「1922年度 (大正11年度)」の版間の差分
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==1922(大正11)年度== | ==1922(大正11)年度== | ||
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ファイル:1923 8chuSouritumaeAroundGakkou.png||<div style="text-align:center; >1923年(大正12年) | ファイル:1923 8chuSouritumaeAroundGakkou.png||<div style="text-align:center; >1923年(大正12年) 八中創立前の学校付近</div> | ||
ファイル:koyamahonmichi skech.png|<div style="text-align:center; >大正末~昭和初期の小山本道略図(40周年記念誌)</div> | ファイル:koyamahonmichi skech.png|<div style="text-align:center; >大正末~昭和初期の小山本道略図(40周年記念誌)</div> | ||
ファイル: | ファイル:1973 AroundKoyamadaiHS.png||<div style="text-align:center; >1973年(昭和48年)の小山台高校付近 (日地販より)</div> | ||
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| | | style="text-align:center" | できごと || style="text-align:center" | 詳細・引用・寄稿 | ||
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|style="width: | |style="width: 35%;vertical-align:top" |8月24日 東京府荏原郡平塚村小山ニ本校ヲ設置シ 1923(大正12)年4月ヨリ開校ヲ認可セラル | ||
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3月XX日 青山師範学校(現東京学芸大学=赤坂区青山北町5丁目)内で東京府荏原郡平塚村小山東京府立第8中学校入学試験を行い、志願者1,047名、入学許可者281名<br><br><br><br>3月11日 目黒-田園調布-蒲田を結ぶ目蒲線が全通 | |||
| rowspan="3" style="width: 65% ;vertical-align:top" |'''江戸時代の小山は幕府の直轄領'''</br> | |||
| rowspan="3" style="width: 65% ;vertical-align:top" | | |||
'''江戸時代の小山は幕府の直轄領'''</br> | |||
小山村は江戸時代に近隣の大井村、中延村、上・下大崎村、桐谷村と共に徳川氏の直轄領であり代官が支配していた。</br> | 小山村は江戸時代に近隣の大井村、中延村、上・下大崎村、桐谷村と共に徳川氏の直轄領であり代官が支配していた。</br> | ||
目黒川の沿岸には、せまいながらも一帯に水田が開け、武蔵野原にはめずらしし、米産地だったといわれる。一方目黒区碑文谷あたりから流れる小川に、品川用水のあまり水が落ちていた立会川のため中延あたりは早く開けたようである。</br> | 目黒川の沿岸には、せまいながらも一帯に水田が開け、武蔵野原にはめずらしし、米産地だったといわれる。一方目黒区碑文谷あたりから流れる小川に、品川用水のあまり水が落ちていた立会川のため中延あたりは早く開けたようである。</br> | ||
学校の北を東南に流れる品川用水は元禄4年(1691)に幕府の命でつくられたもので、用水は多摩郡境村で多摩川の水を分水して流し、戸越村で二つにした。一つは桐ヶ谷・大崎の村を流れ品川町付近で目黒川に落ち、もう一つは中延村を経て立会川に落ちていたかんがい用水である。 | 学校の北を東南に流れる品川用水は元禄4年(1691)に幕府の命でつくられたもので、用水は多摩郡境村で多摩川の水を分水して流し、戸越村で二つにした。一つは桐ヶ谷・大崎の村を流れ品川町付近で目黒川に落ち、もう一つは中延村を経て立会川に落ちていたかんがい用水である。<br> | ||
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'''小山という地名の由来'''<br> | '''小山という地名の由来'''<br> | ||
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大正12年9月1日の関東大震災では、さいわい被害がきわめて少なかったので、震災で焼け出された人々が移って住むようになり、しだいに田畑が住宅地に変わってきた。<br> | 大正12年9月1日の関東大震災では、さいわい被害がきわめて少なかったので、震災で焼け出された人々が移って住むようになり、しだいに田畑が住宅地に変わってきた。<br> | ||
昭和2年に平塚町を荏原町と改称し、昭和7年1月に東京市隣接5郡が東京市に編入することになり荏原町は荏原区となって、小山は荏原区小山町となった。(品川区勢概要より)<br> | 昭和2年に平塚町を荏原町と改称し、昭和7年1月に東京市隣接5郡が東京市に編入することになり荏原町は荏原区となって、小山は荏原区小山町となった。(品川区勢概要より)<br> | ||
==== 小山は大震災直後から発展した ==== | ==== 小山は大震災直後から発展した ==== | ||
小山本通りは小山銀座通りとともに、震災直後から急速に発展したが、大正14年頃には飾りつけの良い商店は駅に近い、1,2,3丁目までで、4丁目は家もまばらとなり、空地も多く風に吹きさらされ、両側の畑地には笥林の残りもちらほらしていた。<br> | 小山本通りは小山銀座通りとともに、震災直後から急速に発展したが、大正14年頃には飾りつけの良い商店は駅に近い、1,2,3丁目までで、4丁目は家もまばらとなり、空地も多く風に吹きさらされ、両側の畑地には笥林の残りもちらほらしていた。<br> | ||
