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==世相== | |||
:'''1966年''' | |||
:06.30 ザ・ビートルズ武道館で公演<br> | |||
:08.18 中国文化大革命勝利大集会<br> | |||
:'''1967年''' | |||
:02.11 建国の日が祝日となる<br> | |||
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:'''流行語'''-黒い霧・びっくりしたなあもう<br> | |||
:'''流行歌'''-君といつまでも・骨まで愛して・星のフラメンコ<br> | |||
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==忘れ得ぬこと 吉田修作== | |||
棒倒し、騎馬戦、ムカデ競走、今にも飛びかからんとする猛虎の絵をバックに団長の指揮による手拍子…。こんな光景があの頃を思い出す度に断片的ながらも鮮明に浮かんで来る。我々は二年・三年K組。小山台の長い歴史の中で後にも先にもないであろうこの組は、我々が戦後最大のベビーブームの年であったことによるもので、通常のAからHまでの八学級より二つ多い一○学級、それもHの次のI、Jは1と紛れ易いなどという理由でとばして、K、Lの二学級が設けられた。普通運動会では各学年二学級毎、四つの色に分けての対抗戦であるわけだが、我々半端なK組は黄色組に配属された。他の色の組より人数の多い分は多分、一人の出場種目を減らしたりして調節したと思うのだが、我々の黄色組は二年、三年と二連覇を飾った。棒倒しでは幾日も前から皆で集まって作戦会議を行い、騎馬戦、ムカデ競争も放課後遅くまで練習に汗を流した。運動会当日は、棒倒しでは唇を切り、騎馬戦では騎手として最後まで残り、ムカデ競走では自分の出場した後、黄色の大きな応援旗を持ち、笛を鳴らしながら仲間の伴走をした。私が人一倍張り切って見えたのか、卒業アルバムに私のムカデ競走で伴走した姿が大きく掲載されている。当時、担任の長瀬治先生に、「君は運動会ぐらい勉強の方にも熱中するといいのだが」と言われたものだ。勉強の方では蕗落ちこぼれで先生方に御心配をかけた私だったが、今思い返してあの運動会での熱焼が高校生活そのものだったと思う。 | |||
長瀬先生、並びに一年の担任の安藤千鶴子先生がともに倒語の先生だった影響もあって、学校は途うものの、高校の国語の教師をしている今、在校生に一言言うとするならば次のことである。君達が二○年、三○年後に小山台時代を振り返った時、一つでも忘れ得ぬことがあると言えるような高校生活を送って欲しい。何故ならば、それがやがて君達の、そして小山台の明日につながっていくのだから。<br> | |||
(高18同・昭41年卒慶応義塾高等学校教諭)(「60周年記念誌」P175) | |||
==合宿と卒業生 横山尚人== | |||
高校の運動部にも合宿が存在することは.小山台高の合宿所が私の進学した大学剣道部と同一宿舎だったことで知った。木崎湖畔での合宿のときに、何気なく開いた宿の寄せ書き帳を見ると、前週迄合宿していた旨が書いてあった。次に山中湖で合宿した年にも、小山台の名前を見つけた。大学では毎年、合宿する土地を変えているのだが、行った先々で高校の名を見つけると、次も一緒かと期待するようになった。しかし、当然ながら一致したのはその年だけだった。そこで私は、高校の合宿が、毎年山中湖で行われていることを知ると、恩師の先生方とお会いしたいことも手伝って、合宿訪問をすることにした。ある年には一人で、ある年には妻子連れで行った。現役の諸兄と花火をしたこともあれば、数分で帰ることもあった。稽古をして、まだまだ高校生には負けないと一人感心したこともあった。が、最近はやや逃げ腰である。卒業すると剣道をやめてしまう仲間が多い中で、剣道部の卒業生は、毎年一○名ほどが合宿へ参加し、実際に稽古指導をしてくれる。また、合宿だけでなく武蔵小山へも足を運んでくれている。OBの存在は在校生にとって大きな励励みとなっている様子だ。卒業しても母校のクラブと一緒に活動できる組織、例えばOB会のような組織が、もっと明確な形態に完成されたらと願わずにはいられない。<br> | |||
(高18回・昭41年卒相模原市にて歯科医院開業)(「60周年記念誌」P175) | |||
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==教職員== | ==教職員== |
