秋月 直胤

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
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秋月 直胤 先生(中15回生卒業アルバム)

秋月 直胤(あきづき なおかず、19XX年XX月XX日 - 19XX年XX月XX日)は、日本の音楽者。祖父秋月悌次郎、父胤継。府立第八中学校 音楽嘱託教諭

本校歴

1938(昭和15)年12月1日 府立八中音楽嘱託教諭として赴任
1942(昭和17)年 7月 都制施行により、東京都立第八中学校と改称
1947(昭和17)年 5月31日 都立八中を退任



関連項目

着任:1938年12月 1日
退任:1947年 5月31日



記事

報国団雑誌 第20号 154 ぶら下がり取材 秋晴れの八各塔04

秋月先生 廊下でお会いする。「先生、雑誌の八角塔の原稿を書きに三条仕りました。」「いよーそうか。ちょっと待ってくれ。」(二年生の質問の回答にお忙しい。やっと進んでから「記者団会見だな。まあ来いよ。」(とお机のところへ)「先生、田舎はどちらで。」「田舎は東京さ。もっとも生まれは岡山だがね。」「趣味かい。そうだね。ハイキングとテニス、それに映画かな」(お好きなパイプは離さない。)「先生何か生徒に対してご希望はありませんか。うん「それだよ、実は論文にして出そうと思ったんだがね。(これはたのもしい)一体合唱というものの必須の要件は即ち融和する事だよ。一人のわがままな発声も行われないのだ。各パートが異なった旋律を歌っていながらしれが完全に融合一致して立派な曲となるのだよ。その精神が即ち団体行動の精神だ。その意味において下級生よりむしろ上級生において音楽が大切だと思うよ。そして国民的な歌例えば「海征かば」等を立派に歌える様にして欲しい。そして歌うことによって本当に心の豊かさ純真さを養ってもらいたい。誰でも声を持っており身があるのだからもっと音楽に関心を持ってもらいたい。大体こんなものだね」

「今にして知る秋月先生」

いっぱち_創刊号_今にして知る秋月先生

「今にして知る秋月先生」湯本明郎

<はじめに>
長い間八中から離れていた私でしたが、秋月先生とは比較的長くお付き合いさせて頂きました。私が戦後合唱に夢中になり、同好の友人と創った混声合唱団・ヒューゲルコールの指揮を秋月先生にお願いしたのがきっかけです。 昨年3月、私が「いっぱち会」に初めて出席した時、旧友との再会への攻め手の手土産代わりにと思い、3年ほど前にかつての合唱仲間が相寄り発刊した「思い出文集」の中から、秋月先生の生涯記の一部を持参しました。 そのコピーの一つが青村繁君を通して彼の囲碁同好会のメンバー小介川光之君(19回生)の手に渡り、19回生の会報「篤友」第5号に転載され、さらに18回生の会報「いっぱち」創刊準備号(テスト版)に文例の一つとして紹介されました。 19回生の会報に載った18回生の記事が、18回生の固有の会報に載らないで良いはずはない、そう思いましたので、この創刊号に改めて秋月先生の生涯記を掲載させていただき、旧友共々先生を偲びたいと思います。 「・・・その頃の八中には、すぐれて個性的な、風格ある先生がたが幾人もおられた。・・・・ポケットに手を突っ込み、時には憮然として、 また皮肉な笑みを微かに浮かべて、教壇から生徒たちを睥睨しておられる先生の襟元には瀟洒なアスコット・タイが挟まれていた。」と「篤友」編集者は「紛れもなくひとりの芸術家の佇まい」をこの上なくビビットに描き出していますが、私ら当時の「生徒たちのほとんどは、この楽しくはあるが少々変わった先生が、中学の教師には勿体ない才能と経歴の持ち主であることを知らぬままに半世紀を経てしま」いました。 近年になり、改めて先生の生涯記をきわめて大雑把ながらまとめてみて、秋月直胤という一人の人物像を織り成す経糸・横糸の交錯する上に、名立たる歴史上の人物、当代の音楽・芸術界の著名人が次々に登場し、さながら一巻の長編ドラマを観るような興趣をそそられると同時に、八中時代の先生のあの独特な風貌の奥に多彩にして多難な人生が秘められていたことを今にして知り、深い感銘を覚えるものです。

