舞田 正達

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
ナビゲーションに移動 検索に移動
舞田 正達 先生 (1990年撮影)

舞田 正達(まいだ まさとお、19XX年XX月XX日 - 19XX年XX月XX日)は、日本の漢文学者。府立第八中学校 国語教諭

本校歴

1939(昭和14)年 6月30日 府立八中国語教諭として赴任
1942(昭和17)年 7月 都制施行により、東京都立第八中学校と改称
1948(昭和23)年 4月 1日 学制改革(新制高等学校制度)により、東京都立第八新制高等学校となる
1950(昭和25)年 1月28日 校名を東京都立小山台高等学校と改称
1970(昭和45)年 3月31日 都立小山台高校を退任




参考書

舞田正達先生が表した参考書
【問題解法の新技術 漢文の基礎】→「メルカリ」サイト「古書」より
【研数書院 問題解法の新技術 漢文の基礎】→「大学受験 絶版参考書博物館」より



関連項目

着任:1939年 6月30日
退任:1970年 3月31日



「唐詩に遊ぶ」

「唐詩に遊ぶ」舞田正達



はしがき

「師弟の友情」        舞田正達
  -この本の出来たわけ-

 この稿を書くのは11月28日、晩秋の良く晴れた日の夕方です。中国の昔の詩人が、「一年の好景、君、すべからく記すべし。」と歌ったように、自然の風景が一番美しい時代です。この頃のような、これは、自分独りの思いかも知れませんが、生きているのがつらい!と思う程厭やな世の中でも、”自然だけは美しい装いをして、私たち人間を慰めてくれます。その時だけは、生きていてよかったー”と思うのですがー。
 この季節になると、私は何時でもこうした美しい晩秋の季節に、栗田さんご夫妻と一緒に中国の南方を旅して楽しんだことを思い出すのです。美しい、楽しい旅でした。私の詩魂は豊に養われたことでした。
 偶然のことですが、NHKテレビは、昨夜、中国雲南省昆明の、仙境と言われる悠久の山河、桂林の風景を2時間にわたって放映していました。楽しかった! 私たち夫婦はじいっと見入っていました。見終わると、私は2階の書斎に入って、桂林で求めた美しい事前の風景の掛け軸を取り出して見入ったことでした。おっして、改めて、そういう機会を与えて下さった栗田さんの友情に感謝したのでした。改めて、”栗田さん、ありがとう”と、口ずさみました。
 私たち2人の間は、指定の間柄ではありますが、まるで仲の良い友達のようなものです。高校での漢文の時間に、私は白楽天の、あの玄宗皇帝が楊貴妃との湯浴みを楽しんだ詩を、まるで彼のためのように、艶っぽく講じたことでした。面白かった! それから、学校の文化祭で、2人で組んで、落語の「牡丹灯篭」を一席伺って、途中で絶句。野次り倒されたことを覚えています。心の友です。こういうのを、中国では、”莫逆の友”とか申します。本当に親しい間柄です。
 話は変わりますが、栗田さんはいつの間にか、えらくなって、東京の世田谷で印刷・出版の会社を建てて、その社長として活躍して居られました。私は相変わらず一教員で、2つの大学で中国文学を講じていました。でも、住まいも近かったので、2人の仲は一層親しくなっていました。
 昭和60年のことでした。栗田さんは、私のために、「教育のふるさとー人間教育50年流転の回想ー」という分厚い本を、丸抱えで、出版して下さったのです。私からお願いしたのではなく、栗田さんのお薦めでした。私は有り難くお受けしました。私は本当に甘えん坊です。
 話は飛びます。今年4月8日、私の93歳の誕生日の夜、私は考えがあって誕生日の祝いはしませんので、独り静かに机にペンを走らせていました。すると、電話。久し振りで栗田さんの声ー。「先生、お元気ですか? お願いがあります。先生お得意の、”
ロマンの中国の詩歌”といったものを書いて、出版させて下さい! 有終の美ですよ」とのことでした。私は、ありがとうお話とは思いましたが、今までいろいろお世話になって来ているので、家内と話し合って、遠慮して辞退したのです。でも押し切られました。ありがたいことでした。
 で、”書けるうちに!”と思って、外のスケジュールを変えて、書き始めたのです。快調!。この調子なら、年内にも?とも思いました。
 ところが、人生、山あり谷あり! 7月に入って、栗田さんが病に倒れて入院、しかも、集中治療室入りとか、心配でした。私の執筆は勿論一時ストップ!
 ところが、今度は我が家にも! 私自身がその頃に入り、急に築地のがんセンターに、4度目の入院。手術! 万事窮す。僕、93ですよ。でも幸いに、短い期間で退院、現在、自宅で静養中ですが、なんと言っても、老呆の身、明日知れぬ身です。あぁ!どうしましょう。
 かくては、”万事休す”。出版のことは両家の話し合いで、自然に取り止めとなりました。
 ところが、秋になって、出版の話が再燃! 私と、栗田さんのお婿さん、山口富士雄氏(取締役社長)、そして太田秀一氏(栗田さんの親友、小山台高校同期、八高会の世話役)の三者の間のいつとは無しの話し合いで、”栗田さんの全快を祈って、冊子風のものにしてでも、やはり出そう。みんなが楽しみにしているのだから!”ということになり、再び出版へスタートしたのです。
 この稿を書く日、原稿は2/3。どうやら年内に書き終えそうです。来春4月、桜の咲く頃には本になりそう?です。楽しみです。それまでには、栗田さんも元気になっておられるでしょう。この本、そうした思いを籠めたものです。幸あれ!と祈ります。  終わりに一言。この本、栗田さんと私との心の友だけに贈らせて戴きます。従って、少ししか、刷りません。本の内容、体裁など、まるで大学ノートのようで、粗野です。でも、この文をお読み戴ければ、事情お察し戴けますね。それに、”飾らない”のが私の好みなのです。要するに、2人の病いを越えての力作なのです。敢えて、”心の本”と言わせて戴きます。
 93! 少し疲れました。ペンを置きます。


一,心引かれる詩

 過ぎにし青春 -杜甫と業平-

 詩は唐といわれる。その唐詩のなかでも、私は晩唐の詩が好きである。あの盛運を極めた唐王朝も、この頃になると斜陽となり、四は滅びの調べをたたえ、かげりのある美しさがただよう。なぜか、私はそのかげりに心ひかれる。