本通り末端部、すなわち4丁目の北側に小さいながら10数軒の商店がならび、古びた片側町を作っていた。これは平塚橋を中心とする古い農業集落を顧客とするもので、1,2丁目の駅周辺のお客相手の商店街とは雰囲気を異にしていた。本通り中間の空白地帯も昭和3年頃にできた本通り市場、昭和6年の映画電気館(現荏原武蔵野館)が客を呼び徐々に商家が混んできた。昭和4年に川崎第百銀行(現大丸百貨店)、昭和5年に東京電灯出張所(現東電品川支所)ができて町に重みが加わった。<br> | 本通り末端部、すなわち4丁目の北側に小さいながら10数軒の商店がならび、古びた片側町を作っていた。これは平塚橋を中心とする古い農業集落を顧客とするもので、1,2丁目の駅周辺のお客相手の商店街とは雰囲気を異にしていた。本通り中間の空白地帯も昭和3年頃にできた本通り市場、昭和6年の映画電気館(現荏原武蔵野館)が客を呼び徐々に商家が混んできた。昭和4年に川崎第百銀行(現大丸百貨店)、昭和5年に東京電灯出張所(現東電品川支所)ができて町に重みが加わった。<br> | ||
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戦後昭和22年に新しい日本国憲法、地方自治法が施行され、荏原は品川に合併され品川区となり、学校は品川区小山3丁目25番地となった。<br> | 戦後昭和22年に新しい日本国憲法、地方自治法が施行され、荏原は品川に合併され品川区となり、学校は品川区小山3丁目25番地となった。<br> | ||
昭和41年より町名表示変更により3丁目3番32号となり現在に至っている。 | 昭和41年より町名表示変更により3丁目3番32号となり現在に至っている。 | ||
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'''生徒の見た小山付近の変遷''' | '''生徒の見た小山付近の変遷''' | ||
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セメントを流すための鉄の塔が森よりも高く立てられた。グルグルと砂とセメントが混合されて上から流れ出て来た。ガーガーとその音が静かな田園の空気を引き裂いた。電鉄が開通し始めたのはそれからずっと後だ。小山駅(元は武蔵小山といわなかった)といっても名ばかりで、土を高くした丈けであって改札なんて無かった。<br> | セメントを流すための鉄の塔が森よりも高く立てられた。グルグルと砂とセメントが混合されて上から流れ出て来た。ガーガーとその音が静かな田園の空気を引き裂いた。電鉄が開通し始めたのはそれからずっと後だ。小山駅(元は武蔵小山といわなかった)といっても名ばかりで、土を高くした丈けであって改札なんて無かった。<br> | ||
白い大きな建物が半分できかけたときに、あの地震だ。倒れるような家もなかった。被災者がやって来る。家が建ち始める。道路が作られる。畠が段々無くなる。震災が小山を都会にした。それから10年後、家はもう飽和状態である。昔、雲雀の鳴いた所、雲雀の声はチンドン屋の雑音に敗かされてしまった。緑色から黒色に。屋上から見ることのできるだけでも学校7つ、映画館6つ、煙突数10本。バーができる、デパートができる。一体どうなるんだ、末恐ろしいことだ。(昭和8年9月 5E 山田 毅一:中7回) | 白い大きな建物が半分できかけたときに、あの地震だ。倒れるような家もなかった。被災者がやって来る。家が建ち始める。道路が作られる。畠が段々無くなる。震災が小山を都会にした。それから10年後、家はもう飽和状態である。昔、雲雀の鳴いた所、雲雀の声はチンドン屋の雑音に敗かされてしまった。緑色から黒色に。屋上から見ることのできるだけでも学校7つ、映画館6つ、煙突数10本。バーができる、デパートができる。一体どうなるんだ、末恐ろしいことだ。(昭和8年9月 5E 山田 毅一:中7回) | ||
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| style="text-align:center" |世 相 | |||
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|style="vertical-align:top"| 4月16日 帝国ホテル全焼<br> | |||
7月15日 日本共産党結成(堺利彦・山川均ら)<br> | |||
8月15日 西武鉄道設立(武蔵鉄道より社名変更)<br> | |||
10月31日 ベニート・ムッソリーニが首相に就任<br> | |||
11月17日 アルベルト・アインシュタイン来日(~12月29日、改造社の招聘)<br><br> | |||
12月30日 ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)樹立宣言<br> | |||
1月11日 フランス・ベルギー軍がドイツの第一次世界大戦賠償支払の遅延を理由にルール鉱工業地帯を占領<br><br> | |||
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==関連項目== | ==関連項目== |
2023年10月14日 (土) 16:23時点における最新版
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1922(大正11)年度
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できごと | 詳細・引用・寄稿 |
8月24日 東京府荏原郡平塚村小山ニ本校ヲ設置シ 1923(大正12)年4月ヨリ開校ヲ認可セラル
3月XX日 青山師範学校(現東京学芸大学=赤坂区青山北町5丁目)内で東京府荏原郡平塚村小山東京府立第8中学校入学試験を行い、志願者1,047名、入学許可者281名 |
江戸時代の小山は幕府の直轄領 小山村は江戸時代に近隣の大井村、中延村、上・下大崎村、桐谷村と共に徳川氏の直轄領であり代官が支配していた。 元禄ごろに人口急増、経済力も増大したので新開地の三谷に新しく八幡社を分けて小山八幡となった。 小山は大震災直後から発展した 小山本通りは小山銀座通りとともに、震災直後から急速に発展したが、大正14年頃には飾りつけの良い商店は駅に近い、1,2,3丁目までで、4丁目は家もまばらとなり、空地も多く風に吹きさらされ、両側の畑地には笥林の残りもちらほらしていた。 |
世 相 | |
4月16日 帝国ホテル全焼 7月15日 日本共産党結成(堺利彦・山川均ら) |
関連項目
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脚注
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2023年10月14日:直近編集者:Adminkoyama100
TimeStamp:20231014162333