1944年度 (昭和19年度)
(編集中) (編集完了)
1944(昭和19)年度
|
できごと
- 1944年
- 04.12 五年175名、学徒勤労報国隊として出動命令下る
- 04.20 五年石井鉄工所・富士写真光機会社に出動
- 05.04 四年に勤労動員令の内報あり
- 06. 四年東京無線電機・日本理科工業・三井精機・理研発条に出動
- 08.21 三年出動壮行式 東京無線下丸子工場・東洋酸素機械・小沢機器製作所に出動
- 09.16 三井精機動員中の四F 関口慎太郎君瀕死の重傷を負う
- 09.23 石井鉄工所動員中の五B早川嘉雄君死亡
- 11. 二年東京無線電機・理研発条・日満工業・東京動力機械へ出動命令下る
- 11. 正・裏門鉄扉、国策により献納、木扉に改造
- 1945年
- 01. 海軍艦政本部の一部、本校に疎開。講堂はじめ3階全部と西館2階教室の半数を使用。
- 03. 補習科廃止
- 03.28 卒業式(中18回生:男子198名、中19回生:男子282名。中19回生は修業年限四年で繰り上げ卒業)
世相
- 1944年
- 05. 学徒動員実施要綱決定
- 06.15 サイパン島玉砕
- 08.04 学童集団疎開第一陣出発
- 10.24 比島沖海戦に神風特攻隊初出撃
- 1945年
- 03.10 東京大空襲
- 流行語-鬼畜米英・月月火水木金金
- 流行歌-ラバウル小唄・荒鷲のうた
勤労動員
我々が2 年の時である。太平洋戦勃発のニュースは全校教練査察日に校内に流され、よしやるぞという決意を持った。しかし当初戦局は有利に展開したが早くも翌年4月にはB24による京浜中京地区初空襲、当時3 年の我々は明電舎及び大森埋立地で勤労奉仕に従事、そして昭和19 年8 月23 日学徒動員令により5年の7割が羽田石井鉄工へ、3割が下丸子不二光機へ動員となり、石井鉄工では作業別に各班に分かれ卒業まで戦った。
その間クレーン運転中に早川嘉雄君が殉職、遺体を手引き霊枢車により五反田の家まで搬送、それに箱島中隊長( 学級委員) 他2 名が随走、我々有志は彼を戦死とし靖国神社に祀まつることと、血判状を作成、工場監督官陸軍中尉に談じ込みその結果学校葬となったこと。
又同年11 月B29 による東京初空襲直後、羽田飛行場のグラマンによる空襲でビシ!!という銃弾の音に工場の中を逃げ廻ったこと、昼食は大豆滓かす入り雑炊で頑張って来たこと等、現在平和な中では複雑な思い出である。なお、当思い出には箱島氏及び同期幹事のご協力をいただきました。
(前田登志夫 中18 回「創立60 周年記念誌」P132)
犬塚鉄工所で
実は私にとっての工場動員の思い出としては、都立八中4 年修了時でたまたま受験した某医専に合格入学ということになったので、わずかに4 学年3 学期に級友と共に動員された工場生活の記憶が残っているに過ぎない。
不思議とその工場名は今でも明瞭に記憶にあり、確か品川方面にあった「犬塚鉄工所」といった。作業内容は中堅的な熟練工員さんと共に旋盤で何やら鉄の部品を削る仕事であった。幸い特別に危険な作業ではなかったので、工場特有の油の匂いにすっかりなじんで、教練用服装で朝から夕方迄級友達と共に結構楽しく働いた。おそらく同工場には他にも女学校から動員されてきた女子中学生が職場の花のように存在していたことが、我々八中生の青春の血潮を刺激したからであろう。
ともあれ、あと1 年で敗戦とはつゆ知らず、体操時の「勤労作業の歌」のメロディなども今なお懐かしく耳目に響いてくる。
(高原喜八郎 中18回「創立60周年記念誌」P133)
できごと
- 4月 日 5年生勤労動員出動
- 6月 日 4年生勤労動員出動
- 8月 日 3年生勤労動員出動
- 12月 日 2年生勤労動員出動
- 3月28日 都立第八中学校18、19回生(4年卒)合同卒業式 中18回生(男子180名) 中19回生(男子282名):4年卒
教職員
職名 | 担任学科 | 氏 名 | 就 任 | 本籍地[1] | |
---|---|---|---|---|---|
学校長 | 岡田 藤十郎 | 1923/01/15 | 愛知県 | ||
配属将校[2] | 内田 辰雄 | 1927/03/16 | 熊本県 | ||
教諭 | 修身 | 修身 | 岩崎源兵衛 | 1923/03/15 | 東京府 |
修身、国漢 | 鈴木 鶴吉 | 1926/03/31 | 茨城県 | ||
修身、国漢、法経 | 岩本 實次郎 | 1923/04/12 | 愛知県 | ||
