西尾 孝

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西尾 孝 先生 (中14回卒業アルバム)

西尾 孝(にしお たかし、19XX年XX月XX日 - 19XX年XX月XX日)は、府立第八中学校 英語教諭

本校歴

1940(昭和15)年12月10日 府立八中英語教諭として赴任
1942(昭和17)年 7月 都制施行により、東京都立第八中学校と改称
1947(昭和22)年 4月30日 都立八中から退任




記事1

報國団雑誌_第19号_101_西尾孝_語学する心01
  「語学する心」  西尾孝
 英語国民が東亜にさらけ出した惨敗は、曩に女子中等学校にあっては、英語は全廃乃至随意という結果を招来し、近く男子中等学校にあっても、何等かその決定的対応策がほどこされる迄に、状勢は進展し来たったのであるが、世には徒に国粋を尊重せんとする余り、外国語の至外国文化に対して、行き過ぎた考えを懐く向きもあるやに思はれるので、此処に自分の初心の一端を述べ、自分のえいぎょ英文学に於ける修行の根本的態度を明らかにして以て識者の批判を仰ぎたいと思ふのである。
 そもそも我が国で始めて接した外国語外国文化は、言う迄もなく支那語支那文化である。支那語は、その昔フランス語が英国に演じたと同じ文化的役割を日本に於いても演じたものといへる。紀元5,6世紀の頃、原住民たるケルト族を打ち破って英島に移住した北欧の海賊アングロ族、サクソン族、ジュート族は、此の島に王国を建てたが、1066年エドワード王崩御と同時に大陸のノルマンディ公ウィリアムの襲撃を受け、新王ハロルドは勇ましき最後を遂げウィリアムは英国の王位に登った。歴史の上で所謂ノルマン・コンケストといってゐる事件である。かくして多数の野すまん人が海を渡り英国に来て、顕要の地位を占め権勢を以って国民に臨んだから、アングロ・サクソン族の生活の隅々迄も侵入し、英語はとみに語彙の豊富を来すに至った。この事は我が国に移入し来た支那文化とほぼ事情を同じうしてゐる。
 漢人は日本民族がまだ石器を使用してゐた間に、既に高い文化を開展していた。国家の組織、法律、制度、学問、文芸、ーそれらは印度、ギリシャの分化と共に古代に於ける人類文化の最高峰を形作るものである。日本民族はローマの外蛮が原始的であった如く原始的であったに反し、漢人はローマ人が成熟してゐた如くに成熟してゐた。漢人との接触が日本人の新しい文化生活の機縁となったことは云う迄もない。
 ではその接触は何時頃始まったかちいへば、確実な記録によって知られる最古のものは、後漢の初建武中元2年(57A.D.)である(和辻哲郎日本古代文化参照)。併し支那の文化が盛んに流入したのは朝鮮との交渉以後の事である。
 即ち新羅が唐と共力して百済を亡し任那の日本府を倒す迄は朝鮮半島と我が国との交通はなかなか盛んで、百済は我が国に学者、技術者、僧侶を送って日本文化の発達を助けた。「論語」と「千字分」とを伝えた王仁博士、良馬をつれて来た阿直岐、始皇帝13代の孫と称して120県の民を率ゐて来た弓月君、これらが渡って来たのは皆この頃である。これらの人々は皆帰化して、王仁の子孫は西史、阿知使主の子孫は東史、阿直岐の子孫は阿直岐史となって、朝廷に仕へ又我々の祖先に学問を教へた。殊に阿知使主の子孫は漢人といはれ、隋・唐へ留学して支那の新しい学問制度を学んで帰り、弓月君の子孫は泰氏といはれ、山城に住んで養蚕や機織の技術を教へた。又、聖徳太子が遣はされた遣隋使の一行に加わった留学生は、殆ど皆漢人で朝鮮から帰化した支那の学問・法律・政治・文化等を学ぶのにも一段と進歩が早かった。かくして漢学は飛鳥・奈良朝を通じて一世を風靡し、平安朝の初期にはその全盛期を迎へた。いや初期だけではない。この支那風の思想、支那風の自然人生の味ひ方が、平安蝶文化全体の底を流れ、さらに武家時代文化の血ともなり肉ともなったのである。従って志のある者は博覧強記といって、出来るだけ多くの詩や書物を読破し、それをよく記憶し何を尋ねられても立所に答へられるやうに工夫したものである。漢詩漢文学の大家も多く輩出し、「凌雲集」「文華集麗集」などいふ立派な詩文集が作られたりした。詩文を書き写す必要上、書道も又当然発達し、特に晋の王羲之に範を仰いだものの如く、嵯峨天皇、空海、橘逸勢は特に三筆として尊ばれた。
