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2022年10月15日 (土) 13:15時点における版
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できごと
- 4月 府立第八中学校入学式 中19回生(男子2XX名、A~F組の6クラス)
- 8月31日 午後6時より図書館にて第14回同窓会総会開催 (総会の詳細は「同窓會會報 第14号」P75掲載)
- 9月 学校報國団結成
- 10月 8日 学芸会
- 10月10日 鍛錬運動大会
- 12月 8日 真珠湾攻撃、マレー半島上陸
- 1月15日 「報國団雑誌 第18号」発行
- 1月31日 「同窓會會報 第14号」発行
- 3月 5日 卒業式 中15回生(男子215名)
教職員
職名 | 担任学科 | 氏 名 | 就 任 | 本籍地[1] | |
---|---|---|---|---|---|
学校長 | 岡田 藤十郎 | 1923/01/15 | 愛知県 | ||
配属将校[2] | 内田 辰雄 | 1927/03/16 | 熊本県 | ||
教諭 | 修身 | 修身 | 岩崎源兵衛 | 1923/03/15 | 東京府 |
修身、国漢 | 鈴木 鶴吉 | 1926/03/31 | 茨城県 | ||
修身、国漢、法経 | 岩本 實次郎 | 1923/04/12 | 愛知県 | ||
国漢 | 臼杵 東峻 | 1923/04/05 | 熊本県 | ||
手塚 昇 | 1924/03/31 | 栃木県 | |||
尾見 修一 | 1926/03/31 | 茨城県 | |||
宮下 幸平 | 1927/03/31 | 群馬県 | |||
田波 又男 | 1927/03/31 | 栃木県 | |||
岸本 美之留 | 1930/04/07 | 東京府 | |||
高野 正巳 | 1930/09/19 | 長野県 | |||
国漢(習字) | 斎藤 梅雄 | 1924/03/31 | 東京府 | ||
社会 | 地理 | 児玉 貞臣 | 1923/02/23 | 島根県 | |
歴史 | 山本 義夫 | 1924/03/31 | 長野県 | ||
甲藤 太郎 | 1926/03/31 | 高知県 | |||
歴史、地理 | 都築 秀徳 | 1925/03/31 | 高知県 | ||
数学 | 栗原 善範 | 1923/04/30 | 神奈川県 | ||
飯野 兼八 | 1924/03/31 | 東京府 | |||
高輪 休郎 | 1925/05/15 | 東京府 | |||
崎谷 巖 | 1926/03/31 | 栃木県 | |||
沼尻 源一郎 | 1927/03/31 | 茨城県 | |||
理科 | 博物[3] | 北見 宗吉 | 1923/04/05 | 東京府 | |
一瀬 義行 | 1925/03/31 | 東京府 | |||
物化 | 桑野 達平 | 1925/03/31 | 福岡県 | ||
峯岸 政之助 | 1930/03/31 | 埼玉県 | |||
英語 | 伊藤 義末 | 1923/03/30 | 千葉県 | ||
大伴 峻 | 1924/03/31 | 東京府 | |||
斎藤 幸之助 | 1926/03/31 | 埼玉県 | |||
川波 千尋 | 1926/03/31 | 福岡県 | |||
百田 治朗 | 1926/03/31 | 山梨 県 | |||
大竹 健夫 | 1927/03/31 | 東京府 | |||
体操 | 加藤 譲 | 1923/04/10 | 岐阜県 | ||
岐部 信之助 | 1924/02/11 | 静岡県 | |||
市野 保 | 1924/03/31 | 東京府 | |||
峰岸 徳哉 | 1927/03/31 | 群馬県 | |||
芸術 | 図画 | 麻生 秀二 | 1923/03/31 | 東京府 | |
唱歌 | 松井 力 | 1925/03/31 | 東京府 |
嘱託・学校医
教科 | 氏名 | 就任 | 本籍地 | ||
---|---|---|---|---|---|
嘱託 | 国漢 | 龜山 與市 | 1925/06/20 | 岐阜県 | |
斎藤 芳滋 | 1927/03/31 | 東京府 | |||
福村 清 | 1929/03/31 | 大分県 | |||
数学 | 奈良 善雄 | 1926/03/31 | 青森県 | ||
赤沼 實 | 1929/10/09 | 長野県 | |||
理科 | 博物 | 岸谷 貞治郎 | 1925/03/31 | 大阪府 | |
英語 | 佐藤 浩 | 1924/03/31 | 山形県 | ||
ヘンリー・マーフォート・ケーリー | 1926/04/01 | 米国 | |||
長見 久堅 | 1929/03/31 | 島根県 | |||
山口 孝 | 1929/04/09 | 千葉県 | |||
体操 | 森田 文十郎 | 1925/03/31 | 埼玉県 | ||
佐藤 留五郎 | 1927/03/31 | 福島県 | |||
芸術 | 図画 | 吉田 雄司 | 1927/05/09 | 千葉県 | |
学校医 | 岡田 省三 | 1926/09/18 | 東京府 |
書記
職 名 | 氏 名 | 就 任 | 本籍地 |
---|---|---|---|
書記 | 佐藤 正男 | 1924/02/20 | 東京府 |