2025年3月9日 (日) 11:37時点における版
(編集中) (編集完了)
1966(昭和41)年度
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できごと | 詳細・引用・寄稿 |
4月8日 (午前)始業式 4月8日 (午後)入学式 高21回生(男子318、女子100、計418名) 9月1日 始業式 1月3日~7日 スキー教室 |
生徒総会で制帽廃止を決議 大矢和光 小山台高校を卒業して一六年の歳月か過ぎ去りました。しかし、小山台で経験し、教えられたことが今もなお私の中で生き私を動かしています。小山台時代の友人達は普段音信不通ながら、ひとたび会えば昨日までともに暮したような付き会い方をします。これら良き仲間を与え、私を作り上げてくれた小山台、その一端が生徒会活動にも見られます。 (20回・昭43年卒 聖マリアンナ医科大学第二外科助手) |
世 相 | |
6月30日 ザ・ビートルズ武道館で公演 |
できごと
- 04.08 (午前)始業式
- 04.08 (午後)入学式 高21回生(男子318、女子100、計418名)
- 04.09 対面式
- 04.19 身体検査、結核検診(~21)
- 04.23 PTA総会
- 05.04 創立記念日
- 05.13 遠足(1・2・3年)
- 05.26 中間テスト(~28)
- 06.03 生徒総会
- 06.13 ア・テスト(2・3年) (~15)
- 06.18 父兄会(1年)
- 06.25 父兄会(2年)
- 06.30 腸バラ予防接種
- 07.02 父兄会(3年)
- 07.11 期末テスト(~14)
- 07.20 終業式
- 07.22 転入考査
- 07.28 臨海学校・林間学校(~31)
- 08.01 臨海学校・林間学校(~08)
- 09.01 始業式
- 09.02 ア・テスト(1・2・3年) (~05)
- 09.07 水泳大会(~09)
- 09.24 第21回寒菊祭(学芸会・展示会) (~25)
- 10.09 運動会
- 10.12 結核検診(~14)
- 10.18 中間テスト(~20)
- 10.21 インフルエンザ予防接種
- 10.28 インフルエンザ予防接種
- 11.02 生徒会役員認証式
- 11.05 父兄会(2年)
- 11.09 遠足(1・3年)
- 11.09 修学旅行(2年) (~13)
- 11.12 父兄会(1年)
- 11.16 ア・テスト(3年) (~18)
- 11.25 生徒総会
- 11.30 防火演習
- 12.03 父兄会(3年)
- 12.14 期末テスト(~17)
- 12.24 終業式
- 01.03 スキー教室(~07)
- 01.09 始業式
- 01.10 ア・テスト(3年) (~12)
- 01.28 ロードレース
- 02.11 スケート教室(~12)
- 02.22 選抜テスト(~23)
- 03. 学校群制度により、田園調布高校と本校で「第14群」を結成。学校群制度第一回目の入学者選抜実施。
- 03. 財団法人小山台名義の体育館・プールを都に寄付。体育館敷地・プール敷地を都に無償貸与。
- 03.10 学年末テスト(~14)
- 03.18 卒業式 高19回生(男子328、女子96、計424名)
- 03.22 終業式
- 03.23 転入考査
- 03.23 スキー教室(~26)
- 03.31 木村武雄校長退職
世相
- 1966年
- 06.30 ザ・ビートルズ武道館で公演
- 08.18 中国文化大革命勝利大集会
- 1967年
- 02.11 建国の日が祝日となる
- 流行語-黒い霧・びっくりしたなあもう
- 流行歌-君といつまでも・骨まで愛して・星のフラメンコ
忘れ得ぬこと 吉田修作
棒倒し、騎馬戦、ムカデ競走、今にも飛びかからんとする猛虎の絵をバックに団長の指揮による手拍子…。こんな光景があの頃を思い出す度に断片的ながらも鮮明に浮かんで来る。我々は二年・三年K組。小山台の長い歴史の中で後にも先にもないであろうこの組は、我々が戦後最大のベビーブームの年であったことによるもので、通常のAからHまでの八学級より二つ多い一○学級、それもHの次のI、Jは1と紛れ易いなどという理由でとばして、K、Lの二学級が設けられた。普通運動会では各学年二学級毎、四つの色に分けての対抗戦であるわけだが、我々半端なK組は黄色組に配属された。他の色の組より人数の多い分は多分、一人の出場種目を減らしたりして調節したと思うのだが、我々の黄色組は二年、三年と二連覇を飾った。棒倒しでは幾日も前から皆で集まって作戦会議を行い、騎馬戦、ムカデ競争も放課後遅くまで練習に汗を流した。運動会当日は、棒倒しでは唇を切り、騎馬戦では騎手として最後まで残り、ムカデ競走では自分の出場した後、黄色の大きな応援旗を持ち、笛を鳴らしながら仲間の伴走をした。私が人一倍張り切って見えたのか、卒業アルバムに私のムカデ競走で伴走した姿が大きく掲載されている。当時、担任の長瀬治先生に、「君は運動会ぐらい勉強の方にも熱中するといいのだが」と言われたものだ。勉強の方では蕗落ちこぼれで先生方に御心配をかけた私だったが、今思い返してあの運動会での熱焼が高校生活そのものだったと思う。