 併しながら、我々は此処に歴史から学ぶへき大切な教訓のある事を見逃してはならない。我が民族はその豊かな受容性の故に、先進国の秀れた文化に接した場合、遮二無二その模倣吸収に性急なる余り、自己の姿を見失ふやうなことがあるけれども、その文化を吸収し得られる限り吸収しつくした暁には、反動的に国粋的傾向が表はれ、結果に於てはその取捨選択宜しきに適って、真に外来文化を自家薬籠中のものとしてゐることになるのである。例へば儒教は支那から取り入れた外来思想であった。然るにそれは却って我が国古来から存した君臣父子夫婦寒の自然の感情に基づく道を明らかに意識するに役立ち、この道を社会生活の統制的位置に迄高める為に大きな感化を及ぼしたのである。そしてこれが二千余年の久しきに亘って日本人の生活に継続せる安定を興へ、治乱興亡の間を縫って連続せる文化的発展をなし得る素地を作る一の要因となったのである。之に反してその本国たる支那を見よ。今日の如く反省と秩序と統制とを欠く国情が持上ったのは何故であらうか。一体支那では何か格言なり諺なりが生れるには、それ相応の現実があってこそ生まれるので、例へば「夫死して嫁せず」と言ふからといって支那では完全にこの風習が守られてゐるものだと思ふのは間違ひである。唯日本人はかうした支那の言葉をば事故の心の中に永くも守られてゐるものを具体的に明確にした言表として受け入れたにすぎない。その言葉の示すものを守りながらそこに日本の精神、日本の文化を発展させて来たのである。印度から受けた無常観にしてもさうである。徒に現実の世界からの逃避に始終せずして、日本人は「無常」を「あはれ」に迄発展させて行った。もののあはれを知ることが、人間としての尊い品格と考へられた。だからこそあやしの賎山がつは、もののあはれを知らぬが故に卑められたのである。
 以上みて来た如く、漢学といってもそれは単に言葉の学問に了らずして、支那語を介しての大陸文化の研究を意味した。外国語学は日本人にとっては文化学の一分科として取り扱はれて来たのである。これは日本民族がその文化にコペルニクス的転換を与へる機縁をなした蘭学英学についても当てはなると思ふ。
蘭学とは、鎖国封建の時代にあっては当時唯一の貿易国たりしオランダの国語を介して我が国に輸入せされた泰西諸科学並びに海外風物知識の謂であって、医学・天文学・地理学・化学・動植物学・生理学・砲兵学等頗る多岐に亘った内容からなってゐる。蘭学といふ名の起りは「社中にて誰いふとなく蘭学といへる新名を首唱し、我東方闔州自然と通称となるにも至れり」と玄白自身言っている如く明和年間に生じたものであらう。
蘭学勃興の原因として大体三つの因子を認めることが出来る。その一は蘭人と取引の必要上通詞を置いた事。その二は白石の学問に対する実証主義、客観主義的態度ー即ち彼は幕命を以って自らキリシタン屋敷に幽閉中の欄入につき泰西の事情を訊して「西洋紀聞」「采覧異言」を著はし、以て泰西学術の端緒を開いた。その三は将軍吉宗の好学的態度に負う所が多い。吉宗は殊に心を天文暦法の事に傾け建部彦次郎、中根玄圭等を召して道を問ひ泰西学術の進歩は我が国の到底及ばざるを知り、渾天儀、測午儀等を造らしめて、これを吹上苑中に据ゑ、又参府中の蘭人に問うに鉄砲、御馬の方を以てし、且つ彼等に命じて泰西の形態を報告せしめた。又享保5年には意を決して禁書の令を解き宗教書以外の諸種学術典籍の輸入と講述とを許した。