 晩唐の詩人、杜牧の「宣州開元寺」という七絶がある。


 私の大好きな詩の一つ。先人の注によれば、「この詩、すなわち雪後、月霽れ、楼に登りて独り賞す。昔日の観遊を思ひ、今夕の侶無きを歎く。首句のいわゆる”鶴と同じく棲む”とは恐らくは夫人と同宿せしならん。名を鶴に託するのみ。唐人多くかくのごとし」とある。
 杜牧ーーー彼を伝える伝に、「牧、容姿美にして、歌舞を好み、風情すこぶる張り、みずからとどまること能はず。時に淮南、繁盛、京花に滅ぜず(都に劣らない)と称す。かつ名姫絶色多し。牧、心をほしいままにして賞す」と。淮南とは、かの美女で名高い揚州の地である。杜牧といえば、風流詩人、ロマンの詩人として名高い。
 この詩、彼が若き日のロマン回想の詩である。詩意はおのずから明らかであるが、「三体詩」の先人の解を引いてみよう。
 「松寺と云ふについて、一鶴と伝ふたぞ(縁語の意味である)。この詩に遊んだ時は、夜ふけて見れば、台殿が高ければ、月も高く、台殿が低ければ、月も低く見え、意に叶ひて面白かりつると、今思ひ出したぞ(今も昔のままである意)。さて、今夜は、何人が我とともに、柱によらんやと思ふに、千山の雪が漲って、さびしきまでとぞ。全篇賦ぞ(賦とはありのままを述べる詩の体をいう)」
若かりしとき美しい妓を伴って一夜をすごした古寺に遊ぶ。松も昔のまま、月も昔のまま、ただ昔に異なるのは彼女の在らざること・・・と解してきて、ふと私の脳裡に浮かんだのは、あの伊勢物語にある在原業平の作と伝えられる
  月やあらぬ、春や昔の春ならぬ、わが身ひとつはもとのみにして
 という詩である。業平が、のちの二条の后といわれた美貌の藤原高子とのロマンの歌と伝えられている。男と女と逢う瀬を楽しむ。伊勢物語の詞書には次のようにある。
 またの年の正月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひて行きて、立ちて見、居て見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月の傾くまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。
 月も去年のままの月、春も去年のままの春、われも去年と同じくここに在る。されど、恋しい彼女の姿はなし。
 唐の詩、平安の歌、奇しくもよく似ているではないか。恋心は、時と処とを越えて同じである。
 古今集の仮名の序で、紀貫之は業平の和歌を評して、この歌を引き、「心あまりてことば足らず」と言っている。杜牧もロマンの詩人、彼もまた心あまりてことば足らず。私もしばし、詩の言外の意を味わってみよう。
 月は古い寺の甍にかかる月であるとともに女を意味する。「夜ふけて台殿月高低」には、杜牧が、古寺の内に妓の幻影を求めている意も掛けているのではなかろうか。女を月にたとえることは、かの、李白の詩の「峨眉山月の歌」の、「君を思へども見えず渝州に下る」で明らかである。君は月をさし、暗に女をさす。漢詩にも縁語もあり、掛け言葉もあり、隠喩もある。
 もう一つ、結句の雪解けの流れの音は、賦であれば、杜牧はまことにこの雪解けの流れの音を聞いたのであろう。が、その流れの音に、杜牧は女のむせび泣きの声を幻に聞いたのではなかろうか。ここで、私の拙い訳を書かせていただく。
 「ふと耳をそばだてると、遥かな山々の雪解けの水の流れの音が聞こえてくる。杜牧はその流れの音にじっと聞き入る。むせび泣きに似た水の音、在りし日のかの女のすすり泣きか」
 この解、いささかロマンに過ぎるであろうか。


 杜甫は憂愁詩人といわれます。一生、悲憤慷慨の思いを歌った詩人です。世を捨てたような李白とは対照的に世を憂え、人々のために涙を流しました。後の世、永く詩聖と仰がれます。
 その一生は憂いに満ち、涙多きものでした。「江頭に悲しむ」と言う詩では「人生情けあり 涙臆を沾す」と歌い、さすらいの「登高」の詩では「万里悲愁 常に客と作り 百年の多病独り台に登る」とも歌っています。憂愁の詩人ということばは、まさに彼にピッタリです。
 杜甫の詩でどうしてもその一首をというなら、私は晩年究極の作、「江南にて李亀年に逢う」を挙げます。寂しいけれど、ロマンに満ちた美しい詩です。
 江南は長江の南部一帯をさします。岐王は玄宗の弟、文芸を好みました。崔九は崔家の九番目の人という意味。九は排行といい、一族の中の順位を示します。我が国の一郎、二郎、九郎の呼び名はこの風習から始まったといわれます。この詩は大暦5年(770)杜甫の没した年、南方長沙での作。このとき詩に登場する李亀年もこの地にさすらっていたのです。
 李亀年は玄宗に仕えた名歌手。玄宗にこよなく寵愛されましたが、安祿山の乱後退けられてさすらいの旅の後、江南に流れ着いたといわれます。杜甫とは旧知の間柄、さぞ感慨深い対面であったでしょうね。「まあ、貴方は李亀年さんじゃないですか。こんなところで貴方にお逢いしようとは!
 あのころ、玄宗皇帝様の弟さんの岐王様の立派なお屋敷では、よく貴方にお目にかかっていましたよ。貴方は華やかでしたよ。そうそう、玄宗皇帝様の側近の崔九様のお屋敷のお庭でも、よく貴方の歌を聞かせていただきました。あのころの貴方は、タレントで華やかでしたね。
 私もあのころは詩人として少しは認められて、華やかな場所に出ることが出来ました。お互いに過ぎし日のこと、懐かしいですね。
 だのに、その貴方に、こんなに都を遠く離れた所でお逢いしようとは! しかも、私たち二人とも寂しい落ちぶれた境遇で・・・。今は落花の好季節。人々は花見に浮かれています。このとき、こんなところで、貴方にお逢いしようとは・・・」
 花がまたひとしきり散って二人の肩にかかります。昔のことが忘れられないのでしょうね。二人とも涙しているようです。
 七言絶句。見(けん)聞(ぶん)君(くん)と沈痛なリズムが流れます。これはやはり詩ですね。
 この年の冬、杜甫は漂泊の旅の船中で59歳の一生を終えました。その一生は、漂泊の旅であったとも言えましょう。それにしても、最後に彼は何を感じつつ逝ったのでしょう。
 私は今、老いた杜甫の晩年を劇化して書いているような気がしてきました。
 杜甫という老詩人の晩年を描いた芝居の舞台では、きらびやかな緞帳が今静かに下り始めようとしています。時は春、舞台一面に咲いている桃の花びらが風に吹かれて、吹雪のように散っています。その落花を浴びて二人の老人が静かに何やら語り合っています。一人は詩人の杜甫です。もう一人は何やら楽器を片手にしています。彼は李亀年という楽師、かつて玄宗皇帝にこよなく寵愛されたタレントです。でも、安祿山の乱後、彼は追放されて南方に流離の旅を続け、ここまで落ちて来ていたのです。昔のことが忘れられないと見えて、今も楽器を手にしています。哀れですね。杜甫もなにやら詩を口ずさんでいるようです。
 私は戯れに「人生は幻花に似たり」と題してみました。いかがでしょうか。


 詩の大詩人といえば、なんといっても李白、杜甫でしょう。よく、「李・杜の詩でいちばん好きな詩は?」と聞かれますが、これは極めて難しい問いです。二人の詩は、どれもえりすぐった珠玉のようなものですから---。
 李白は701年~762年。杜甫は712年~770年。李白のほうが先輩です。李白は詩仙といわれ、杜甫は詩聖といわれ、二人には人間的に、生き方、詩風など、いずれの面でも大きなちがいがあります。
 李白は天衣無縫な詩人といわれています。天馬空を征くがごとき詩人とも言われます。なにものにもとらわれないスケールの大きな、そして明るい、それでいて淡いロマンもただよいます。詩仙といわれます。
 どうしてもその一首をというなら、私は若き日故郷での恋の思い出を歌った、『宣城杜鵑花を見る』という詩を挙げます。
 杜鵑花とはツツジのことです。杜鵑・子規・不如帰とも書きます。蜀の王の杜宇が敵国に捕らえられ、故国に残した美しい妃を偲びながら、ついに血を吐いて死んだ、その真っ赤な血の中から一羽の鳥が飛び立って「不レ如レ帰(帰るにしかず=なにがなんでも帰りたい)と鳴いて去ったといいます。この鳥がホトトギスです。ホトトギスは悲しい恋の鳥なのです。
 この詩、異郷で燃えるツツジの花を見て、故郷の蜀では今、ホトトギスがしきりに鳴いているころであろうと思いながら、若き日の故郷でのことをなつかしく思っての作です。
 「故郷の蜀にいたときは、今ごろホトトギスがよく鳴いてたっけ。あの、悲しい恋の物語を秘めた。胸をかきむしり、絹を裂くようなホトトギスの声が・・・。今、年を経てこの異郷の宣城にさすらえば、そのホトトギスが鳴きながら飛んでいく。しみじみと故郷の春を思い出すことよ」という意でしょう。