長瀬先生、並びに一年の担任の安藤千鶴子先生がともに倒語の先生だった影響もあって、学校は途うものの、高校の国語の教師をしている今、在校生に一言言うとするならば次のことである。君達が二○年、三○年後に小山台時代を振り返った時、一つでも忘れ得ぬことがあると言えるような高校生活を送って欲しい。何故ならば、それがやがて君達の、そして小山台の明日につながっていくのだから。
(高18同・昭41年卒慶応義塾高等学校教諭)(「60周年記念誌」P175)
合宿と卒業生 横山尚人
高校の運動部にも合宿が存在することは.小山台高の合宿所が私の進学した大学剣道部と同一宿舎だったことで知った。木崎湖畔での合宿のときに、何気なく開いた宿の寄せ書き帳を見ると、前週迄合宿していた旨が書いてあった。次に山中湖で合宿した年にも、小山台の名前を見つけた。大学では毎年、合宿する土地を変えているのだが、行った先々で高校の名を見つけると、次も一緒かと期待するようになった。しかし、当然ながら一致したのはその年だけだった。そこで私は、高校の合宿が、毎年山中湖で行われていることを知ると、恩師の先生方とお会いしたいことも手伝って、合宿訪問をすることにした。ある年には一人で、ある年には妻子連れで行った。現役の諸兄と花火をしたこともあれば、数分で帰ることもあった。稽古をして、まだまだ高校生には負けないと一人感心したこともあった。が、最近はやや逃げ腰である。卒業すると剣道をやめてしまう仲間が多い中で、剣道部の卒業生は、毎年一○名ほどが合宿へ参加し、実際に稽古指導をしてくれる。また、合宿だけでなく武蔵小山へも足を運んでくれている。OBの存在は在校生にとって大きな励励みとなっている様子だ。卒業しても母校のクラブと一緒に活動できる組織、例えばOB会のような組織が、もっと明確な形態に完成されたらと願わずにはいられない。
(高18回・昭41年卒相模原市にて歯科医院開業)(「60周年記念誌」P175)
教職員
※学校要覧からは転記済20230721(班活・就任以外)軽微な追加修正のみ
職名 | 教科目 | 氏 名 | 担任 | 校務分掌 | 班活顧問 | 就 任 | PTA・菊桜会 | 財団小山台 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
校長 | (英語) | 木村 武雄 | 1964/04/01 | 理事長 | |||||
教頭 | 数学 | 飛岡 正治 | 1964/04/16 | 常任理事 | |||||
教諭 | 国語 | 舞田 正達 | 3F | 弁論同好会 | 1939/06/30 | ||||
落合 光禎 | 3年係 | 1945/09/30 | |||||||
長瀬 治 | 庶務部長 | 1957/04/01 | |||||||
安藤 千鶴子 | 3C | 華道 | 1960/04/01 | ||||||
湯沢 賢之助 | 2F | バスケット | 1962/04/01 | ||||||
河野 通敬 | 1E | 新聞 | 1963/05/01 | ||||||
土屋 泰男 | 2D | ラグビー | 1965/04/01 | ||||||
野沢 穣 | ワンダーフォーゲル | 1965/04/01 | |||||||
社会 | 地理 | 宮田 時雄 | 教務部長 | 1947/06/15 | |||||
斉藤 績 | 3G | バドミントン | 1962/04/01 | ||||||
世界史 | 三橋 力 | 補習科主任 | 1949/05/15 | ||||||
日本史 | 荒久保 忠夫 | 2A | 学年主任 | 写真 | 1954/09/16 | ||||
沢井 景之助 | 2B | 歴史研究 | 1960/04/01 | ||||||
政経 | 塩野入 啓晃 | 3年係 | 演劇 | 1949/04/01 | |||||
倫社 | 野々山 正司 | 1A | 学年主任 | 心理研究 | 1949/03/31 | ||||
