「上原 好一」の版間の差分

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[[ファイル:一覧用画像_05_上原好一.jpg|thumb|200px|上原 好一校長]]'''上原 好一'''(うえはら こういち、1959年4月1日 - 1964年3月31日)は、日本の教育者。東京都立小山台高等学校校長(五代)
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==本校歴==
==本校歴==
:1960年  3月31日 旧校舎北側外壁の改修が完成する。
:1960年  3月31日 旧校舎北側外壁の改修が完成する。
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:1963年 4月    第一次ベビーブーム対策として本年度に限り1学級53名、10学級編成の第1学年が入学する。
:1963年 4月    第一次ベビーブーム対策として本年度に限り1学級53名、10学級編成の第1学年が入学する。
:1963年 11月 8日 創立40周年記念式典挙行及び40周年誌を刊行する。
:1963年 11月 8日 創立40周年記念式典挙行及び40周年誌を刊行する。
    
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:上原好一校長先生については、以下のフォルダー内文書を転記すること。
[https://www.dropbox.com/scl/fo/1z4ka91vwr2fh5a1jb36c/h?rlkey=ivm2e3wfgulafh85f14d221wc&dl=0 05_上原好一校長]
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==エピソード==
  上原好一氏は、昭和三十四年四月都立杉並高等学校長より着任された。本校のような伝統をもつ学校にあっては、進路指導に重点を置く方針は揺ぎ得ない。事実は、ほぼ斉藤前校長時代のカリキュラムに準拠しつつ、さらに徹底改善された指導方針によって着々成果を挙げ、三十七年三月には、東京工大三十八名(全国首位、第二位は十八名)、東京大学四十六名(全国第十位)の線に達し、生徒の希望や適性に応じて、多方面に人材を送り、全国に名を轟かせている。進学のみならず体育科も三十四年には都の研究指導校として、大に努力し、過去の実績も加わって都の表彰を受けた。現在、小山台に欠けたものありとすれぱ、それは校舎施設の老朽化であろう。これを補って、内容にふさわしい外形の整備に次々に手が打たれた。三十四年、新校長の着任早々校舎校地の全体計画が考えられ、その一部は四十周年記念事業としてPTAが積極的に推進することとなり、都が学校の熱意を酌んで、巨額の費用を投入せられたことに対し感謝の微意を表したい。都費による改善の第一は、外壁の改修で、これは三十四年より連続三ヶ年にわたり為に校舎の外観は一新した。三十五年初夏、木造の図書館が危険校舎として除去され、かわりに流酒たる鉄筋コンクリートの新館が出現したのがその二である。教室の不足はこれによって解消したが、長年八中以来不便をかこっていた便所は三階建水洗式の最新式に改善せられ、各階に手洗所水飲み所も同時に設置せられたのは三十六年四月のことである。第三には運動場と校庭の整備、第四に校舎内部改修である。これらは三十八年度に予定されていると聞くので、これの実現を今鶴首して待っている。PTAの四十周年記念事業の手始めは、三十五年春のロッカーの購入で、このため生徒は各自が鉄製の文字合せ式鍵を持つロッカー一個を貸与されることとなった。次いで、放送施設を完備した。また、三十五・六年にわたって千葉県館山市字見物に五百余坪の土地を雌入して、将来建設すべき臨海学舎の足がかりとした。三十七年十二月鉄筋コンクリート二階建生徒班室の工を起こし、三十八年四月には完成、生徒班活動に大きな便宜を供するであろう。定時制PTAもこれに呼応して、三十七年春、群馬県吾妻郡嬬恋村鹿沢の地を相して、鹿沢寮の建設を始めた。一階は鉄筋コンクリート、二階木造の山の家で、夏は浅間山周囲の山歩き、冬はスキーに好適である同年七月末竣工すると、直ちに林間学校全定合同で開設した。このような急速度の改修・新築の連統の中で、生徒の勉学に悪影響ありやが危倶されたが、幸にも職員PTA生徒の一致協力によって、前述のように成果が益々挙ったのは全く慶賀に堪えない。こうして大正十二年に誕生した府立第八中学は、新制第八高等学校から小山台高等学校と生々発展して、今日の隆盛を誇るに至った。なお懸案は山積しているが、これらを打開して校運をいやが上にも進展させようと、四十周年を迎えていっそうの決意を新たにする次第である。(三八・三・一六)(本校教頭)40周年記念誌より抜粋
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==関連項目==
==関連項目==

2023年11月19日 (日) 16:43時点における最新版

上原 好一校長

上原 好一(うえはら こういち、1959年4月1日 - 1964年3月31日)は、日本の教育者。東京都立小山台高等学校校長(五代)