この時に出たのが青木昆陽であり、彼は同志野呂元丈と共にオランダ使節について蘭語を学び、のち延享元年には遠く長崎に遊び刻苦研鑽、蘭語七・八百余語を習得し「和蘭文字略考」「和蘭話訳」等を著した。かれこそ蘭学興起の祖と仰ぐべく、前野良澤、杉田玄白にづれも彼の流れを汲むものである。玄白には「蘭学事始」といふ蘭学開創の由来を回想したものがあるが、その中で彼は「今時世間に蘭学といふ事専ら行はれ、志をたつる人は篤く学び、無職なる者は漫りにこれを誇張す。其初を顧み思ふに、昔し翁が輩23人、不図此事に志を興せし事なるが、はや50年に近し。今頃かく迄に至るべしとは露思はざりしに、不思議にも盛んになりし事なり。漢学は遣唐使といふものを異朝へ遣はされ、或は英邁の僧侶などを渡され、直に彼国人に従ひ学ばせ、帰朝の後貴賎上下への誘導の為めになし給ひし事なれば、漸く盛んなりしは尤の事なり。此蘭学は左様の事にも非ず。然るにかく成り行しはいかにと思ふに、夫医家の事は其教へ方総て実に就くを以て先とする事ゆへ、却て領会すること速かなるか、又は事の新奇にして異方妙術も有ることの様に世人も覚居る故、奸猾の徒、これを名として、名を釣り利を射る為に流布するおのなるか。」と日本文化史上注目すべき問題を提示してゐる。
 玄白自身もいってゐるように、蘭学は実学として出発した。実学とは儒教の形而上学に対して、形而下を意味し文字通り実際生活に役立つ利用厚生の学問のことであった。財政の窮迫、町人の勃興、交換経済の発達等に依って実勢を露呈し来つた封建制度の維持強化に専心した吉宗自身もその補強工作の意味を以て実学の奨励を計った。実証主義に基いて発達せる自然科学を包含せる蘭学が、実学の要求を充すものとして取り上げられたのは、かかる政治的理由によるものであった。併しかかる気運の仲にも泰西諸科学を純正の学問的研究として主体的且つ専門的に一科学を完結的に研究し、実学の精神を洋学研究の中に生かさうとする蘭学者が輩出し、日本を近代国家へと推進せしめる下地を作った。先ず医学の方面では「蘭学階梯」の著者仙豪藩医の大槻玄澤、「ハルマ和解」の稲村三伯、「内科選要」の宇田川玄随などが前に言った玄白や良澤の外に挙げらるべき人物であり、「気海観瀾」を澤し理学を開いたのは青地林宗、化学を提唱した「舎密開宗」の著者宇田川榕庵、経済学の佐藤信淵、植物学の飯沼慾斎、薬医学の大家坪井信道箕作阮甫、そのほか佐久間象山、高野長英、司馬江漢、尾形洪庵、その門下の橋本左内、大村益次郎、長興専斎、福沢諭吉等名士碩学排出して明示初年に於ける泰西学術の基礎を築いた。又蘭学者が専門の学術研究の傍ら、海外の事情を調査して対外の策を立て当局をして開国維新の際、過を少なからしめるに力あった功績は忘れられてはならない。もし蘭学という泰西文化の細流が全然我が国に流れ込んで来なかったならば、世界的文化を基礎にした日本文化の建設には歴史の示したようなあの安易さは見られなかったであろう。。勝俣教授の巧みな比喩を借りれば、蘭学は言わば種痘のようなもので、日本は徳川時代にその種痘をしていたから、開国日本を目蒐けて邁進して来た西洋文化という疱瘡に対峙し、日本文化をして今日あらしめたのである。蘭学はその任務を十分に果し、潔よく徳川幕府に殉じて運命を共にし、新時代に花形英学に後を譲るに至った。
楽額が急転直下英学に転換されたのは安政年間であるがヨーロッパにあっては1582年ころヨーロッパ主要語の中仏・独・伊・西に続いて第5位を占めていた英語が18世紀末期には国力の発展に伴って19世紀の半ばまでにはすでに第1位に押し上がっていた。こうした気運がいつしか此の東洋の島にも迫って来て、蘭学はもはや新時代の要求を充たすものではないということが識者の頭に克明に刻まれ、英学台頭の機が熟したわけである。槐園に始まり4代目の興斎に至って、英学への転向を示し、洪庵門下にあって蘭学研鑽に励んでいた福澤諭吉もいち早く英学へと転向を志した。  