 李白は、故郷での青春の悲恋を思い出しているのではないでしょうか。任侠の世界にも遊んだ李白に、そうした若き日の思い出が無いはずはありません。私には、この詩に甘い思い出、やるせない歎きのメロディーを聞く思いがします。「一叫 一廻 腸一断 三春 三月 三巴を憶う」ーーー 一、一、一、三、三、三 ーーーこの詩は七絶とはいえ、すぐに定型の域を脱して天衣無縫の李白の声を聞く思いがします。
 七言絶句、花、巴と韻をふんでいますが、起句は韻をふんでいません。むしろ自由詩(詞)に近いでしょうね。
 詩の約束ごととして、絶句では、一つの詩に同じ字を二度以上使わないという厳しいしきたりがあります。この詩はそれを全く無視しています。一つ句に「一、一、一、三、三、三」と自由な歌い方をしています。中国音で歌っても「イ、イ、イ、サン、サン、サン」と、軽い明るいメロディーが流れています。詩ではなく、詞です。
 青春のころの故郷での恋、恐らく初恋でしょう。性来自由奔放な彼のことですから、甘美な初恋だったのでしょう。そのときのことを回想しての歌でしょうね。
 鳴いて血を吐くホトトギス、燃えるような真っ赤なツツジ、若き日に燃えた思い出・・・。リズムも色もすばらしいじゃないですか。
 皆様もそうした思い出をお持ちでしょう。自由闊達な李白の詩です。思うがままに彼の詩の世界に遊びましょう。
 李白の一生にはさまざまな話が伝えられています。まず、誕生については、母が身ごもったとき、宵の明星がふところに入った夢を見たので、太白という字がついたと伝えられています。その死についても、月明の夜、揚子江上に船を浮かべて遊び、酔って水にうつる月影をとらえようとして姿を消したともいわれています。ロマンに満ちた一生ですね。
 李白の詩は、私たちを美しい夢の世界に遊ばせてくれます。


二、心に残る詩
 豪放磊落な詩人杜牧にも次の悲しい歌がある


 江湖とは三江五湖といい、辺鄙な地をいう。
 落魄は落ちぶれること。楚腰とは楚の国王がやせ形女性を好んだことから美人の意、「楚王細腰を好み、餓死多し」とあり、「楚楚とした姿」などと使う。
 起承句は「落ちぶれた身を酒に酔いしれてさすらう。夜ごといだくは美女の腰」とでも訳そうか。
 転句の揚州は蘇州と並ぶ名勝の地。古来、揚州美人といわれて、花柳の巷で有名である。
 青楼は妓楼、三と一はことばの遊び。長い遊び。長い遊びの夢覚めてみれば、ただ残るは汚名のみ。


 秦淮 地名、商女 酒席に侍る女、後庭花 六朝最後の天子、陳後主が作ったと伝えられる歌。その歌は哀切をきわめ、滅亡を暗示するといわれた。
 この杜牧の歌は、後の世永く、秦淮河を後庭花と結んで、南京を歌う歌曲として伝わったと言う。

 夜のもやは冷ややかな河の水を掩い、おぼろ月夜の光は水辺の砂を包みこんでいる。こうした夜、私は秦淮に船泊まりしているが、近くの酒を飲ませる店から、宴席に侍る妓女たちは、亡びし国の怨念をこめている歌とは知らずに、後庭歌を歌い続けることよ。哀れさに涙を禁じ得ない。
 七言絶句。韻字は、沙・家・花。

 亡国の哀歌であるが、この頃、私は時々口ずさむ。なぜだろうか?


 「三体詩」にある詩。曲江院とは曲江にある寺、慈恩寺のこと。唐の偉趙超が役人の試験に及第して慈恩寺の雁塔に名を記してから、及第した者はみなこの塔に名を記すことがならわしとなった。慈恩寺は古都長安曲江のほとりに唐の高宗のとき建立されたもの。曲江といえば、杜甫が安禄山の乱のとき、荒涼たる都をさまよって歌った古詩「哀江頭」の冒頭に、


と歌った。その曲江は楊貴妃の死を悲しんだゆかりの地である。
 孟寂が及第して慈恩寺の雁塔に名を刻んだ跡を見ると、その年の合格者が19人、その中で孟寂が最少年、いわゆる探花郎であった。探花郎とは合格者中の最少年の秀才をさしていった。もと、花をたずねる男の意。なんという雅びなことばだろう。今日ここに訪ねてくると、寺門の杏の花も、春の終わりのことなので、すでに散っている。探花郎とて世にもてはやされた君の姿も今は亡し。空しく春泥にまみれている杏の花を手にして孟寂の在りし日を偲ぶばかりである、といった意味であろうか。

 私は長年教育にたずさわり、たくさんの教え子を持つ。その人たちの中にもこの頃、消えて逝く人がいる。その悲しいしらせに接する時に、ふとこの詩を口ずさむ。寂しい詩である。


 閨情 ねやの思い。女が男を思う心情。女性の愛する人への思い。山上に山有り 出の謎字。山の上に山を書くと何の字?という謎である。湘江 洞庭湖に注ぐ揚子江の支流。鷓鴣 旅愁をつのらせる鳥として、詩文に登場する。その鳴き方には、古来、「行不得也可可」(行っちゃ、いや!)と鳴くと言われる。王孫草 春の草。王孫の故事から、”春になっても帰らぬ”�という故事をふくむ。蘼蕪はわが国ではオンナカズラ。芹と同じ。香草。秋、白い可憐な花を咲かせる。古来、可憐な花としてロマンに歌われる。
 古来、離縁された女が、この草を取り、山を下りたところ、前の夫と逢い、いろいろ昔をなつかしむロマンの物思いをしてという一節がある。それをふくんでの詩。遊び野郎(男)といった意味。
 旅に出て行って、帰って来ないあの人よ! 湘江に降る夕方の雨! 鷓鴣が鳴きながら飛んでいる。その鳴き声は、”行かないで!行かないで!”と聞こえる。淋しいことよ! 川べりの蘼蕪もやっぱり遊び男にゆかりのある、艶っぽい草、どうかあの人の旅衣に、春の香りを送りこまないでね、と言った意味。
 技巧のこんだ艶詩である。意味だけでなく、音も艶っぽい。現代のわが国の演歌と同じ。

