「大島 好道」の版間の差分
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'''いっぱち_会報2003_創刊号_大島好道先生''' | |||
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水谷豊<br> | |||
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平成元年2月吉日付けで、突然のお便りを戴いた。<br> | |||
「お元気にお過ごしのことと存じます。私が昭和15年に大学を卒業し、東京府立八中に教鞭を執ることになり、その時入学してきた1年E組の組主任となって貴君たちに英語を教えてから春風秋雨50年の歳月が過ぎ去りました。句たる3月4日同期会が催され久しぶりにお逢い出来るのを大変楽しみにしています。<br> | |||
ちては私の受け持ちであった1年E組の生徒で御出席予定の方に私の近著を同封して贈呈致します。当日しは出席者も多く一人一人ゆっくり歓談する時間もないのでこの様に致しました。」<br> | |||
卒業以来初めての来状、ここから好道先生とその生徒の密接な交流が再開した。<br> | |||
当時、先生は75最、無邪気・元気一杯は磨きがかかって天真爛漫そのもの、もと厚顔の未少年達をすっかり楽しまされた。<br> | |||
平成12年3月12日のいっぱち会総会への近況報告で先生は、”平成元年依頼無欠席、いっぱち会で 若返らせて貰っています”と述べられているが、年1度の総会だけでなくしばしばお会いした。大卒後初めての組担当だった18回1年E組には特に思い入れ深く、優等生だった大石幸明君と共に呼び出されては昔話を拝聴した。<br> | |||
往事茫々どちらも記憶の定かでない部分多く都合の良い話になって行くが、兎に角、八中の生徒は良く出来た。毎時間テストをしたが素晴らしい子が多かったとのこと。もっとも1割くらいは勉強をまるでしょうともしない子も居て手こずらされたが、昭和20年3月10日の下町大空襲で全焼し証拠書類全てなくしたのが残念だと。先生の英語担当はC・E・F組だったが出来が良くて印象にはっきり残っていると名前がでたのは、安藤三雄・今橋宏・中嶋宏の3君だった。(その他多数の優等生達ごめんださい。)<br> | |||
先生の御自慢は、敲き込んだ基礎英語力のおかげで英語で生計を立てることの出来た生徒の多いことと、当時の府立八中の英語教師は全て大学教授クラスだったこと、それは繰り返し聞かされた。<br> | |||
<写真①:大石邸近くの吉田屋蕎麦店にて><br> | |||
健康度を誇示されていた80台になってからは十数人の生徒に囲まれるたびに、周囲の他人様を掴まえ”この中に先生が一人お出でだがどの方か判る?”の質問がお好きだった。”21世紀の日本を見守って行く生徒は何人ぐらいかな、まさか私が一番最後ではなかろうが”も好きな発言だった。<br> | |||
平成12年12月14日、忠臣蔵の討ち入りに因んでは単なる名目だが、例会のようになっていた大石幸明、加藤照夫、中島宏、水谷を集めての大石邸近くの蕎麦屋吉田屋での集合に先生は突然欠席され、一同おどろかされた。例のない事だった。その後の入院リハビリの間も少しも変わらぬ元気発言であった。<br> | |||
13年7月からの自宅療養でも、昭和15年に結婚され金婚もダイヤモンド婚も無事通過とご自慢の玄子(みちこ)夫人のお話では「頑固さは変わりませんが優しさも変わりませんです。」との事が続いていた。<br> | |||
大正3年3月27日生まれ。平成14年4月26日没。88最と1か月「真教院栴徳好道居士」東京世田谷区「豪徳寺」に眠る。自由自在の先生だった。<br> | |||
<写真②> | |||
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== 参考 == | == 参考 == | ||
::[[中19回|中19回生]]作成の[[中19回#篤友 会報6号|「篤友 会報6号」]]に掲載の「大島好道先生追悼」から | ::[[中19回|中19回生]]作成の[[中19回#篤友 会報6号|「篤友 会報6号」]]に掲載の「大島好道先生追悼」から |