英国が海の優越権を得て、海上を横行し、漸く東洋及び我が近海にその威力を伸ばすようになってのは寛政以後家斎将軍の頃からで、英米の捕鯨事業が非常な発展をなして太平洋に進出し、しきりに辺海に出没するようになってからである。先ず最初に姿を現したのは寛政3年紀州熊野裏に渡米した商船アルゴノート号であり、次いで来航したのがプロヴィデンス号である。この船は、マルコポールの<5/15>「金銀の島」を探検する目的を以って再三北海道や奥羽海岸に出没して土地の人々を驚かした。所が当時英語を解するもの日本国中を尋ねても唯の一人も居らないといった有様で当局の狼狽振りは想像に余りある。そこで指揮者の間に英語修得の必要、翻訳局設置に関する意見が起こって来た。長崎に於けるフェートン号事件は特に幕府をして英語研究の必要を痛感せしめ、遂に文化6年には長崎通詞6名をしてオランダ人プロムホフに英語を学ばしめた。英語を学問として語学として系統立った研究の始められたのは之が最初である。爾後幕府は英語の学習に力を入れ英語辞典や英文法書を刊行せられるに至った。則ち我が国最初の纏まった英学書として珍重せられている「諳厄
利亜国語和解」が長崎で出来たのは文化8年で、又我が国最初の英語辞書たる「諳厄利亜語林大成」は文化11年に刊行されている。「和解」は長崎のオランダ通詞達が大通詞本木諸庄左衛門正栄を世話役とし、プロムホフを師として出来上がったものであるが、注目すべき事実は彼等が既に英国国民性及び英語の本質に対して正しい理解を持っていたことである。即ち凡例中に「彼れ元ト達意の辭の国にして勇悍を好み事の簡経を先とするの俗なるがゆゑ」とあるのは、北欧の碩学が英語の特に帰しているのと符合するものであり、吾々は日本の英学が英語を通じて英国国民性を掴まんとする正しい態度から出発したことを喜ばなければならない。尚、同じ凡例中に「年を積み功を累て此学の堂奥に入らば不虞に備る一大の要務にして」とあるのは、幕命による長崎における英学開始の同期が国防にあったことを思い合わせると思い半ば過ぐるものがあろう。 日本英学発祥の地たる長崎は文化の創業後数年は大分活動したが、依頼余り振るわず、安政になって海軍伝習が西役所に開かれたり、英語伝習所が出来たり、更に後にこれが英語所と改称され、更に洋学所となり、かのフルベッキが教えていた。後フルベッキは東京の開成学校に移り理学の中心も長崎から江戸へ移った観があった。明治も5、6年になると、素晴らしい英語の流行氾濫を来したものらしい。そのことの英語修得の通俗本の氾濫がその間の消息を物語って余りある。明治18年頃には、井上伯が外相の時条約改正の案が完成される模様があり大いに英語研究熱が昂ったが、漸次下向線を辿り、英学の衰微はドン底に達したが、27年に日英条約改正ともなって玆に英学は大いに拍車<6/16>をかけられ英語の重要性は不動となり、その価値の認識は益々深化した観があった。然るに最近になって満州事変支那事変に関してとれる英米の反日的態度、並みに昨年12月8日遂に米英と釁端(きんたん)を開くに至り、日本は過去数十年教科課程の重要部分として扱って来た英学を改めて批判する立場に置かれるに至ったのである。之は日本文化の辦証法的発展過程における当然の現象と言わなければならない。文化は一般に伝統承受と個性発揮との総合として成立すると言われている。併しながら此の際外国文化の輸入ということがなかったならば、個人が現実に即応して伝統に対し悲観的な態度をとり、伝統を固陋に陥らしめざるようにそれに弾力性包容性を附与し、それに於いて創造的個性の発揮が自由に行われ得る如くにそれを具体化する事は不可能である。飽くまで自己固有の伝統を保持して外来文化を自己に同化するならば、固有の文化は個人の創造を通じて益々その内容を豊富にし、人類の普遍的立場に於いてその価値を承認せられるものとなる。(田邊元著正法眼蔵の哲学私観参照)この意味に於いて我々は今後といへども外来文化の刺激なしには、日本の文化を益々向上さして行くことは困難であろう。日本文化の特色は同化性の強い、外来文化に圧倒せられることなく、却って之を自己の伝統の発展に対する媒介たらしめる強靭なる包容性にある。
