく揺れ動いた年であった。この秋小山台高校も不穏な動きが見られたが、教育に対する強い信念を持つ教職員の団結と根気強い努力により生徒との話し合いの姿勢をくずさず、掲示と集会等の問題について生徒総会において討論が重ねられ、それらの論議から「掲示・集会等に関する規定」およびこれに関連する「協議会規定」が作られた。これによって学校紛争の危機は回避されたのである。このような事態に対処して、小山台高校の教職員のすぐれていること、生徒諸君も良識ある生徒であることを痛感し、改めて小山台高校の伝統の重さを思い知らされたことである。ここに小山台高校60周年を迎えて、校舎の改築も殆ど成り、校運は更に一層の飛躍と発展を見せることと思うにつけ、私の在任の六年の間は、いろいろなことはあったにせよこの上なく幸福であり、栄光の日々であったと思う。(第七代校長 昭和42~48年在職)(60周年記念誌より)
<br><br>
<br><br>
       '''青春紀'''       
             
  青春とはなにか。青春とはいつを言うのか。わたしの青春時代と言えば、どの時代を指しているのか。青春時代と呼ぶにふさわしい時代が、私にあったのだろうか。幼い少年の日から目まぐるしく変転した青年の日々が、真に青春の名に価するのであろうか自問するわたし自身にも判定しがたいきもちがする。思い出は、薄ら日の光のように、はかなくとどめがたいかすかな残像にすぎない。
 
==青春記==
:青春とはなにか。青春とはいつを言うのか。わたしの青春時代と言えば、どの時代を指しているのか。青春時代と呼ぶにふさわしい時代が、私にあったのだろうか。幼い少年の日から目まぐるしく変転した青年の日々が、真に青春の名に価するのであろうか自問するわたし自身にも判定しがたいきもちがする。思い出は、薄ら日の光のように、はかなくとどめがたいかすかな残像にすぎない。
先年、ふるさとの町に帰ったが、もともとよそ者の集まりのようなこの町の人々に、昔を思い出すよすがはなく、疎外された孤独の旅人の思いをしみじみと感じたものだった。けばけばしく俗化したこの町は、遠い異国のようなとりつきようのない感じに満ちていた。しかし、自然の山や海は、年若い日の、はかない悔恨や憧憬につながる何ものかを失ってはいなかった、南国の海の藍青、高い山に限られた澄明な空の色をみていると、いつとはなく身も心もタイムトンネルの空洞を越えて、再び回収されることのない青春の時代にさまよう思いであった。
先年、ふるさとの町に帰ったが、もともとよそ者の集まりのようなこの町の人々に、昔を思い出すよすがはなく、疎外された孤独の旅人の思いをしみじみと感じたものだった。けばけばしく俗化したこの町は、遠い異国のようなとりつきようのない感じに満ちていた。しかし、自然の山や海は、年若い日の、はかない悔恨や憧憬につながる何ものかを失ってはいなかった、南国の海の藍青、高い山に限られた澄明な空の色をみていると、いつとはなく身も心もタイムトンネルの空洞を越えて、再び回収されることのない青春の時代にさまよう思いであった。
 その頃は、中学のある隣の町から、汽車に乗らないで、歩いて帰ることがよくあった。毎日マラソンのコースになる海沿いの道は、学校から10キロもあったろう。まだ、野猿が、人馴れていなかった山の裾をまわると、いで湯の町の各処にはのどかな湯煙が立ち昇り、町のうしろにそびえる火山群は、午後の陽光にとけてゆくようにのどかであった。海はいつもとろりとした藍青の深きに静まり、慶長の昔の天変地異に、湾内深く沈んでいったという島の、石だたみの道や村の家のいらかがよく晴れた日には、海底に光って見えるという漁師の話を思い出す。日曜には、町の郊外にある露天の大仏の腹の中で、友人と遊んだり、勉強したりすることが多かった。奈良の大仏よりももっと大きいコンクリート造りの大仏を、友人の叔父にあたる人は、観光用に造り上げたらしい。
 その頃は、中学のある隣の町から、汽車に乗らないで、歩いて帰ることがよくあった。毎日マラソンのコースになる海沿いの道は、学校から10キロもあったろう。まだ、野猿が、人馴れていなかった山の裾をまわると、いで湯の町の各処にはのどかな湯煙が立ち昇り、町のうしろにそびえる火山群は、午後の陽光にとけてゆくようにのどかであった。海はいつもとろりとした藍青の深きに静まり、慶長の昔の天変地異に、湾内深く沈んでいったという島の、石だたみの道や村の家のいらかがよく晴れた日には、海底に光って見えるという漁師の話を思い出す。日曜には、町の郊外にある露天の大仏の腹の中で、友人と遊んだり、勉強したりすることが多かった。奈良の大仏よりももっと大きいコンクリート造りの大仏を、友人の叔父にあたる人は、観光用に造り上げたらしい。
しかし、大仏を入れる家を作る資金がなかったので、大仏は露座のままであり、入場料を取って見ようとする人も少なくて荒れはてていた。大仏の胎内は、ラセンの階段と、小さく仕切られた小部屋にわかれ、どことなく冷たく、淡い線香の香りが流れている。その一つの小部屋は、わたしたちの秘密の部屋、読書も勉強もたわいもない遊びも、今となっては、かすかな記憶にすぎない。窓は外から見るとちょうど大仏のヘソのあたり小さく開いて、よく見ないと気がつかない位である。帰省船上で町並みのかなたに小さく見える大仏を見つけ出した時。時の流れを痛いほどに感じたものだ。(小山台新聞52号より 伊藤太一郎校長 青春記)
しかし、大仏を入れる家を作る資金がなかったので、大仏は露座のままであり、入場料を取って見ようとする人も少なくて荒れはてていた。大仏の胎内は、ラセンの階段と、小さく仕切られた小部屋にわかれ、どことなく冷たく、淡い線香の香りが流れている。その一つの小部屋は、わたしたちの秘密の部屋、読書も勉強もたわいもない遊びも、今となっては、かすかな記憶にすぎない。窓は外から見るとちょうど大仏のヘソのあたり小さく開いて、よく見ないと気がつかない位である。帰省船上で町並みのかなたに小さく見える大仏を見つけ出した時。時の流れを痛いほどに感じたものだ。(小山台新聞52号より 伊藤太一郎校長 青春記)
<br><br>