数学 | 奥野 一雄 | 2G | 天文 | 1946/03/31 | |||||
不島 静夫 | 3H | 鉄道研究 | 1947/09/30 | ||||||
井沢 弘児 | 2C | 野球 | 1950/03/31 | ||||||
竹内 庸雄 | 進路部長 | 剣道 | 1950/03/31 | ||||||
川又 之裕 | 1957/04/01 | ||||||||
斎藤 昉 | 3A | 学年主任 | 美術 | 1960/04/01 | |||||
石井 孝雄 | 1F | 1960/04/01 | |||||||
若林 明弘 | 1C | 卓球 | 1963/04/01 | ||||||
理科 | 物理 | 永見 至 | 2E | ラジオ | 1944/09/20 | ||||
八乙女 盛典 | 1G | 物理 | 1949/04/30 | ||||||
化学 | 園山 忠夫 | 図書部長 | 化学 | 1946/09/15 | 理事 | ||||
生物 | 矢野 佐 | 1年係 | 1942/03/31 | ||||||
鈴木 亨 | 生徒部長 | 1951/04/05 | |||||||
水越 虔二 | 3D | 生物 | 1963/05/01 | ||||||
地学 | 多胡 忠治 | 2年係 | 水泳、社会研究 | 1965/04/01 | |||||
英語 | 深掘 修 | 2年係 | 硬式テニス | 1945/10/31 | |||||
大島 長次 | 2年係 | 軟式テニス | 1945/06/20 | ||||||
勢山 秀子 | 1H | ESS | 1949/05/31 | ||||||
原口 正則 | 自動車 | 1958/04/16 | |||||||
中山 重男 | 1D | 柔道 | 1959/04/01 | ||||||
清水 忠 | 3E | 海洋、フォークダンス | 1960/04/01 | ||||||
羽部 英二 | 3B | 文芸 | 1965/04/01 | ||||||
保健体育 | 榎木 繁男 | 保健部長 | 陸上競技 | 1949/03/31 | |||||
小林 年子 | 1B | 舞踊 | 1952/04/01 | ||||||
阿部 修二 | 2H | 器械体操 | 1958/04/01 | ||||||
永島 惇正 | 3年係 | 排球 | 1963/04/01 | ||||||
粂 太郎 | 1年係 | サッカー | 1964/09/01 | ||||||
家庭 | 持塚 多喜 | 2年係 | 1951/02/28 | ||||||
芸術 | 音楽 | 吉岡 巌 | 1年係 | 音楽 | 1958/03/31 | ||||
司書 | 矢口 洋子 | 弦楽 | 1955/04/01 | ||||||
養護 | 斎藤 千代 | 1964/03/01 |
講師・校医
※学校要覧からは転記済20230721 軽微な追加修正のみ
教科 | 氏名 | ||
---|---|---|---|
講 師 | 社会 | 千葉 茂雄 | |
姫田 光義 | |||
武田 秀輝 | |||
理科 | 大岩 誠 | ||
林 良重 | |||
小川 健吾 | |||
芸術 | 美術 | 武田 良三 | |
書道 | 黒沢 岩資 | ||
校医 | 内科 | 武田 久孝 | |
耳鼻科 | 仙頭 哲夫 | ||
眼科 | 早川 和夫 | ||
歯科 | 鎌田 栄一 | ||
薬剤師 | 三浦 薫 |
事務職員
※学校要覧からは転記済20230721(就任以外)
職 名 | 氏 名 | 就 任 |
---|---|---|
事務長 | 佐藤 二郎 | 1966/04/01 |
事務主事 | 井上 とみ | 1948/10/15 |
諸 孝 | 1961/05/01 | |
真保 孝 | 1962/07/01 | |
事務主事補 | 佐生 せい子 | 1949/08/31 |
内田 誠 | 1961/05/01 | |
見村 すみ子 | 1964/04/01 | |
山本 瑛子 | 1962/05/17 | |
司書 | 菅原 千枝子 | 1965/04/01 |
助手 | 小林 泰代 | 1964/04/01 |
金沢 昭二 | 1966/04/01 | |
熊谷 等 | 1966/04/01 | |
用務員 | 上田 信吉 | 1936/07/22 |
平野 福三郎 | 1947/05/01 | |
槌屋 貞二郎 | 1964/04/01 | |
警備員 | 浜村 辰次郎 | 1954/08/01 |