以上述べて来た所からも明らかな如く、日本に於ける外国語学はいづれも皆、それを通じて外国文化との接触が必要欠くべからざるものである以上、その媒体となる外国語学は発するわけには行かないであろう。唯問題とすべきは今後いづれの国の文化とより緊密な関係を保って行くべきかであって、それによって外国語学の対象尾決定するわけであるが、多くの識者の考えを総合するに米英敗戦の後と言えども英米文化を根にもった国々と接触を保つ方が多く、従って一般教養として授くべき外国語学も英学であろうという意見に一致するようである。ただしそれを授くべき方法に於いては一時陥ったが如き英国植民地的教授法は無論一日も早く発すべきであって、我が国外国語学がいづれも発足した本然の正しい姿に立ち帰らなければならない。こういうと、人は自分の理解している「語学」なるものはドイツでいうフィロロギの概念に近い事を想起するであろう。実際日本に於ける漢学・蘭学の採用した方法と課題とはベックのそれに近いものであったといえると思う。即ち彼はフィロロギ本来の課題は「人間精神によって生産されるものの認識」(das Erkennen des von menschlichen Geist Poducirten,d. h. des Erkannten)であると見做した。それは単なる言語研究でもなければ又外国研究でもない。それは言語文学に表現された。又表現されている限るに於ける、一民族(或一民族群)の固有の精神生活の認識を任務及び対象とする。従ってそれは言語の研究を以って出発点とする。何となれば言語は一民族の最内奥の精神生活の表現であり、国民の認識に於ける最も繊細にして同時に最も普遍的なものであるからである。之に関連して思いつくのは宜長の採った学問の方法である。彼は言葉の研究から出発した。併し彼は決してそれのみに終始したのではなかった。
宣長の学問はどちらかと言えばヴォルフのフィロロギを彷彿せしめるものがある。ヴォルフに依れば、ギリシャ人やローマ人の政治的性格、家庭状態、文化、言語・芸術・学問・風俗・宗教及び国民的特質、思想に関する知識の総和を彼の学問の内容とし、ギリシャ・ローマより伝承せる作品を根本的に理解し、それらの内容及び精神の洞察を持ち、古代生活を彷彿せしめて、後代及び現在の生活と比較鑑賞するを得せしむるものである。宣長にありては、ギリシャ・ローマを我が国上代に置き換えたにすぎない。しかもわが国学が実にドイツのフィロロギに先立つ一世代に、もとより全く独立に同様の業績を我が古典に於いて実現したことは我等の大いなる誇りでなければならぬ。
一体国学は宣長に於いて完成した学問となったとはいえ、その淵源は元禄時代の学界の新機運たる古学運動に迄さか上ぼることが出来る。それは、儒学の古学運動に触発されて興り、直接間接に影響されて発展を遂げたのであるが、その祖として契沖を有した国学の学的性格をして儒学の古学に比して、著しく特色を規定したものといえよう。彼の学の主とした分野は、万葉集の訓詁注釈と歴史的仮字遣即ち復古の語学とにあった。従ってその態度は自ら帰納的又実証的方法を採り、或いは客観的・科学的にてってし、更に進んで古代を理解するには古代を以てし、古書を理解するには古意を以ってするの歴史主義となった。かくて彼の学問は、まづ国学の為にその説明学的性格を規定したものであった。彼につづいて国学を概念的に成立さしたものは荷田春満である。契沖に対して彼に著したかったのは、むしろ規範学的性格であり、それは彼の道学的人格と相まって、彼の学問をして国学史上に他の重要なる位置を占めさせたのである。彼に直接師事した加茂真淵は、実にその万葉研究を以って、春満の国学の概念にまづその実質を与えた。彼の万葉研究は契沖を承へて一層精しきに入り、殊に万葉集によっての古代精神の発揮理解、万葉風の作歌によってのその体得等に於いて大いなる業績を示した。彼が儒仏以前の我古代精神の素朴の価値を閳明し、かかる古代精神の偉大なる単純さの象徴として、万世一系の皇室の君臨し給うた国体の精華を明らかにしたのは、まさしく彼の国学の最も輝かしい功績である。続いて宣長に至ると、語学・中古学・上古学の3分野に亘るその学問の規模に於いて、その業績の実質に於いてその学はまさしく国学を完成させたものであった。