 自分はこの詩を中国音で聞いたことがある。それ以来、好きになった。赤提灯から聞こえて来るような歌である。なぜか、私はこうした歌が好き! 困った教育者である。

 同じ「三体詩」の中の唐の朱褒の亡き妓を悼む詩も悲しい。


 この詩、15歳の妓の死を悲しんだもの。当時、初七日には死者の衣や遺品の品を僧に施したという。人は死ぬと、魂は天に、魄は地に帰るとか。彼女はもはやこの世にあらず、年はわずか15歳、佳人薄命とは彼女のこと。昨日は初七日の供養、世俗のならわしによって、彼女の帯と着物一そろいを僧に施そうとして裙帯を取り出してみた。裙帯とは婦人のもすそと帯。上に琵琶の絃が結びかけてある。それぞれに数々の思い出があり、魂も消えるばかりよ、の意味であろう。
 この「僧に施す裙帯の上」には古来別な解釈もある。裙帯の上に思い出の琵琶の絃も結びかけて僧に与えたともとる。悲しい思い出をふり切るべく弦もいっしょに施してしまったが、あとになって思えば、やっぱり残しておけばよかった、の意ともなる。また、裙帯の上に琵琶の絃がかけてある。宴の席で琵琶の絃が切れることを案じて、かけがえの琵琶の絃を裙帯にしのばせてあったのを見つけた。わが玉の緒(命)がかくも早く絶えるのも知らずに、あわれなることよ、の意ともとる。この三つの説、いずれがもっとも悲しいのであろうか。
 亡き人を懐う心は、時を距て国を異にしても、懐いは同じである。

 なぜか、この詩、私の心を打つ。


三、李白・杜甫の友情


 この詩、杜甫は成都に在り、李白と別れて既に6年の歳月が流れていました。李白というと、安禄山討伐の軍に加わりながら、誤って叛乱の軍に加わった形となり、捕らわれて獄につながれ、更に遠くに流され、長江中流の宣城に居た、その頃のことです。
 宣城というと、李白は配所に在って、頻りに青春時代を懐っていた時です。あの、”一叫一廻 腸一断、三春 三月 三巴を憶う”という巴調(艶歌調)の詩を作って、若き日の恋を回想していたときです。
 李白はここで幸にして恩赦に逢い、自由なみとなりました。杜甫はこの詩で、”帰り来たれ”と歌っていますから、彼は友の恩赦のしらせを聞き、その喜びの思いを歌ったのでしょう。二人は心の友だったのです。

 さて、佯狂は狂人の真似、瓢零は木の葉がひらひらと飛び散ること。匡山は李白の郷里、四川省。青年時代、彼はこの地で読書に耽ったといいます。

 さて、詩意は、久しく李白に逢わぬが、気狂いの真似をしているとか、哀れなことよ。世間の人は、なぜか、彼を憎んで、「殺してしまおう」と言っているというが、自分だけは、彼の詩才を愛する。<杜甫は、「飲中八仙歌」という詩で、「李白は一斗にして、詩百篇」とたたえています。>李白はすばやくて、忽ち一千首の詩を作る程の天才」なのに、今、聞けば、彼は落ちぶれて、さまよい歩き、一杯の酒に愁いをはらしているとか、哀れなことよ。
 匡山は昔、彼が書物を読んだところだ。人生に破れて、髪の毛が白くなってしまったろう。李白よ! 君が青春時代を過ごした匡山に帰って来るが良い。 早く帰って来いよ! と言った意味でしょう。
 杜甫からすると、李白は11才も年上で、しかも、相当な官職にもついていた大先輩です。ただそれだけでなく、人間として良い先輩であり、自らはと言うと、一向に芽の出ぬ、憐れむべき後輩であったのです。李白は、このうだつのあがらぬ真面目青年の自分を愛し、共に酒を飲んで慰めあったといわれます。人生のことは、判らぬもの! 今は、その杜甫が、その李白を憐れんでいるのです。
 ”帰って来いよ!”---なんだか、演歌調ですね。謹厳な杜甫にしてこうした詩! 唐の詩は、杜甫にしても、李白にしても、赤裸々な人間の叫びではないでしょうか。だから、僕、大好き!
 詩形は、五言の律詩。 韻字は、哀、才、杯、来。強い語調です。

 杜甫には、まだ、次のような詩もあります。


 瓢然はすらすらとの意。廋・鮑の二人は昔の大詩人。渭北は渭水の来た、江東は長江の東。
 李白よ、貴方は詩にかけては天下一。詩想は抜群。フレッシュな表現は、昔の廋詩人のよう。すぐれているところは、昔の鮑照のよう。私はここ渭水の北で、春の草木を眺めながら貴方のことを思い、貴方は江東で日暮れの雲を眺めながら、都に居る私のことに想いを馳せている。いつの時か、共に酒を汲んで共に詩を論じることが出来よう。ああ懐かしいことよ、といった意味であろうか。
 杜甫・李白、二人の大詩人の友情に、何か胸迫るものがあるではないか。

 李白にも、杜甫に寄せた詩があります。


 沙邸城 山東省の西橋に在ったという。杜甫、李白より11才年少。杜甫は真面目人間なので、李白に対し、先輩として心から尊敬していた。仲の良い間柄でもあったと言う。
 高臥 世俗を超脱して隠居する。魯酒 薄い酒。「荘子」に、「魯酒薄くして」とあるに基づく。魯は地名。 斉歌 斉の国の歌。寂しい歌だったのでしょう。汶水 川の名。 浩蕩水が広々としたさま。 南征 遠く南の方に行く。

 私はこの地に来たが、結局、何しに来たのであろう。沙邸の町で毎日呑気に寝てばかりいる。町はずれには、古びた木がたくさんあって、昼も夜も、秋のおとづれを聞く、寂しいことだ。
 ここでは、酒も薄くて酔えないし、斉の国の歌は、寂しくて、貴方を思う情をかきたてられてしまう。寂しいことよ。杜甫よ、貴方のことを思うと、汶水の流れのように、とりとめもなく寂しくなって、思わず筆を走らせて、貴方の居る南に向かって、川の流れに託してこの手紙を届けてもらおうと思う。切無いことよ! といった意味。
 この詩には、李白らしい豪放磊落な、スケールの大きさはありません。むしろ、後輩杜甫を思う面、切々たる思いがこめられています。つまり、杜甫に対するしみじみとした思いやりがこめられているのです。李白の人柄の一面を見ることが出来ます。豪放磊落、天馬空を行く李白にして、この友情、却って、彼の人柄を知ることが出来ます。まさに、!”文は人なり”です。
 では、李白は、なぜ、酒に酔い、世を捨て、超脱して生きたのでしょうか? 他の詩を通して、考えてみたいですね。


四、青春詩話   *この文は、同人誌「落葉松(からまつ)」に寄せたもの。なぜか多くの人が読んで下さった。それをさらに推敲したのです。栗田さんはお住居も砧に近く、謡曲、舞いともゆかりがありますものね。そうしたこともあって、これを載せました。

 「砧」

 夜長の秋です。
 私のような旧い人間には、秋の夜といえば、すぐ砧を連想します。
 この大宮に移ってくる前には、私は東京の世田谷、多摩川の近くに住んでいました。近所に砧撮影所と呼ばれていた建物もあったよで、昔、その辺りは韓国の人が多く住んでいて、砧を打つ慣わしがあったので、そういう地名がついたとか、名前だけでも風流でいいですね。
 学生時代、今から60年以上も前のことです。
 詩人肌の親しい友とその妹と私の3人で、秋の月明かりの夜多摩川辺りを歌って歩いていたことがありました。もちろん酔ってのことです。私は歌が下手なので、彼の妹が一緒に歌ってくれました。綺麗な人でした。
 ちょっとした出来事ですが、忘れられない青春の思い出です。この友は熊本の画津湖の畔りの人で、私にとっては、私の人生を大きく変えた人なので忘れられません。この兄と妹、若くして満州の野の露と消えました。
 その夜、唄った歌に、白楽天の「夜の砧を聞く」というのがあります。いわゆる固い漢詩ではなく、現代の歌謡のようなものです。これを読んでみましょう。