永山 政信 | 1924/04/05 | 茨城県 | |
平野 義包 | 1927/03/15 | 愛知県 |
学芸会
10月8日(水)午前9時より
- (宮城遙拝黙祷の後)
- 1. 音楽
- 2. 支那人と處:2B 宮川丈二
- 3. 戦火に見る皇道精神:1A 黒川 尚
- 4. 谷川岳登山:1F 小島良策
- 5. ベルギー:3B 中村正巳
- 6. 詩吟:2B 森下昭平
- 7. 厳島:1F 村川秀雄
- 8. 音楽
- 9. 葉の毛管現象について:1F 土井洋三
- 10. 武蔵の野辺:2C 斎藤俊重
- 立派な態度で、声も明瞭であり、熱情溢れるばかりで聴者を自ら陶酔させた。
- 11. 鴨鉱山:2F 岸 英明
- 落ち着きあり態度が立派である。惜しいことは、一箇の鉱山案内に終わったことで、大きく鉱山紹介に迄言及すべきだった。
- 12. アトリの鐘:3A 鶴見良行
- 13. 音楽
- 14. 奥日光の旅:2C 皆川達夫
- 前半奥日光につき概説し、後半狼について話す。此の点着想がよい。話方も優秀で馴れた態度で数々聴衆を爆笑させた。
- 以下つづく(本日はここまで「報國団雑誌第18号」P110より)
- 閉会の辞:高橋先生
鍛錬大会
10月10日(金)午前7時半開会式。
- 遙拝国歌斉唱黙祷等に次ぎ「元気よくやれ」という校長先生の訓辞の後、合同体操を皮切りに、十六年度鍛錬大会の幕が切られる。
「報國団雑誌 第18号」
- 「報國団雑誌 第18号」は、1942(昭和17)年1月15日発行されました。
- 中17回 三宮 洋 様より寄贈いただきました。
「報國団雑誌 第18号」全文
- 以下のリンクから「報國団雑誌 第18号」全文をご覧いただけます。
- 「報國団雑誌 第18号」PDFファイルへのリンク
「同窓會會報 第14号」
- 「校友会雑誌」の他に、同窓会の発行する「同窓會會報」という冊子があります。
- 「同窓會會報_第14号」は、1942(昭和17)年1月31日発行で、菊桜会会室に保管されていました。
- 「校友会雑誌」と異なり、これ一冊のみです。
- 真珠湾攻撃が1941年12月8日なので、その直後に編集・発行されたもので、当時の世相を色濃く反映しています。
- 特に、表紙にある「英魂顕彰号」にもある通り、戦没者への追悼・顕彰という目的で発行されたものです。
- 口絵写真には「中1回」~「中10回」までの戦死者16名の写真が「故人ノ面影」として掲載されています。
- また、その次には「中島嘉之吉 会長」による「八中教学刷新案」が2ページに渡って掲載され、続いて「岩本實次郎」次期校長による、「臨戦態勢」という文章が掲載されています。
- 同窓会会長は、現役の校長先生が兼務(後掲の「同窓会会則 第5条」に「本會會長ニハ母校校長を推戴ス」と記載)。
- 実務は「幹事長」が取り仕切っていた。
- 「噫[4] ○○君」という追悼文のタイトルが並ぶ中に「仲田英之」さんの「幹事長の弁」という「新幹事長就任」の文章がある。
- 発行者は「東京府立第八中学校同窓会」となっており、「菊桜会」という名称になったのは戦後のようです(詳細は現在調査中)。
- かなり分厚い「会報」であり、現在の会報とは型式が異なるが、前半77ページで「編集後記」と「奥付」となっている。
- 次ページは、「第15号」の原稿募集、その次に「赤いページ」で「会員名簿」となっていて、以降は「同窓会会則」に続き、教職員、旧教職員、そして卒業生の名簿が「第1回卒業生」から掲載されている。
- ここから見ていくと、
- 昭和3年卒業の「第1回生」はこの時点(ほぼ14年後の昭和17年1月末)で202名中30名が死亡。
- 続いて昭和4年卒業「第2回卒業生」200名中、この時点で26名死亡。
- 昭和5年卒業「第3回生」194名中22名死亡
- 昭和6年卒業「第4回生」219名中20名死亡
- 昭和7年卒業「第5回生」202名中15名死亡(卒業10年後)
- 昭和8年卒業「第6回生」184名中20名死亡(卒業9年後)
- 旧制中学は5年ですから、卒業時は17歳。
- ほぼ1割の生徒が卒業後10年足らずで死亡。
- 昭和9年卒業「第7回生」203名中7名死亡(卒業8年後)
- 昭和10年卒業「第8回生」214名中6名死亡(卒業7年後。享年24歳以下)
- 昭和11年卒業「第9回生」208名中5名死亡(卒業6年後。享年23歳以下)
- 昭和12年卒業「第10回生」218名中5名死亡(卒業5年後。享年22歳以下)
- 昭和13年卒業「第11回生」223名中5名死亡(卒業4年後。享年21歳以下)
- 昭和14年卒業「第12回生」218名中1名死亡(卒業3年後。享年20歳以下)
- 昭和15年卒業「第13回生」213名中3名死亡(卒業2年後。享年19歳以下)
- 昭和16年卒業「第14回生」237名(卒業1年後。18歳では死亡ゼロ)
- もちろん、全員が戦没者ということではないでしょうが、極めて「おそろしい」数字です。
- そして、この後、敗戦の1945(昭和20)年8月までの3年半ほどの間に戦没者はさらに増加することとなります。
「同窓會會報 第14号」全文
- 以下のリンクから「同窓會會報 第14号」全文をご覧いただけます。
- 「同窓會會報 第14号」PDFファイルへのリンク
卒業アルバム
関連項目
*← 1940年度 (昭和15年度) *→ 1942年度 (昭和17年度)
脚注
・
2022年10月15日:直近編集者:Hosamu
TimeStamp:20221015131543