宣長の学説は、彼に於いては勝目から意識的、論理的に成立組織されたものでなくて、実に彼が訓詁注釈そのもののうちにむしろ自ら構成さるるに至ったのである。而してその成因こそ、彼の訓詁注釈的研究の裏に存していた真の学問的要求、-即ち個々の穿鑿に埋没せずして常に総合的観念の下に子を眺め以ってその中に何等かの法則もしくは主義を見出すことを忘れなかったことである。彼の著書順序は彼のこの学問発達の順序を示して興味がある。
時代上最初に来るのは文学説である。この範囲に於いて彼の主著たるものは、紫文要領及び石上私淑言のニ書で、その他の著書の主なものは玉の小櫛の総論でこれは逍遥の文学論に影響を与えたものである。第2はご学説で、彼の語学の研究は中古歌分研究の間に形成されて明和8年に一先づまとまりその後中古、上古の古典の研究伴って発達したものといえよう。最後に達した段階は、古道説である。主著は言う迄もなく「古事記伝」であり、古道とは古典の解釈を通して為した古文明の閳明で、同時に一々それら古典上の事実を規範として説いた世界観人生観社会観宗教観道徳観等に亘った一大総合的見解である。(村岡典嗣著増訂日本思想史研究及同人本居宣長参照)
さて今や自分は所謂「語学する心」について述べる立場に到着した事を覚える。この言葉は科学する衛生する等の流行語が許される限りに於いて、妥当性を獲得するであろう。この言葉によって自分が意味せんとするものは、実は今迄縷々絮説し来った国学乃至フィロロギに於ける語学的精神に外ならぬのである。併しその対象に於いては単に古典語に限定せず、広く現代外国語をも包含せんとするものである。即ち我国に於ける外国語学或いは外国文学研究はそ<9/15>の外国語えお通して、その民族のもつ民族精神なり、世界観、国家観、宗教観、その他思想形態、一切の生の客観化作用を理解することを対象とするもんでなければならぬ。従ってその学習方法に於いても徒に運用の妙を得るだけで能事了れりとするのは植民地的教授法といわねばならぬ。我等が英語を学習するのと、印度人が英語を学ぶのとは大いに趣が違う。近時往々にして、欧州的文化の範疇より独立して日本文化提唱の声が巷に盛んである。その志や壮、その意気や盛んなりといえども、その前提としてその為にはヨーロッパが創造した文化価値に対して、全く新たなるしかも普遍的価値を存する文化を樹立し、一般に承認さにねばならぬことを想起すべきである。この為には文化が伝統的承受と個性発揮との総合として成立する以上、外国語外国文学研究を介して伝統を固陋に陥れしめず弾力性包容性を附与し、以って創造的個性を自由に発揮せしむべき外国文化と常に接触を保って行くべきではあるまいか。
従って精神文化の流れを向上さす大業に、最も与って力ある知識階級を要請する第一段階たる中等学校にあっては外国語学は必須のものとなるのである。徒に実用的見地からのみ学科の選択を行うのは、英米の功利主義的思想の甚しきものと言わなければならない。日本人にして英文学理解の最高の水準に達した漱石の言葉を以ってこの稿を了りたいと思う。「僕は軍人がえらいと思う。西洋の利器を西洋から貰って来て、目的は、露国と喧嘩でもしようというのだ。日本の特色を拡張するため、日本の特色を発揮するために、この利器を買ったのだ。文学者が西洋の文学を用いるのは、自己の特色を発揮する為でなければならん。それが一見奴隷の観があるのは不愉快だ」(漱石全集別冊)
  --17.9.6ーー