国漢 | 臼杵 東峻 | 1923/04/05 | 熊本県 | ||
手塚 昇 | 1924/03/31 | 栃木県 | |||
尾見 修一 | 1926/03/31 | 茨城県 | |||
宮下 幸平 | 1927/03/31 | 群馬県 | |||
田波 又男 | 1927/03/31 | 栃木県 | |||
岸本 美之留 | 1930/04/07 | 東京府 | |||
高野 正巳 | 1930/09/19 | 長野県 | |||
国漢(習字) | 斎藤 梅雄 | 1924/03/31 | 東京府 | ||
社会 | 地理 | 児玉 貞臣 | 1923/02/23 | 島根県 | |
歴史 | 山本 義夫 | 1924/03/31 | 長野県 | ||
甲藤 太郎 | 1926/03/31 | 高知県 | |||
歴史、地理 | 都築 秀徳 | 1925/03/31 | 高知県 | ||
数学 | 栗原 善範 | 1923/04/30 | 神奈川県 | ||
飯野 兼八 | 1924/03/31 | 東京府 | |||
高輪 休郎 | 1925/05/15 | 東京府 | |||
崎谷 巖 | 1926/03/31 | 栃木県 | |||
沼尻 源一郎 | 1927/03/31 | 茨城県 | |||
理科 | 博物[3] | 北見 宗吉 | 1923/04/05 | 東京府 | |
一瀬 義行 | 1925/03/31 | 東京府 | |||
物化 | 桑野 達平 | 1925/03/31 | 福岡県 | ||
峯岸 政之助 | 1930/03/31 | 埼玉県 | |||
英語 | 伊藤 義末 | 1923/03/30 | 千葉県 | ||
大伴 峻 | 1924/03/31 | 東京府 | |||
斎藤 幸之助 | 1926/03/31 | 埼玉県 | |||
川波 千尋 | 1926/03/31 | 福岡県 | |||
百田 治朗 | 1926/03/31 | 山梨 県 | |||
大竹 健夫 | 1927/03/31 | 東京府 | |||
体操 | 加藤 譲 | 1923/04/10 | 岐阜県 | ||
岐部 信之助 | 1924/02/11 | 静岡県 | |||
市野 保 | 1924/03/31 | 東京府 | |||
峰岸 徳哉 | 1927/03/31 | 群馬県 | |||
芸術 | 図画 | 麻生 秀二 | 1923/03/31 | 東京府 | |
唱歌 | 松井 力 | 1925/03/31 | 東京府 |
嘱託・学校医
教科 | 氏名 | 就任 | 本籍地 | ||
---|---|---|---|---|---|
嘱託 | 国漢 | 龜山 與市 | 1925/06/20 | 岐阜県 | |
斎藤 芳滋 | 1927/03/31 | 東京府 | |||
福村 清 | 1929/03/31 | 大分県 | |||
数学 | 奈良 善雄 | 1926/03/31 | 青森県 | ||
赤沼 實 | 1929/10/09 | 長野県 | |||
理科 | 博物 | 岸谷 貞治郎 | 1925/03/31 | 大阪府 | |
英語 | 佐藤 浩 | 1924/03/31 | 山形県 | ||
ヘンリー・マーフォート・ケーリー | 1926/04/01 | 米国 | |||
長見 久堅 | 1929/03/31 | 島根県 | |||
山口 孝 | 1929/04/09 | 千葉県 | |||
体操 | 森田 文十郎 | 1925/03/31 | 埼玉県 | ||
佐藤 留五郎 | 1927/03/31 | 福島県 | |||
芸術 | 図画 | 吉田 雄司 | 1927/05/09 | 千葉県 | |
学校医 | 岡田 省三 | 1926/09/18 | 東京府 |
書記
職 名 | 氏 名 | 就 任 | 本籍地 |
---|---|---|---|
書記 | 佐藤 正男 | 1924/02/20 | 東京府 |
永山 政信 | 1924/04/05 | 茨城県 | |
平野 義包 | 1927/03/15 | 愛知県 |
学芸会
4月9日(火)午前10時より
- 開会挨拶
- XXXXXX:○○○○
- ああああああ(講演):○○○○
- いいいいいい(劇):○○○○
- ううう(ピアノ演奏):○○○○
- 閉会挨拶
卒業アルバム
関連項目
*← 1943年度 (昭和18年度) *→ 1945年度 (昭和20年度)
脚注
・
2025年3月9日:直近編集者:Hosamu
TimeStamp:20250309194731