 先ず読んでみましょう
 やさしいでしょう。字引きに頼らねばならないのは、砧杵だけでしょう。杵はきね。きぬたを打つ棒のようなもの。木篇の字ですから、凡そは想像がつくでしょう。思婦は物思う婦人。何を思うのか、わかりますよね。天明は天が明けるのですから、暁です。こんな言葉、一々字引きの必要はありませんねん。古いものというと、すぐ字引き、と考えるのは、どうかと思います。頭の体操を勧めます。やさしいものばかり読んでいると、早く呆けるそうですよ。
 さて、次の意味を考えましょう。
 砧---若い人はご存知ないかも。昔、麻・楮・葛などで織った布を槌で打って柔らかくし、艶を出すのに用いた木、または石の台です。絹板(きぬいた)の転。また、それを打つことや打つ音をいいます。
 能に「砧」があります。世阿弥の作です。長年帰ってこない夫の無情を恨んで死んだ妻が、やがて帰って来た夫の前に亡霊となって現れるという語りで、凄寂な趣を感じます。
 私は若いころ、現在の北朝鮮を独り旅していて、大きな川ー大同江なか-の畔りで、夜更けて秋風に吹かれて流れてくる砧の音に眠れず、遥か東京の灯りを想ったことがありました。砧を打つ音は、とても寂しいものです。
 中国の詩では、女が遠く戦場にいる夫や、息子や、恋人の許に送る征衣を打つ音の寂しさを詠っています。
 前置きが長くなりました。詩を訳してみましょう。
 どこの家の物思う女でしょう、この夜更け、衣を打っているのは? 今宵は月が冴え、風がすさまじく吹いているので、それだけに、いつもより砧の音が悲しく聞こえます。なんと寂しい音色でしょう。
 この秋、8月、9月はほんとうに夜が長くて、それ故、千の声、万の声、たくさんの砧の音がいつまでも止む時が無く、数えきれません。
 このまま、夜明けまでずうっと聞いていたら、私の頭は真っ白になってしまうでしょう。1回砧の音が聞こえるたびごとに、私の髪の毛は1本づつ白くなっていき、やがて真っ白になることでしょう。悲しいことです。どうしましょう。といった意味でしょうか。
 秋の夜の冴えた月、冷たい風、それに寂しい砧の音、すべて悲しい趣ですね。この女の思う人は、戦場にいる明日知れぬ身の夫か、それとも旅ゆく恋人か、遠く離れている息子か、涙なしにはいられませんね。
 数字を上手に使いこなしています。中国音で読むと、8(pa)・9(chiu)・1000(chien)・・・そして終わりで1(i)・1(i)とたたみかけています。訓読みで読んでも、あらましのリズムはわかります。音訓両面から味わっていきましょう。七言古詩。韻字は悲(pei)・時(shin)・糸(ssii)と悲しいリズムが流れています。
 白詩、白楽天の詩はやさしくて、わかりやすくていいですね。彼の詩風は白俗といわれて、あまりやさし過ぎて俗っぽいとけなされました。プロの仲間からは悪くもいわれましたが、一般の人、特に情勢からは歓迎されました。
 我が国の昔の女性は、漢文は学びませんでしたが、白詩だけは喜んで読んだようです。もちろん男性にも愛されました。徒然草13段にも
 「ひとり灯りのもとに文をひろげて見ぬ世の人を友とするぞこよなう慰むるわざなる。文は文選のあわれなる巻々、白氏の文集・・・」
とあります。白詩は男女の別を越えて広く人々に愛読されたのです。
 さあ、繰り返して声を出して読んでみましょう。読みなれたら、自己流でいいですから、節をつけて小声で唄ってみましょう。詩は唄うものです。繰り返し唄っているうちに、おのずから詩の趣がわかってきます。試してごらんなさい。
 さて、砧を打つことを擣衣(とうい)とも言います。衣を擣(う)つの意味です。国文学でも砧は多く歌われています。百人一首に、藤原雅経の

  み吉野の山の秋風さよふけてふるさと寒く衣うつなり

 とあります。この歌、新古今和歌集に「擣衣の心を」と詞書があります。詞書とは前書きの意味です。歌意は平易でわかりますね。
 俳句の方では、芭蕉に

  きぬたうち我にきかせよ坊がつま

の句があります。
 この句には、「よしのの奥に一夜明かして」という前書きがあります。坊は宿坊。芳野には妻帯坊が多かったようで、芭蕉は古き都、芳野に旅して宿坊に泊まって、前出の藤原雅経の歌の「ふるさと寒く衣うつなり」の古歌を想い起こしていたのでしょうね。古語の「ふるさと」は「古き都」の意味です。とすると、ご年配の方は、「歌書よりも軍書に悲し芳野山」の句を思い出されるでしょう。
 ここまで思いつくと、さすが芭蕉の句、趣が深いですね。この暁、老生眠れぬままに「坊がつま」の意味を考え、書棚から芭蕉句集など2,3冊取り出し、あれこれ考えているうちに、また眠ってしまいました。心地よい眠りでした。曽て遊んだ吉野山の風景も思い出されて、懐かしいことでした。それにしても、「坊がつま」には千金の趣があります。歴史懐古、滅びしものの哀れさ、そして、ほのかな艶っぽさ--。すばらしいと思ったことでした。これも「落葉松俳壇」の御指導のお陰です。
 さて、話は戻りますが、虚子に「星堕つる多摩の里人砧打つ」という句があります。虚子さんも多摩川の畔をさまよったのでしょうか。そして、この私も--。なんだか嬉しくなりました。

 砧を歌ったもの。李白の凄さもロマンティックです。

  子夜呉歌

 もっとも有名なのは、唐の李白の詩です。


 呉は国の名、子夜は哀れな身の上の女性の名。長安は唐の都、玉関は西域への境界。胡虜は異域の民。それぞれ哀れさを伴う語句ですね。
 詩の内容は、都である長安の夜空には、片割れ月が冴えています。折柄、秋風が絶えず吹いてきます。月・砧・秋風、それらはすべて遠い遠い辺境の、玉門関で戦っているわが夫を偲ばせずにはおきません。ああ、つらいことよ!さびしいことよ!わが夫は、戦い終わって、私たちのところに無事帰ってきてくれるかしら? といったところでしょうか。
 子夜は、悲しい物語の中の女性。彼女を題材とした悲しい歌が多いのです。李白は、それを都の歌としたのです。
 とすると、現代のわが国での歌謡でも、寂しい辺境の物語の中の人名とか地名を歌いこんで、悲しく、ロマンに歌っている手法がたくさんありますね。李白のは、まさにそれなのです。漢詩だからなどと固く考えず、現代の歌謡曲だと思って、自分なりのロマンティックな節をつけて歌ってみてください。
 なお、詩ですから、もちろん韻をふんでいます。声・情・征、寂しいリズム。国語流に読むと、わかりませんけど・・・


五、詞(歌)に遊ぶ
  淘々沙(とうとうしゃ)令  李煜(りいく)