外国語を知らざる者は自国語を知らず ーーーゲーテの箴言



記事2

報國団雑誌_第19号_152_教師ぶら下がり取材_秋晴れの八角塔02

 今まで僕は外国文学をやって来たでしょ、戦争以来、日本文化にたちかへらうとして居ます。外国文学を一度経た目で日本文化を研究しようと思っています。学生時代の感想ですか、まあいろいろありますがね、兎に角楽しく、のびのびと勉強出来た事が楽しかったですよ。季節は春、だって万物そうそうとして新たな生きる楽しさがあるでしょ。5月の頃の緑ですよ。趣味は本を読む事。和辻哲郎さんのを。(大職)



記事3

篤友_会報4号_P4_父_西尾浩子
~特別寄稿~  「父」  西尾浩子
 はじめまして。私は西尾孝の長女の浩子と申します。
 まず最初に、なぜ私がここに出てきたのかという事からお話をさせていただきます。
 私は現在、神田神保町の呂古書房という古書店を開いています。7年前に独立するまで仕事をしていたお店のお客様の中に、安田不二夫様がいらっしゃいました。当然私は、面識もあり、お話もさせていただいておりました。しかし、その安田様が父の教え子である事は全然知る由もありませんでした。ある日、父が都立第八中学校第19回生同期会に招かれとても楽しかったと言って、いろいろ話をしてくれました。名簿も見せてくれましたので、何気なく見ていたら、何だか見覚えのあるお名前があり、こんなにも同姓同名の方がいらっしゃるなんてと思っていましたが、翌日あまりにも気になったものですから、自分のお店の顧客リストを広げてみました。やはり同姓同名ではなく、私が存じ上げています安田様ご本人でいらしゃったのです。もうびっくり、安田様が来店なされた時にお話をいたしましたら、世の中は広い様で狭いものですねと大変に驚かれまていました。
 安田様は大変な蒐集家でいらして、特に北原白秋関係をほとんど集めになられ、世田谷文学館へご寄贈なされた事は、新聞でも紹介されました。安田様と古書店の関係は幅広く、その中の一古書店として私共もいろいろお世話になっております。その様な関係からお声がかかり、ここに参加させていただいた訳でございます。
 父は大正5年5月生まれで、現在84歳になります。おかげ様で元気に過ごしております。私が生まれて一年位で、父は将校として出征いたしました。勤務が樺太になった時の話は子供心によく聞いていました。場所柄どうしてもスキーが出来なければ困るため、かなりの特訓を受けたそうですが、どうしても滑ることが出来ず、元々運動嫌いな父は、どうどうストーブ番でいたという話を今でも覚えています。父は、あんなに長いものを履いて、うまく滑れる方が不思議だとも言っていました。自分が運動神経が鈍いせいか、私たち子供にも積極的に運動を勧めず、かえって過保護な所がありました。
 樺太の後は仙台勤務となり、そこで終戦になったそうです。仙台には古本屋があり、非番の日にはよく行き、好きな本をかなり集めることが出来た様です。しかし終戦直後は生活が苦しく、それを売って家計の足しにしたとの事で、その売り先も神田神保町の角にあった古書店(店名は覚えていない)で、かなり良い値段で買い取ってくれ助かったと聞いています。後に再び、都立第八中学校へ戻りました。
 私が小さい時の父の記憶はあまりこれおとったものはなく、いつも書斎で勉強している姿しか思い浮かびません。ただ珍しい物やハイカラな物が好きで、私が小学校の時に家にトースターがありました。これおは進駐軍の払い下げ品で、父はそれを買い、コーヒーの粉等も買ってきて、朝食は当時からパン食でした。