==青春記==
 
:小山台新聞 第52号に掲載されているので、転記すること。
<br>
<br>
<br>
<br>
<br>

2023年11月30日 (木) 17:43時点における最新版

伊藤 太一郎校長

伊藤 太一郎(いとう たいちろう、1967年4月1日 - 1973年3月31日)は、日本の教育者。東京都立小山台高等学校校長(七代)

本校歴

1967年 4月 8日 学校群制度による入学者に対する入学式を挙行する。
1967年 8月27日 校庭の病院側に防球用金網を設置する。 
1967年 11月31日 理科職員室、大職員室の改修を完了する。
1968年 1月27日 補習科終講式挙行、惜しまれながら廃止となる。(設置期間1958年~68年) 
1969年 4月30日 鹿沢寮の敷地及び運動場を含めた借地6,612㎡を250万円で財団法人小山台が買収取得する。
1969年 10月23日 全国の高校で起こっている学校紛争の余波を受け、生徒総会で一部の生徒を中心に「議題、掲示の許可基準その他」を主題にして学校側と対立。
      正規の授業は平常通り行われていたが、この総会後1970年1月29日まで数回臨時生徒総会が開かれる。
1970年 2月 9日 「掲示、集会等に関する規定」が制定され、これ以後次第に校情は安定する。
1970年 6月10日 第1回合唱コンクールを開催、以後年中行事となる。
1972年 4月   本校「創立50周年記念」のための記念事業委員会を組織し、準備活動に入る。主たる行事の計画を次の通りに決定する。
1. 50周年記念式典挙行 → 1973年11月1日に設定
2. 式典会場―虎ノ門国立教育会館講堂
3. 祝宴同付属会場
4. 50周年記念誌の発行