 啄木は漢文の勉強はしたかしら?
 国文学は、私は外野ですから、気ままなことを書かせてください。いつも思うのですが、啄木が生きていたのは、明治19年(1886)~45年(1912)です。当時は中学校では漢文教育全盛時代です。いうまでも無く啄木のことですから、論語とか孟子とかいった堅いものは嫌いだったでしょうね。
 でも、ロマンの漂う漢詩などは好きだったのでは?とすれば、彼の歌にそうした漢詩の句ぐらい使われているんじゃないか?漢詩の影響を受けている歌もあるのでは?と思って、何度か歌集をひもといてみたのです。ところが全然見当たらなかったのです。
 ところが、そう思って何度も読み返しているうちに、ありました、ありました。それも、一般にはあまり知られていない、しまも本格的なものがーーー。さすが、啄木はたいしたものです。
 それは次の歌です。

  浪淘沙(ろうとうしゃ)
  ながくも声をふるはせて
  うたふがごとき旅なりしかな

 浪淘---中国、五代の南唐の詩人・李煜の詞の題名なのです。五代とは、あの華やかだった唐の滅亡から宋王朝統一までの分裂時代に中原に興った五つの王朝をいうのです。その一つに南唐というのがあります。李煜は中国文学では有名な詩人です。
 李煜ーーー937年~978年。中国、五代の南唐の最後の王。在位15年。宋に敗れ、幽閉のうちに毒殺されました。詞に長じ、初め艶な宮廷生活を、後に亡国の悲しみを歌って、その作品は古今独歩といわれます。

  詞
 詞とは中国の韻文の一体で、正しくは「顛詞(てんし)」といいます。顛とは埋める意味で、空欄に書き入れて空白を無くすということです。つまり一定の譜面にあわせて文字を埋めて作っていくことから、こういう名称が出来ました、メロディーに合わせて長短の句を交えた詩形で、俗語を多用しています。作曲が先に出来ていて、それに合わせて詞を作っていくのです。
 というわけで、いわゆる漢詩とは違うのです。わかりやすくいうと、漢詩はお行儀の良い優等生。詞のほうは少し形の崩れた、でも、なんとなく魅力のある若人といったところでしょうね。
 詞は早い話、我が国の現代の演歌・歌謡曲のようなものです。まじめな詩人が余技として歌ったりしたので「詩余」ともいいます。まあ、酒場から酒場をギターを弾きながら気ままに歌って歩く、あの”流し”の歌のようなものです。必ずしもきちんときまった詩ではなく、その時々で思いのまま自由に歌うのです。私は大好き!
 詞の説明が長くなりましたが、啄木は、どうやら普通の型にはまった漢詩より、自由な形の詞のほうが好きだったらしいですね。

 さあ、浪淘沙の歌にいきましょう。
 浪淘沙という詞題の意味は、淘は流れる、沙はみぎわ。つまり川べりに立って、流れゆく水のような、自分のはかない運命を歎くといった意味の曲名なのです。正しくは「浪淘沙令」とあります。
さて、どんな詞か、読んでみましょう。


 いい詩でしょう。そこはかとなく悲しいムードがただよっていますね。彼が亡国の君主としての宋の忭京(べんけい)(今の河南省開封。北宋の都)で囚われの身となって、明日の命も知れぬ幽囚生活を送っていたときの作です。
 潺(せん)、珊(さん)、寒(かん)、一行おいて歓(かん)と、後に寂しく響く韻をふんであります。悲しいリズムです。
 少しむずかしいことばがあります。潺々は擬声語で、しとしとという意味。蘭珊は盛りを過ぎて衰えていくさま。やはり音から寂しさを表す語です。羅衾は薄絹の夜具で掛け布団。五更け明け方。客は旅に在る身。餉は食事の時間。一餉で、食事する短い時間の意味です。
 すだれの外は、しとしとと雨が降りそそぐ。春の気配は、はや薄れていく。自分は囚われの身。せめて春の訪れを待っていたのに、その春も私を置いて去っていこうとしている。
 でも、このごろはまだ薄絹の掛け布団では明け方のうすら寒さに耐えられず、眠りも浅く、うとうとと夢を見がち。夢といえば、きまって寂しい夢・・・。ああ!
 今しがた見ていた夢の中で、自分は異郷に囚われの身であることも忘れて妻と語り合っていた。覚めてみれば、ほんの一ときの喜び。明日知れぬわが命・・・。ああ!
 こういった意味でしょうね。どうですか? この歌、しみじみと悲しい歌でしょう。このすぐ後、彼は毒殺されるのです。
 啄木はこういうのが好きだったのですね。
 もう一節。


 欄は手すり。憑るはよりかかる。
 夜が明けると、今日も私はまた手すりによって、遠いかなたの妻に想いを馳せるでしょう。でも今朝からはもう止めましょう。彼方を望んだところで、山や川が空しく果てしなく続いて自分を悲しませるだけですから。
 人生はなんと悲しいのでしょう。別れはしばしば訪れるが、再びめぐり逢うことはいともむずかしい。
 目の前を流れる川の水は空しく流れ去り、花は寂しく散っていく。ようやく訪れてきた春ももう逝ってしまった。(このとき、作者は引き離された妻に想いを馳せていたのでしょう)
 ああ! 高き天、遙けき地! 天と地が遠く距(へだた)るへだた)ように、私は、もうあの人とは逢えない!
 欄(らん)、山(さん)、難(なん)、そして一行おいて間(かん)と韻をふんで、寂しい響きを残しています。
 啄木は、この詩を長く声をふるわせて歌っているのです。

 今まで引いた浪淘沙の詞を読みながら、もう一度啄木の「一握の砂」の歌を読んでみてください。今までとは一味ちがった詩趣を感じるのではないでしょうか。

  さいはての駅に下り立ち
  雪あかり
  さびしき町にあゆみ入りにき

  石をもて追はるるごとく
  ふるさとを出でしかなしみ
  消ゆる時なし

 啄木の歌のなかには、中国の流離の詩の悲しい調べがひそかに流れていると思うのですがーーー。
 ここまで書いてきて、私はふろ啄木の「三行詩」ということに思いつきました。啄木独特の三行詩ですが、今までの短歌の型を破って三行に分けて歌を書いたのも、この詞の形からきたのではないでしょうか。彼の短歌が、いわゆる短歌ではなく、そこに人々を時代を超えて引き付ける何かがあるのでは?


 往事 過ぎ去った事。雕欄 美しくきざまれたらんかん、建物。玉砌 美しいきさはし。朱顔 美しい面、自分の若かりし頃の面、姿を言う

 春の美しい花、秋の清らかな月、四季の美しい眺めはいつの世にも繰り返される。自然は変らない。でも、人の世では、すべてのことがはかなく消え去って行く。この私が、さまざまな浮き沈みの中に生きて、うらぶれて住むこの高殿は、昨夜、また、春風が吹いて来た。私はふと別れて久しい故郷を思い出した。そして、美しい月明かりの中で、故郷の方を思い出した。そして、美しい月明かりの中で、故郷の方を思い眺めようとしたが、とても、懐かしさに堪えず、つい涙してしまった!
 思えば、彼女の居る、美しく彫刻してある高殿の欄干やきざはしよ! 故国の宮殿は今もなお以前のままであろう。そこにわが妻は居る。ああ、逢いたいものよ。でも、それも空しく、自分も悲しみのため、すっかりやつれ果ててしまった。ああ、私のこの悲しみ、どれ程深いか、判ってくれる人がいるかしら? 誰も、居ないであろう。その空しさは、ちょうど、春となっていっぱいに漲って流れる長江が、懐かしい東に向かって流れて行くように。自分の愁いは果てし無いもの! ああ、切無いことよ!

