大島 好道

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
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大島 好道 先生(篤友 会報6号P8)

大島 好道(おおしま よしみち、19XX年XX月XX日 - 2002年4月26日)は、府立第八中学校 英語教諭

本校歴

1940年 3月31日 府立八中英語教諭として赴任
1942(昭和17)年 7月 都制施行により、東京都立第八中学校と改称
1945年 7月25日 都立八中から退任




記事

いっぱち_会報2003_創刊号_大島好道先生
  大島好道先生       水谷豊

 平成元年2月吉日付けで、突然のお便りを戴いた。
 「お元気にお過ごしのことと存じます。私が昭和15年に大学を卒業し、東京府立八中に教鞭を執ることになり、その時入学してきた1年E組の組主任となって貴君たちに英語を教えてから春風秋雨50年の歳月が過ぎ去りました。句たる3月4日同期会が催され久しぶりにお逢い出来るのを大変楽しみにしています。
 ちては私の受け持ちであった1年E組の生徒で御出席予定の方に私の近著を同封して贈呈致します。当日しは出席者も多く一人一人ゆっくり歓談する時間もないのでこの様に致しました。」
 卒業以来初めての来状、ここから好道先生とその生徒の密接な交流が再開した。
 当時、先生は75最、無邪気・元気一杯は磨きがかかって天真爛漫そのもの、もと厚顔の未少年達をすっかり楽しまされた。
 平成12年3月12日のいっぱち会総会への近況報告で先生は、”平成元年依頼無欠席、いっぱち会で 若返らせて貰っています”と述べられているが、年1度の総会だけでなくしばしばお会いした。大卒後初めての組担当だった18回1年E組には特に思い入れ深く、優等生だった大石幸明君と共に呼び出されては昔話を拝聴した。
 往事茫々どちらも記憶の定かでない部分多く都合の良い話になって行くが、兎に角、八中の生徒は良く出来た。毎時間テストをしたが素晴らしい子が多かったとのこと。もっとも1割くらいは勉強をまるでしょうともしない子も居て手こずらされたが、昭和20年3月10日の下町大空襲で全焼し証拠書類全てなくしたのが残念だと。先生の英語担当はC・E・F組だったが出来が良くて印象にはっきり残っていると名前がでたのは、安藤三雄・今橋宏・中嶋宏の3君だった。(その他多数の優等生達ごめんださい。)
 先生の御自慢は、敲き込んだ基礎英語力のおかげで英語で生計を立てることの出来た生徒の多いことと、当時の府立八中の英語教師は全て大学教授クラスだったこと、それは繰り返し聞かされた。

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 健康度を誇示されていた80台になってからは十数人の生徒に囲まれるたびに、周囲の他人様を掴まえ”この中に先生が一人お出でだがどの方か判る?”の質問がお好きだった。”21世紀の日本を見守って行く生徒は何人ぐらいかな、まさか私が一番最後ではなかろうが”も好きな発言だった。
 平成12年12月14日、忠臣蔵の討ち入りに因んでは単なる名目だが、例会のようになっていた大石幸明、加藤照夫、中島宏、水谷を集めての大石邸近くの蕎麦屋吉田屋での集合に先生は突然欠席され、一同おどろかされた。例のない事だった。その後の入院リハビリの間も少しも変わらぬ元気発言であった。
 13年7月からの自宅療養でも、昭和15年に結婚され金婚もダイヤモンド婚も無事通過とご自慢の玄子(みちこ)夫人のお話では「頑固さは変わりませんが優しさも変わりませんです。」との事が続いていた。
 大正3年3月27日生まれ。平成14年4月26日没。88最と1か月「真教院栴徳好道居士」東京世田谷区「豪徳寺」に眠る。自由自在の先生だった。




いっぱち_会報2003_創刊号_大島好道先生
  大島先生を囲む会の思い出       中嶋宏
 平成14年4月26日、1年余の闘病生活を経て、恩師の大島先生が88歳の生涯を閉じられた。
 平成7年のいっぱち会総会の折、先生が、我々1年生の時に担任をした1Eの大石、水谷兄に話をされ、英語を教えた生徒達と一緒に一泊旅行をしたいと言い出された。水谷兄と懇意にしていて、先生から英語を教えていただいた1Cの私が、その事務局を引き受ける事になった。
 第1回目は先生が自ら、知り合いの箱根湯本の温泉旅館を予約され、9月27日に1泊2日の日程で出かけた。二十数人程の人に呼びかけたが、参加者は担任をされた生徒の、安藤、大石、加藤、藤本、水谷、村上兄と英語を教えていただいた、他クラスの上村、西川兄と私、10名だった。先生と新宿駅で待ち合わせ、小田急のロマンスカーで、私の小学校同窓の安藤兄、担任された加藤兄と私が先生と箱根湯本迄ご一緒させていただいた。
 それ以来先生が病気で参加出来なくなる平成12年迄、毎年9月に旅行し計6回囲む会を開催した。2回目は私が湯河原のホテルを予約して12名で旅行をしたが、2回目以降は殆ど、加藤兄が車を運転して、先生、村上兄と私が同乗して、宿泊地迄出掛ける事が多かった。
 私が将棋盤、駒を持参して、車の中で何回か将棋をさした。帰りは、西川、上村兄が車を運転して先生と近隣を観光して、自宅まで送り届ける事もあった。3回目は湯河原で霊園を経営している名士、安江兄が設営し、三森、臼井、山本兄も加わり、計13名が参加した。
 以後、熱海と鎌倉で、青村、倉藪兄も参加し、先生との最後の第6回の平成12年秋の囲む会は、囲碁メンバーの箱島兄も参加した。三浦半島のマホロバマインズ三浦へ旅行したのが、先生の最後の旅行になった。
 また、先生は毎年春に湯河原で開催している、いっぱち会囲碁合宿の会にも時々参加され、得意の将棋で、原口、加藤兄や私と勝ち負けを競った。将棋には、かなり自信をもっておられた。
 先生は囲む会の出席者の名前を織り込んだ、即興の「ざれ句」をつくられ、先生が卒寿の90最、我々喜寿の77最でお祝いの旅行を、楽しみにしておられたが、平成12年の暮れに脳梗塞で倒れられ半身不随となり、かなわぬ夢となった。