 散歩と言えばきまって古本屋通いでした。お供はいつも私で、古本屋のご主人と顔馴染になり、おまけをもらったりするのでついて行く事が楽しみでした。家中本だらけになり母にはあまりいい顔をされませんでした。それは現在も同じ様な事が他のご家庭でもある様です。お客様が「今日は家内がいないので多めに持って帰っても大丈夫」と言われ足りなさいますので。
 本の中にいる父という印象が強く、私も影響を受け、古書独特の香りの中にると落ち着きました。現在の仕事のルーツはそこにあったのかもしれません。
 父はドライブが好きで、知人に頼んでよく家族をいるいろな所へ連れて行ってくれました。そのうち私が免許(昔は16歳から小型自動車免許が取得できた)を取りましたので、毎日曜日といっていいほど、おにぎり等を持ってドライブに出掛けました。今ほど混み合う事もなく、道路も整備されていませんでした。車に冷房などついていませんから、夏は窓を開けて走りますので、田舎道を走ると土埃で皆の顔が煤けたり、ホイルキャップがはずれて拾ったり、今ではとても考えられない事だらけですが、父はとても楽しそうで、お出掛けにはいつもベレー帽をかぶっていました。運動が嫌いな父ですから、スポーツ観戦等まったく行った事がなく、友達からいろいろ話を聞くと、とても羨ましく思った事が何度かありました。その代わり、本を買う事に関しては、ダメと言われた事はなく助かりました。
旺文社の大学受験ラジオ講座の英文法を担当していましたから、友人から家で教えてもらえていいわねとよく言われましたが、ラジオ講座を聴いたこともなく、教わることもあまりしませんでした。親子だと結構照れくさかったり、又、原稿に追われて忙しいと悪いと思ったりして、よほどの事がないと聞きませんでした。英語は出来て当たり前と先生からいつも言われ、努力が認められず、とうとう私は英語嫌いになってしまいました。
 一番嬉しかった事は、私の大学入学試験の日の事です。今まで入試などはかなり経験しているはずなのに、我が子の入試となると違ったのでしょうね。車の中で原稿を書き乍ら終わるまで待っていてくれました。親の方でも初めての経験なので、やはり緊張していた様です。
 趣味は仕事とまったく正反対で純日本風です。時代劇や歌舞伎、長唄等が大好きで、長唄はよくレコードをかけていました。現在では、テレビで時代劇がない日には早く寝てしなう事もあります。又、物を集めることが好きで、本は勿論の事、万年筆、パイプ、カバン、時計等を蒐集していました。
 年齢も84歳ともなると、さすがに元気な父もいろいろ病気をしています。脳梗塞で三度も入院をしました。発見が早く軽かったため後遺症は残りませんが、血液がサラサラになる薬はずっと飲み続けています。白内障にもなり手術をし、前よりも良く見える様になったと言っています。ただ歯だけは丈夫で70歳になるまで歯医者へ行った事がありませんでした。現在では差し歯はありますが、ほとんど自分の歯で食事が出来、こんなに幸せな事はないといつも言っています。母がリハビリのため入院していますが、自分の事は何でもやってくれますのでとても有難いです。ボケないでいつまでも元気で家族を見守ってほしいと心から願っています。

 皆様どうぞ父をよろしくお願いいたします。


関連項目

着任:1940年 3月31日
退任:1945年 7月25日



関連事項

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脚注: ・

2023年12月23日:直近編集者:SGyasushi
TimeStamp:20231223175051