 この詩、李煜(りいく)の最後の作と伝えられる。この詩はこの後、毒杯に斃れ、悲しい一生を終わった最後の作と伝えられる。

 詞。韻字は、了、少、風、中、改、愁、流。題名の「虞美人」とは、中国古代の伝説、楚の項羽の虞姫(ぐき)。項王が垓下の城で囲まれた時、最後の宴で、「力 山を抜き、気は 世を蓋ふ、時利あらず。騅(すい)逝かず、虞や、虞や、汝を いかんせん」と嘆じつつ戦死したと伝えられる伝説的美女。古来、ロマンの美女として詩歌に登場する。ここでは、詞の題名として使われている。


 雲 髪の毛。玉 髪飾り。薄々 うっすらとしたさま。羅 薄い衣。顰 ひそめる。双黛螺 眉ずみのこと。窠 株。奈何 如何と同じ。

 ふさふさとした髪には美しいかんざし。消えそうに薄い上衣は、すきとおる程に薄い。かすかにひそめる眉墨の眉の美しさ。ああ、彼女は、今どうしているであろうか。
 寂しい秋風の音。寂しい秋雨の音。庭には、芭蕉が2,3株。その葉に注ぐ寂しい雨の音。この寂しい秋の夜を、彼女はどのようにして過ごしているであろうか?

 この詞、国は滅び、身は流されて敵地に捕われる身。明日知れぬ思い、切々として離れている妃を偲ぶ。折から、秋雨蕭々の夜、寂しい別離の思い、切々たる夜の寂しさが、滲み出ている。高雅寂寥の趣。

  更漏子(こうろうし)    唐 温庭筠

 女性を歌っては彼の右に出る者はいないといわれた唐の温庭筠(おんていいん)の”更漏子”とは水時計といった意味であろう。子は、小さい者への愛称である。


 玉鑪は美しい香炉。紅蝋は紅いろうそく。鬢は髪の毛。衾は布団。三更は夜更け。
 美しい香炉からは妙なる香のかおりがただよう。紅いろうそくはとけて、女の涙のように流れる。かすかな灯りは美しい部屋を照らす。そこには、美しい女がひとりもの思いにふけっている。
 女の美しい眉には悲しみが漂う。もの思いにふけって、安らかな眠りができぬであろう。髪の毛が乱れている。
  秋の夜は長い。独り寝の床は冷ややか--。
 とでも訳そうか。
 詩人は更に歌う。
 夜更けて、庭のあお桐の木に降りそそぐ雨の音・・・”寂しくてたまらないわ。貴方、帰ってきてくださらないの””もうどうでもいいわ”<「私、死んでしまうわ」と訳したら、ゆき過ぎであろうか>
 でも、彼女は耳をそばだてる。降る雨に、木の葉が散っていく。その微かな音が聞こえるよう。その度ごとに、まだ、未練にも、あの人の訪れてきた足音かと思う。
 とうとう明け方になってしまった。女は扉を開けて庭を眺めたのであろう。やはり、そこには誰もいなかった。
 冷めたい雨がしとしとときざはしをぬらしているのみ、といったほどの意であろうか。
 中国の詩であるから、涙・思、残・寒、樹・雨、苦、声、明と詩意にふさわしい韻(リズム)が流れている。”女の溜息”とでもいいたいひそかな美しいメロディーが流れているように思われる。

 この詞、わざと原形を省き、国文形式にしました。多くの方に親しみやすくしたのです。漢文形式は、とかく、難しいですから、国文形式で親しんでも良いのです。私の一つの工夫です。


六、青春と老残
 人間誰しも、若い時の喜びと老いの哀しみがあり、多くの詩人が、その喜びと哀しみとを歌っています。試みに白楽天について味読してみましょう。


 彼は若かりし頃、杭州や蘇州の地方長官(刺史)を歴任しました。その時の思い出を歌ったのです。春のすばらしさを歌ったのです。景色だけではありません。人、女、色町の艶ややかさ、そうした青春の思い出を歌ったのです。青春賛歌です。
 江南のすばらしさよ。あの風景はいつまでも忘れられない。日が昇ると、河辺の花はすべて火よりも紅く燃えていた。江の水は藍よりも青く澄みわたる。と言った意味でしょうね。
 彼の心は若き日の思い出に燃えているのです。ゆれているのです。されば、詩もゆれています。三・五・七・七、そして、五ー。歌ってみて下さい。わが国の歌謡、そのものです。
 そして、「紅きこと火に勝る」と歌った江花は、なんだと思います? 中国ですから、桃と思うかも? 違うんです。恋いの花、つつじ、杜鵑花(とけんか)なのです。”鳴いて血を吐く”と言うでしょう。愛する人を恋うて血を吐きながら鳴くという伝説があります。その不如帰です。真紅に燃えるつつじ、それは、中国では恋の花なのですよ。
 白楽天のいくつの時の作か、明らかではありませんが、この時、彼の思いは、青春に還っています。詩人とはそういうものなのです。
 韻字は、諳・藍・南。

 ところが、彼には次のような詩があります。晩年の詩です。


 自分は、いったいどんな心配事があって、寺門に入ることをためらうのかしら? 歩みを止めて、よく考えてみたら、あの李さんの家では、亡くなった人を送る家族の泣き声が聞こえてくるし、あの、元君の家には病気で寝ている人がいます。ああ、人生って寂しい、悲しいものよ! ああ、自分の人生も季節で言うならば、寂しい秋。柿の葉が真赤に色づくこの季節、私は、知らず知らずに、この慈恩寺に来てしまう。寂しいことよ!
 この詩、晩年の作であることは明らか。彼は若い頃から病弱であり、若くして白髪が多かったと伝えられます。名も、恵み深い寺。その寺の門に佇む白髪の老詩人の姿が目に浮かぶようですね。
 七言絶句ですが、韻字は廻、来。初句は韻をふんでいない。正確な意味では定型詩ではないようです。やはり、心が揺れていたのかも?

 最初に一言。彼には、「白俗」と言うニック・ネームがあります。この言葉は、一般には、”白楽天の詩は俗っぽい”という意味です。確かに、彼の詩はやさしいので、わが国でも、平安時代、漢文を学ばなかった女性も、彼の詩だけは学んで、学問、教養があると言われましたね。清少納言が、その代表です。
 でも、白俗の意味、本当は違うのでは?と私は思うのです。俗の意味は、”人間らしい”の意味ではないでしょうか。人々と共に喜び、共に悲しむ、それが、白俗の真の意義では?その意味で、白楽天はわが友です。


 尽日 一日中。惆悵 悲しむ。
 慈恩寺の春景色も、今日でお別れだ! 自分は一日中寺内をあちこちと歩き回って、今、寺の門にもたれて、別れを惜しんでいる。ああ、春は去り行く! 春を留めることは出来ない! 寂しいことよ! 紫色の藤の花の木の下が、だんだんにたそがれていく。春よ、さようなら! さようなら!

