1925年度 (大正14年度)
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1925(大正14)年度
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できごと | 詳細・引用・寄稿 |
4月X日 入学式 中3回生(男子XXX名) 4月X日 始業式 9月1日 始業式 1月X日 始業式 |
できごと 第3期工事は、第1期工事の右側1階より3階までの全部である。大正15年3月完成。 |
世 相 | |
4月13日 現役将校学校配属令公布 |
できごと
- 1925年
- 04. 入学式中3回生
- 05.05 本日を創立記念日とする
- 09.01 午前八時より始業式
- 09.11 本日よりモーターサイレンを使用して合図を行う
- 10.20 全校生徒長瀞に遠足
- 11.03 全校生徒明治神宮に参拝後、神宮競技場見学
- 11.09 本日より午前八時三〇分始業
- 11.17 全校生徒横浜三渓園に遠足
- 11.28 三年野外演習を行う
- 12.07 二年野外演習を行う
- 12.09 一年野外演習を行う
- 12.24 終業式
- 1926年
- 01.01 午前九時拝賀式を行う
- 02.06 一・二・三年学芸会実施(~08)
- 02.24 教練の第一回査閲実施
- 03.20 校舎全部落成 移転
- 03.24 終業式
世相
- 1925年
- 04.13 現役将校学校配属令公布
- 04.22 治安維持法公布
- 05.05 普通選挙法公布
- 1926年
- 01.15 京都学連事件(初の治安維持法適用)
- 流行語-軍教・円タク・トロッキスト
- 流行歌-待ちぼうけ・証誠寺の狸囃
薄れた校舎の記憶
私が八中に入学したのは関東大震災の翌年1924(大正13)年であり、卒業したのが1929(昭和4)年3月で八中第2期生と云う輝かしい経歴であって、それから旧横浜高等工業現横浜国立大学建築学科に学び1932(昭和7)年卒業以来建築設計の道を歩み現在に至っている。この原稿依頼に校舎の思い出等を書くようにとのことであったが、先に述べたように八中を卒業してから建築を学びそれを知ったのであって、勉強、友人、いろいろなことに興味があった時代なので特に校舎についての想い出が確かではないのが誠に残念である。
八中の正門と云うのは敷地の西北の角、裏側といった感じの町家に連なる寂れた位置にあったし、大部分の生徒は武蔵小山駅から出たところの通用門を利用するわけであるから、正門は現実的には裏門といった気の毒な立場にあったようだ。その広場は狭く、元気のないヒマラヤシーダが植えられ玄関前の体裁を保っていた程度であった。
校舎は教室が東南面するように鍵型の平面でその折点のところに僅かに高い塔屋があったが、若者達の学びの舎として懐しい想い出として心に残る記念的な強いデザイン要素が欲しかったように思う。
しかし教室、廊下等今と違って天井が高くおおらかであったのは良かった。あのころの学校建築は型が決まっていたのだろうし、お役所が建てるのだから灰色と白の内外で無味乾燥であった。だが学問を学ぶ場としてはあれで良かったのかも知れない。60年前の記憶はもう薄れてしまった。
(郡菊夫 中2回「創立60周年記念誌」P94より抜粋)
校舎全部落成
第3期工事は、第1期工事の右側1階より3階までの全部である。大正15年3月完成。これをもって本校校舎全部の落成を見たのである。
西側の校舎に沿ったイチョウの並木は1925(大正14)年照宮殿下ご誕生の記念樹である。
表玄関のヒマラヤシーダーの大木数本は1929(大正14)年、大正天皇銀婚式記念樹と照宮殿下ご誕生記念樹であるが、一部は戦禍をうけて枯れたものもある。
正門から入って左側最初のものと玄関左側(枯れている)は大正天皇銀婚式記念で、用務員室入口前シイ3本とプール入口のシイ2本が照宮殿下ご誕生記念である。
周辺の状況
小山本通りは小山銀座通りとともに、震災直後から急速に発展したが、大正14年頃には飾りつけの良い商店は駅に近い、1,2,3丁目までで、4丁目は家もまばらとなり、 空地も多く風に吹きさらされ、両側の畑地には笥林の残りもちらほらしていた。
教職員
学芸会
4月9日(火)午前10時より
- 開会挨拶
- XXXXXX:○○○○
- ああああああ(講演):○○○○
- いいいいいい(劇):○○○○
- ううう(ピアノ演奏):○○○○
- 閉会挨拶
「校友会雑誌 第2号」
- 第2号は現在探索中です。
関連項目
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脚注
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2025年1月12日:直近編集者:Hosamu
TimeStamp:20250112165024