伊藤太一郎校長先生については、以下のフォルダー内文書を転記すること。

07_伊藤太一郎校長

エピソード

     多事多端の六年間
わたしの小山台高校に着任した昭和四十二年は、画期的な学校群制度の発足した年である。田園調布高校と共に、第14群をつくり、新制度によって入試選抜が行われるようになったが、このような事態の中で、小山台高校の歴史と伝統を守りつづけて行くことは、困難ではあるがわたしにとって重大な使命であると思った。43年には、長い間苦心経営して、すばらしい成果を挙げていた補習科を閉講せざるを得なかったのは、この上ない残念なことであった。
  昭和44年は、学校紛争の波が大学から高校に及んで来て、各都立高はその渦中に激しく揺れ動いた年であった。この秋小山台高校も不穏な動きが見られたが、教育に対する強い信念を持つ教職員の団結と根気強い努力により生徒との話し合いの姿勢をくずさず、掲示と集会等の問題について生徒総会において討論が重ねられ、それらの論議から「掲示・集会等に関する規定」およびこれに関連する「協議会規定」が作られた。これによって学校紛争の危機は回避されたのである。このような事態に対処して、小山台高校の教職員のすぐれていること、生徒諸君も良識ある生徒であることを痛感し、改めて小山台高校の伝統の重さを思い知らされたことである。ここに小山台高校60周年を迎えて、校舎の改築も殆ど成り、校運は更に一層の飛躍と発展を見せることと思うにつけ、私の在任の六年の間は、いろいろなことはあったにせよこの上なく幸福であり、栄光の日々であったと思う。(第七代校長 昭和42~48年在職)(60周年記念誌より)



            

青春記

青春とはなにか。青春とはいつを言うのか。わたしの青春時代と言えば、どの時代を指しているのか。青春時代と呼ぶにふさわしい時代が、私にあったのだろうか。幼い少年の日から目まぐるしく変転した青年の日々が、真に青春の名に価するのであろうか自問するわたし自身にも判定しがたいきもちがする。思い出は、薄ら日の光のように、はかなくとどめがたいかすかな残像にすぎない。

先年、ふるさとの町に帰ったが、もともとよそ者の集まりのようなこの町の人々に、昔を思い出すよすがはなく、疎外された孤独の旅人の思いをしみじみと感じたものだった。けばけばしく俗化したこの町は、遠い異国のようなとりつきようのない感じに満ちていた。しかし、自然の山や海は、年若い日の、はかない悔恨や憧憬につながる何ものかを失ってはいなかった、南国の海の藍青、高い山に限られた澄明な空の色をみていると、いつとはなく身も心もタイムトンネルの空洞を越えて、再び回収されることのない青春の時代にさまよう思いであった。  その頃は、中学のある隣の町から、汽車に乗らないで、歩いて帰ることがよくあった。毎日マラソンのコースになる海沿いの道は、学校から10キロもあったろう。まだ、野猿が、人馴れていなかった山の裾をまわると、いで湯の町の各処にはのどかな湯煙が立ち昇り、町のうしろにそびえる火山群は、午後の陽光にとけてゆくようにのどかであった。海はいつもとろりとした藍青の深きに静まり、慶長の昔の天変地異に、湾内深く沈んでいったという島の、石だたみの道や村の家のいらかがよく晴れた日には、海底に光って見えるという漁師の話を思い出す。日曜には、町の郊外にある露天の大仏の腹の中で、友人と遊んだり、勉強したりすることが多かった。奈良の大仏よりももっと大きいコンクリート造りの大仏を、友人の叔父にあたる人は、観光用に造り上げたらしい。 しかし、大仏を入れる家を作る資金がなかったので、大仏は露座のままであり、入場料を取って見ようとする人も少なくて荒れはてていた。大仏の胎内は、ラセンの階段と、小さく仕切られた小部屋にわかれ、どことなく冷たく、淡い線香の香りが流れている。その一つの小部屋は、わたしたちの秘密の部屋、読書も勉強もたわいもない遊びも、今となっては、かすかな記憶にすぎない。窓は外から見るとちょうど大仏のヘソのあたり小さく開いて、よく見ないと気がつかない位である。帰省船上で町並みのかなたに小さく見える大仏を見つけ出した時。時の流れを痛いほどに感じたものだ。(小山台新聞52号より 伊藤太一郎校長 青春記)




関連項目

着任:1967年4月1日
退任:1973年3月31日
前 任 在 任 後 任
木村 武雄

1967年度 (昭和42年度)

1968年度 (昭和43年度)

1969年度 (昭和44年度)

1970年度 (昭和45年度)

1971年度 (昭和46年度)

1972年度 (昭和47年度)

班目 文雄



関連事項

↑ページトップへ    ↑↑「歴代校長一覧」のページに移動   ↑↑「恩師の思い出」のページに移動    ↑↑「卒業生・同窓生」のページに移動    ↑↑「菊桜会歴代会長」のページに移動    ↑↑メインページ(人物アーカイブ)に移動

脚注: ・

2023年11月30日:直近編集者:Inorio
TimeStamp:20231130174342