2023年12月23日 (土) 16:55時点における版
大島 好道(おおしま よしみち、19XX年XX月XX日 - 2002年4月26日)は、府立第八中学校 英語教諭
本校歴
- 1940年 3月31日 府立八中英語教諭として赴任
- 1942(昭和17)年 7月 都制施行により、東京都立第八中学校と改称
- 1945年 7月25日 都立八中から退任
記事
いっぱち_会報2003_創刊号_大島好道先生
大島好道先生
水谷豊
平成元年2月吉日付けで、突然のお便りを戴いた。
「お元気にお過ごしのことと存じます。私が昭和15年に大学を卒業し、東京府立八中に教鞭を執ることになり、その時入学してきた1年E組の組主任となって貴君たちに英語を教えてから春風秋雨50年の歳月が過ぎ去りました。句たる3月4日同期会が催され久しぶりにお逢い出来るのを大変楽しみにしています。
ちては私の受け持ちであった1年E組の生徒で御出席予定の方に私の近著を同封して贈呈致します。当日しは出席者も多く一人一人ゆっくり歓談する時間もないのでこの様に致しました。」
卒業以来初めての来状、ここから好道先生とその生徒の密接な交流が再開した。
当時、先生は75最、無邪気・元気一杯は磨きがかかって天真爛漫そのもの、もと厚顔の未少年達をすっかり楽しまされた。
平成12年3月12日のいっぱち会総会への近況報告で先生は、”平成元年依頼無欠席、いっぱち会で 若返らせて貰っています”と述べられているが、年1度の総会だけでなくしばしばお会いした。大卒後初めての組担当だった18回1年E組には特に思い入れ深く、優等生だった大石幸明君と共に呼び出されては昔話を拝聴した。
往事茫々どちらも記憶の定かでない部分多く都合の良い話になって行くが、兎に角、八中の生徒は良く出来た。毎時間テストをしたが素晴らしい子が多かったとのこと。もっとも1割くらいは勉強をまるでしょうともしない子も居て手こずらされたが、昭和20年3月10日の下町大空襲で全焼し証拠書類全てなくしたのが残念だと。先生の英語担当はC・E・F組だったが出来が良くて印象にはっきり残っていると名前がでたのは、安藤三雄・今橋宏・中嶋宏の3君だった。(その他多数の優等生達ごめんださい。)
先生の御自慢は、敲き込んだ基礎英語力のおかげで英語で生計を立てることの出来た生徒の多いことと、当時の府立八中の英語教師は全て大学教授クラスだったこと、それは繰り返し聞かされた。
<写真①:大石邸近くの吉田屋蕎麦店にて>
健康度を誇示されていた80台になってからは十数人の生徒に囲まれるたびに、周囲の他人様を掴まえ”この中に先生が一人お出でだがどの方か判る?”の質問がお好きだった。”21世紀の日本を見守って行く生徒は何人ぐらいかな、まさか私が一番最後ではなかろうが”も好きな発言だった。
平成12年12月14日、忠臣蔵の討ち入りに因んでは単なる名目だが、例会のようになっていた大石幸明、加藤照夫、中島宏、水谷を集めての大石邸近くの蕎麦屋吉田屋での集合に先生は突然欠席され、一同おどろかされた。例のない事だった。その後の入院リハビリの間も少しも変わらぬ元気発言であった。
13年7月からの自宅療養でも、昭和15年に結婚され金婚もダイヤモンド婚も無事通過とご自慢の玄子(みちこ)夫人のお話では「頑固さは変わりませんが優しさも変わりませんです。」との事が続いていた。
大正3年3月27日生まれ。平成14年4月26日没。88最と1か月「真教院栴徳好道居士」東京世田谷区「豪徳寺」に眠る。自由自在の先生だった。
<写真②>
参考
- 「大島好道先生追悼:小島章伸、中村家久、岡田延弘」(下のボタンを押すと全文が表示されます)
関連項目
- 着任:1940年 3月31日
- 退任:1945年 7月25日
関連事項
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脚注:
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2023年12月23日:直近編集者:SGyasushi
TimeStamp:20231223165517