神原 孝史 |
生徒在籍数 (1966年4月現在)
※20230719に確認したところ、学校要覧からは転記済でした。
組 | A | B | C | D | E | F | G | H | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1年 | 男 | 39 | 38 | 40 | 40 | 39 | 41 | 40 | 41 | 318 |
女 | 12 | 13 | 13 | 13 | 13 | 12 | 12 | 12 | 100 | |
計 | 51 | 51 | 53 | 53 | 52 | 53 | 52 | 53 | 418 | |
2年 | 男 | 40 | 40 | 40 | 40 | 40 | 40 | 40 | 40 | 320 |
女 | 13 | 13 | 13 | 13 | 13 | 13 | 13 | 13 | 104 | |
計 | 53 | 53 | 53 | 53 | 53 | 53 | 53 | 53 | 424 | |
3年 | 男 | 40 | 41 | 41 | 41 | 41 | 41 | 41 | 42 | 328 |
女 | 12 | 12 | 12 | 12 | 12 | 12 | 12 | 12 | 96 | |
計 | 52 | 53 | 53 | 53 | 53 | 53 | 53 | 54 | 424 | |
総 計 | 男 | 966 | 女 | 300 | 計 | 1,266 |
寒菊祭(学芸、展示、招待試合、後夜祭)
- 9月24日(土)、9月25日(日) 開催
- この年から「学校祭」→「寒菊祭」という名称を使い始めた。
「1966年寒菊祭プログラム」は以下のリンクからご覧になれます。
- 1966年寒菊祭.pdfファイルへのリンク
- 文化祭(寒菊祭)パンフレット一覧は以下のページからご覧いただけます。
- 文化祭(寒菊祭)一覧表
運動会
- 10月9日(日) 開催
- 結果:黄色:783、青:689、赤:661、白:630
菊香 第1号
- 全定合同機関誌「寒菊」に加えて、「生徒会誌 菊香」の記念すべき第1号が発行されました。
「生徒会誌 菊香 第1号」全文 は以下のリンクからご覧になれます。
- 「生徒会誌 菊香 第1号」pdfファイルへのリンク
- 生徒会誌「菊香」の一覧はこちら → 生徒会誌「菊香」一覧表
寒菊 (全定合同機関誌 第9号)
- 1967(昭和42)年に発行された「第9号」は保管されていません。
卒業アルバム
- この年度の卒業生は、「高19回生」(男:328名、女:96名)となります。
- 卒業アルバムは「高19回生」のページに掲載されています。
小山台新聞
- 1966(昭和41)年度発行
- 「小山台新聞1966(昭和41)年4月8日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→「小山台新聞1966昭和41)年4月8日発行」へのリンク
- 「週間小山台創刊号1966(昭和41)年6月18日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→「週間小山台創刊号1966(昭和41)年6月18日発行」へのリンク
- 「週間小山台第2号1966(昭和41)年6月25日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→「週間小山台第2号1966(昭和41)年6月25日発行」へのリンク
- 「小山台新聞1966(昭和41)年7月23日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→「小山台新聞1966(昭和41)年7月23日発行」へのリンク
- 「小山台新聞1966(昭和41)年12月17日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→「小山台新聞1966(昭和41)年12月17日発行」へのリンク
- 「小山台新聞1967(昭和42)年3月18日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→「小山台新聞1967(昭和42)年3月18日発行」へのリンク
関連項目
* ← 1965年度 (昭和40年度) * → 1967年度 (昭和42年度)
脚注
・
2025年3月9日:直近編集者:NMKtakaji
TimeStamp:20250309113740