 西川兄が運転して、リハビリで入院されている、鶴巻温泉に倉藪兄と見舞いに伺ったが、年齢と後遺症で話も聞き取れず、大島先生を囲む会も終わりと感じた。ざれ句は加藤兄が編集発行した平成9年のいっぱち会囲碁部会報NO.3で紹介されていますが、それ以後の分を含めて、記載いたします。

  あん(安)みつの、蜜を(三雄)なめたで、あんど(安藤)する。   安藤三雄
  高原の上、むら(上村)なく、ひろく久し(博久)けり。       上村博久
  (大石)の吉良の屋敷の討ち入りは、電気(大石電機)なくとも雪(幸)明かり(明)。 大石幸明
  苦あり楽あり碁を打つ人は、いつも加藤(加藤)と思ってる(照)。  加藤照夫
  札幌、大阪、長崎とブルースが、ひろく(宏)流れる中の島(中嶋)。 中島宏
  東山の西(西)、鴨川(川)の科(良)亭は、京一番のながめなり。  西川良一
  この藤も、亀戸の藤も、もと(本)はあきらか(昭)、こむらさき。  藤本昭
  玉川の(水)、(谷)間より流れ出て汲めどかわらず(豊)かなり。  水谷豊
  村山に招聘(昭平)されし、宴かな。                村山昭平
  薄い(臼井)えにしと、あきら(明)めし君にはあれど、今はただ、
  身をつくしても、あわんとぞ思う。                 臼井明
  妙高(明孝)のみねに、仏の慈悲あわれ、こころ安江の吉い浜     安江明孝
  いと(伊東)高き、大山(泰山)鳴動ふもと(本)にて、われ雄々(雄)
  しくも、立ちにけり。                       山本泰雄
  (三)月たち、もり(森)返したる気力もて平和の年を迎えたり。   三森和年
  桜井は青葉むら(村)なく繁るなり。めくるめく時、君と持たばや。  青村繁
  変わ(川)ることなき縞(島)模様、障子(昭二)にうつる影は美し。 川島昭二
  田をながめ、なべ(辺)をつつきて、しみじみと酒を飲みたきとして
  (俊)は(和)来にけり。                     田辺俊和
  箱根から三島に下る東海道、広重しのぶ(信)眺めなり。       箱島重信
  千早ふる(古)や(屋)の竜田川、長いき(之)してあわんとぞ思う  古屋長之
  君を松尾の大やしろ、首ったけ(武)でも苦に(国)ならず、
  逢坂山を越えて行く。                       松尾武国


 平成13年秋に先生は病気療養中で、出席されなかったが、囲碁メンバーを含めて、囲む会の解散旅行を、囲碁合宿の定宿である湯河原の杉の宿でおこなった。
 私は先生が担任ではなかったので、中学時代の思い出は殆どないが、英語の時間に独特の発音で、教えていただいた事は忘れられない。
 1Eの担任をされた後、19回(篤友会)生を卒業迄担任されたそうで、先生は毎年19回の同期会にも出席されたので、平成14年4月28日(日)世田谷の豪徳寺で行われた告別式には、我々同期の他、19回(篤友会)のメンバーも多数参加した。いっぱち会よりは前田兄が手配して、生花をお贈りした。
 先生のご冥福をお祈りする次第。



報國団雑誌_第20号_151_ぶら下がり取材_秋晴れの八角塔01

 「先生お郷里は。」「東京だよ。学校は三中。」「御趣味は何ですか。」「さうだなあ。まあ運動だね。特に陸上競技。・・・あゝ。それから将棋だよ。八中では一番強いんだぜ。」「・・・・・。」「外の先生では僕と同じ位なのは鈴木先生だけだよ。(うへえ、案外だな。)実は今日も是からやらうって云ってゐるだがな。」・・・「さう。書物と云えば何しろ3年生には本屋とも呼ばれてゐる位澤山もつてゐるよ。家へ来て御覧。どんなんでもあるからな。」「生徒に読ませたい書物はどんなものですか。」「岩波の出してゐる『少國民の為に。』と云ふの、知ってゐるかい。あの叢書だよ。」「先生靴の配給では随分とお骨折りですね。」「あゝ、もう靴屋だからな。~此の時本物の靴屋、配給券をもって入って来た。~十文七分もあるデカ足のはほんの2、3枚しかこないんだから不公平だと云ってボヤいたつて仕方ないよ。此點生徒によく伝へといて呉れよ。」「では最後に八中生への御希望を。」「何時も云はれてゐるが『やれば出来る。』と云ふことだね。」


参考

中19回生作成の「篤友 会報6号」に掲載の「大島好道先生追悼」から
特別寄稿「大島好道君を偲ぶ:西尾 孝」 (下のボタンを押すと全文が表示されます)

「大島好道君を偲ぶ:西尾 孝」を表示


「大島好道先生追悼:小島章伸、中村家久、岡田延弘」(下のボタンを押すと全文が表示されます)

「大島好道先生追悼:小島章伸、中村家久、岡田延弘」を表示





関連項目

着任:1940年 3月31日
退任:1945年 7月25日



関連事項

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脚注: ・

2023年12月23日:直近編集者:SGyasushi
TimeStamp:20231223172506