本校歴

1960年 3月31日 旧校舎北側外壁の改修が完成する。
1960年 4月 生徒用個人ロッカーを新設(62年度まで継続)する。教員の研修日を実施する。、 
1960年 5月16日 千葉県館山市見物に臨海施設用地として359.68坪をPTAで買収する。
1960年 5月18日 図書館(二階)兼工作室(一階)であった木造二階建ての建物が老朽化のため取り壊しを行う。図書館は新校舎増築完成まで本校舎に収容する。 
1960年 10月 1日 東京都体育祭に参加、自校体操の公開演技を披露する。(於国立競技場)
1961年 4月16日 増築校舎完成、鉄筋3階建(946.16㎡)(普通教室 5,図書室及び準備室、生物実験室及び準備室、視聴覚室、体育職員室、各階に生徒用便所を設置する) 旧館中央に3階建便所が完成する。
1961年 7月 千葉県館山市見物にPTAで183坪を買収。先に買収した用地と合わせて臨海施設用地とする。
1961年 8月 教室暖房用ガス工事着工、62年度まで継続。
1962年 3月22日 旧校舎校庭側外壁の改修が完成する。
1962年 7月23日 定時制同窓会、定時制PTAによる林間施設鹿沢寮が完成する。(借地495.855㎡、木造2階建て302.34㎡)所在地群馬県吾妻郡嬬恋村。
1963年 1月17日管理棟外壁・旧校舎、窓の防球金網が完成する。
1963年 3月   スキー教室実施、以後毎年実施する。
1963年 4月    第一次ベビーブーム対策として本年度に限り1学級53名、10学級編成の第1学年が入学する。
1963年 11月 8日 創立40周年記念式典挙行及び40周年誌を刊行する。


上原好一校長先生については、以下のフォルダー内文書を転記すること。

05_上原好一校長

エピソード

  上原好一氏は、昭和三十四年四月都立杉並高等学校長より着任された。本校のような伝統をもつ学校にあっては、進路指導に重点を置く方針は揺ぎ得ない。事実は、ほぼ斉藤前校長時代のカリキュラムに準拠しつつ、さらに徹底改善された指導方針によって着々成果を挙げ、三十七年三月には、東京工大三十八名(全国首位、第二位は十八名)、東京大学四十六名(全国第十位)の線に達し、生徒の希望や適性に応じて、多方面に人材を送り、全国に名を轟かせている。進学のみならず体育科も三十四年には都の研究指導校として、大に努力し、過去の実績も加わって都の表彰を受けた。現在、小山台に欠けたものありとすれぱ、それは校舎施設の老朽化であろう。これを補って、内容にふさわしい外形の整備に次々に手が打たれた。三十四年、新校長の着任早々校舎校地の全体計画が考えられ、その一部は四十周年記念事業としてPTAが積極的に推進することとなり、都が学校の熱意を酌んで、巨額の費用を投入せられたことに対し感謝の微意を表したい。都費による改善の第一は、外壁の改修で、これは三十四年より連続三ヶ年にわたり為に校舎の外観は一新した。三十五年初夏、木造の図書館が危険校舎として除去され、かわりに流酒たる鉄筋コンクリートの新館が出現したのがその二である。教室の不足はこれによって解消したが、長年八中以来不便をかこっていた便所は三階建水洗式の最新式に改善せられ、各階に手洗所水飲み所も同時に設置せられたのは三十六年四月のことである。第三には運動場と校庭の整備、第四に校舎内部改修である。これらは三十八年度に予定されていると聞くので、これの実現を今鶴首して待っている。PTAの四十周年記念事業の手始めは、三十五年春のロッカーの購入で、このため生徒は各自が鉄製の文字合せ式鍵を持つロッカー一個を貸与されることとなった。次いで、放送施設を完備した。また、三十五・六年にわたって千葉県館山市字見物に五百余坪の土地を雌入して、将来建設すべき臨海学舎の足がかりとした。三十七年十二月鉄筋コンクリート二階建生徒班室の工を起こし、三十八年四月には完成、生徒班活動に大きな便宜を供するであろう。定時制PTAもこれに呼応して、三十七年春、群馬県吾妻郡嬬恋村鹿沢の地を相して、鹿沢寮の建設を始めた。一階は鉄筋コンクリート、二階木造の山の家で、夏は浅間山周囲の山歩き、冬はスキーに好適である同年七月末竣工すると、直ちに林間学校全定合同で開設した。このような急速度の改修・新築の連統の中で、生徒の勉学に悪影響ありやが危倶されたが、幸にも職員PTA生徒の一致協力によって、前述のように成果が益々挙ったのは全く慶賀に堪えない。こうして大正十二年に誕生した府立第八中学は、新制第八高等学校から小山台高等学校と生々発展して、今日の隆盛を誇るに至った。なお懸案は山積しているが、これらを打開して校運をいやが上にも進展させようと、四十周年を迎えていっそうの決意を新たにする次第である。(三八・三・一六)(本校教頭)40周年記念誌より抜粋


関連項目

着任:1959年4月1日
退任:1964年3月31日
前 任 在 任 後 任
齋藤 清

1959年度 (昭和34年度)

1960年度 (昭和35年度)

1961年度 (昭和36年度)

1962年度 (昭和37年度)

1963年度 (昭和38年度)

木村 武雄



関連事項

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脚注: ・

2023年11月19日:直近編集者:Inorio
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