 寺門にもたれて、逝く春との別れを惜しんでいる白髪の老詩人は、何を思っているのでしょう? 自らの春との別れであるかも?(94の老いのわが思いも同じ!)
 後半の二句は、倭漢朗詠集、三月尽の部に引かれています。芭蕉の句に、「くたぶれて宿かる頃や藤の花」ともあります。日中古典のかかわりを味わってみましょう。


七、詩話

 人は、老いると、過ぎし日のことが、とても恋しくなるものなのでしょうね? この詩稿を綴っていると、私は慈師、土屋久泰(号、竹雨)先生のことが、いろいろ思い出されて来て、涙してしまうのでした。
 この冊子、「唐詩に遊ぶ」と題しましたが、考えてみると、みんな先生が私に講義してくださったものばかり。先生の講義のお声が聞こえてくるようです。みんな先生のお好きな詩ばかり。奥様も優しくしてくださった。講義が済むと、決まって酒宴でした。先生の静かな朗詠(いわゆる武張った詩吟ではありませんよ。あれは、僕も大嫌い。)奥様も小声で歌われていました。私たちも歌った! わが青春の日の楽しい思い出です。

 次に、先生が私に贈ってくださった先生自身の詩二首を採らせて戴きました。 (巻頭の揮毫参照)


 巴調とは艶っぽい詩という意味です。つまり、現代の演歌です。画梁はカラフルな部屋。花前は花の咲く部屋と言った意味でしょうね。一領は一枚。
 この詩、私が大東文化学院(現在の大東文化大学の創立の頃の名称。)を卒業して、教職に就き、改めて先生の書窓に挨拶に伺った時、お祝いに戴いたものです。その日のこと、良く覚えています。
 「舞田君よ! 君が教職者として生きるにせよ、詩の世界に生きるにせよ、人は、”やわらかさ、ゆとり、ロマン”というものが、大切だ。君は真面目過ぎるよ。もっと柔らかくなることだね。この詩、君の人生の門出に贈る。」と仰言いました。ありがたい教えでした。
 今、僕、良く、教え子の人々から、”先生の書くもの、案外ロマン!”と良く言われるのですが、先生のお陰でしょうね。ありがたいお教えでした。”案外”と言われるのは、仕方無いけど--
 今日はちょうど、彼岸の中日、この詩も戴いた日も、お彼岸で、晴れた日でした。ああ、懐かしい青春の思い出!


 この詩、僕の四十代半ば、小山台高校に勤めていた時です。その頃の教育と言うと、受験教育一辺倒。私は”教育者はどうあるべきか?”に苦悶していたのです。先生は、大東文化大学の学長として、やはり、大学の教育のことで悩んで居られたのです。
 ある日、突然、先生が小山台高校に見えました。私に、”大学に来て、自分をたすけろ!”と仰言るのでした。でも、先生の本心は、”私の教育上の悩みを救ってくださる”ことだったのでしょうね。先生は、二度も来られ、校長にも会って、「舞田君を譲ってくれ」といろいろ話されたらしいのでした。ありがたいことでした。
 でも、その話は、いろいろ事情があって、実現しませんでした。その折、先生の奥様が、わが家にお出でになったことがありました。その時、届けられたのが、この詩です。”舞田君よ、一度、わが家に来て、ゆっくり話しあおうよ!”というお気持ちだったのでしょうね。ありがたいことでした。でも、私が体調をそこなったりしていて、実現しませんでした。
 私が母校の大東文化大学の教壇に立って詩を講じるようになったのは、それからずうっとたって、先生が亡くなられた後でした。勿論、先生のご意志のお陰だったのでしょうね。私は、竹雨先生の御恩情を念いながら、教壇で詩をロマンに講じたことでした。師の恩情、忝いことです。でも、寂しかった!

 この稿の出版、せめてもの報思の思いです。
 先生御夫妻は故郷、鶴岡のお寺に眠っていらっしゃいます。
 先の『漢詩にロマンを求めて』と同じく、この冊子も墓前に手向けたいと思います。


  - 終わりに一言 -

 考えることあり。この事、すべて”わが道を行く”で通しました。煩わしいからです。老いの我尽! 従って、誤字、その他、いろいろあると思いますが、目をつむって下さい。多くは、病床で考えたものです。
 小生、94才、視力、癌などと戦っての作品。すべては、老いと人生の寂しさとを忘れるための執筆です。
 妻、君子と、私を取り巻く心温かき人々へのお礼の気持ちでもあります。そうした人々に贈ります。ありがとうございました。
 この稿を書く時、栗田さんが日々快方に向かわれていると言うしらせがあった。『良かった!更に頑張って!』とエールを送ったことです。

  2003.5.14 早朝5時 舞田正達


◆著者紹介◆     舞田正達(まいだ まさとお)
 1909年(明治42年)生。
 専攻 中国文学・国文学
 東京府立七中(現・都立隅田川高校)、府立八中(現・都立小山台高校)を経て、大東文化大学、国際商科大学(現東京国際大学)で教鞭を執る。後、栃木県大田原市野崎で幼稚園名誉園長として人間形成を目指した幼児教育を実践した。現在は同人誌「落葉松」、その他で執筆活動を楽しんでいる。

<著書>
 「高校生への便り-人間教育25年-」(愛育出版)、「身近にある中国の詩-日本の詩歌に寄せて-」(準教出版)、「教育のふるさと-人間教育五十年。流転の回想-」(信和印刷株式会社出版部)、「この児らと生きる-父母に送る園長の手紙-」(ぎょうせい)。「漢詩にロマンを求めて-銀鞍白馬少年の歌」(準教出版)、「いとまあらば」(落葉松)(妻君子と共著)その他、「舞田正達論説集」(国際商科大学)、「青年教師の頃の思い出」、「国文学、中国文学作品選(文学を通しての人間像の考察)」(興学社)。「福寿草に遠い思い出」「古典に現代の女性の影を」(落葉松)、その他

 小冊子ですが、専攻の著述としては最後かも? で、今までのもの書きの跡を振り返ってみました。我ながら良く書いたものです。これは、漢学者だった父の背中を視て覚えたのでしょうね。この2,3年のものは、老いの寂しさとの戦いの跡です。94才、老呆の慰みです。

 私は、中国文学の一学研にしか過ぎません。でも人並みに、自分でなくては書けない独自の著書を後に残そうと念じて来ました。しかし、近年、老呆、思うに委せず。でも、この程、やっと、それらしいものが出来ました。それが、これです。老い、かつ、病中の作です。いささか、疲れました。
 私は、現実的な人間でして、”人に読まれないものは書かない。書いても無駄!”と言うことを信念として居ります。この本は、人々から敬遠されがちな漢文学ですが、私の専門は、愛される中国の詩歌(古典)です。つまりー現代の歌謡、演歌のようなものです。胡弓の音に合わせて口ずさむ歌曲です。そうしたお気持ちで読んでみてください。
 私は、今、94歳! 老いを戦っています。長い学びの旅路を終えようとして、今、私の口ずさむものは、大好きな、石志井 寛さんの
 「花火師の花火に懸けし命かな」
と言う句です。
 NHKは、今、朝のドラマで、花火師の世界を演じています。私たち二人。毎朝楽しみにして観て居ります。
 万悪地に満つる今の世、”こころ”の花火を!と念じつつ、ペンを置きます。
                    2003.8.1



関連事項

↑ページトップへ   ↑「恩師の思い出」のページに移動    ↑「歴代校長一覧」のページに移動    ↑「卒業生・同窓生」のページに移動    ↑卒業生、同窓生からの「寄稿」ページに移動    ↑「菊桜会歴代会長」のページに移動    ↑↑メインページ(人物アーカイブ)に移動

脚注: ・

2023年12月23日:直近編集者:SGyasushi
TimeStamp:20231223164005