<生い立ち>
秋月先生自身は岡山出身だが、祖父は会津藩士・秋月悌次郎胤永。藩命により江戸の昌平黌(後の東京帝大)へ出向。漢学を講じ、舎監を13年間も務めた。全国諸藩から選りすぐられ集まり来る俊秀との師弟関係を通じて幕末の動乱期に、皇女和宮の将軍家降嫁や勝海舟と西郷隆盛との会見の膳立てを整え、維新政府と会津藩との和議を成就するなど東奔西走の活躍をみせ、会津にこの人ありと称せられた。維新後、佐幕諸藩の要人の多くが酷刑に処せられた中で、熊本・細川家お預けという軽い処分で済んだ。後年、熊本在住が縁となり五高の漢学教授に任ぜられ、松江から赴任した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らと親交を深めたといわれている。最近、会津若松城公園に記念碑が建立された。 先生の父君は秋月胤継、原籍は塚原家。塚原家は剣豪・塚原ト伝の後裔。当時は鹿島神宮の宮司を務める家柄。その次男として出生、後に叔父に当たる山岡鉄舟の養子となる。昌平黌で教鞭を執っていた秋月胤永に認められ、胤永が熊本へ赴く際には内弟子として随行、その間に秋月家に婿入り。やがて明治33年創立の六高に教授として迎えられ、最高の朱子学者と称せられた。昭和4年まで六高に在職、同校教頭を務めた。 秋月先生はこうした漢学者の家に生を受け、厳格な家風と躾のもとで生育した。 岡山・関西中学校在学中にピアニストを志し、東京・上野の東京音楽学校を目指して上京、受験勉強を続けるいち、声楽の方が向いているのではと勧められ、木下保に紹介された。弟子をとるのに人一倍うるさかったという木下先生が、秋月先生に対しては即刻入門を許したといわれている。
<東京音楽学校時代(現東京芸大)>
「上野」時代の先生は”ピアノ科の生徒よりピアノがうまいのが声楽科にいるぞ”と評判になったらしい。そういえば、八中時代に先生が自由自在にピアノを弾きまくっておられたことを思い出す。 同級生には山田一雄(指揮)、多忠興(提琴)、伊藤武雄(声楽)らが、一年先輩に藤山一郎、一年後輩に松平晃が、また先生の指揮するコーラスメンバーの中には砂原美智子や二葉あき子らがいたという。すでに在学中に合唱曲の普及を目的として「流浪の民」「埴生の宿」等のレコード吹き込みの依頼を受け、その指揮・指導に当たっていた。 昭和7年7月、奏楽堂へ天皇・皇后を迎えての午前演奏会のオペラ公演では、藤山一郎、伊藤武雄らと共に主役として出演した。昭和10年、最優秀の成績で卒業、毎日新聞社主催の新人発表会でデビューした。

<レコード界へデビュー>
合唱曲の吹き込み等の縁により在学中からコロンビア社への入社勧誘があったそうだが、同様の例で校則違反に問われた藤山一郎や松平晃の事件があっただけに満を持し、卒業と同時に、山田耕筰の推薦を受けてコロンビア社に入社した。 レコード界ではすでに淡谷のり子、伊藤久雄、ミスコロンビア、芸者音丸等が花形歌手として売り出し中だった。先生は西城八十の命名による”青山 薫”なる芸名をもって最初からスターとしてデビューした。 当時、大卒初任給が45円のころ、青山 薫は基本給だけで200円、高級車パッカードによる自宅送迎という厚遇だったという。日劇のこけら落としには、古関裕而指揮のバンドをバックに出演。昭和10年から12年にかけて堀内敬三や藤浦洸などの作詞による13曲が先生によって吹き込まれたことがレコード出版記録に残っている。
<クラシック界へ復帰>
それらの中で、朝日新聞の募集に当選した詩に江口夜詩が作曲した「ハイキングの歌」がヒット盤になったことが、却って仇になってしまった。朝日新聞が歌手・青山薫を全国版に華々しく紹介したのはよいとして、彼が六高教授・教頭の子息である旨の記事が父君の逆鱗に触れた。厳格な漢学者の家系から音楽家の輩出する事の希有の時代、事もあろうにレコード界に身を投じたとあっては、父君の怒り心頭に発したことは想像に難くない。 一方、いかにも芸術家肌である反面、反骨精神の旺盛な先生のことだから、事態がすんなり収まったとは思えないが、結果としては先生がレコード界を去られ、クラシック界へ復帰することになった。 この時お世話になった人が、他ならぬ山田耕筰だった。耕筰が岡山にゆかりの深いことは、岡山人でも良く知らない。自身は東京生まれだが、少年時代に父を亡くしてから不遇の時代を過ごし、一時岡山の姉の家に寄寓していたことがある。姉とはガントレット恒子のこと、イギリス人の夫エドワードが六高の英語教師として赴任しるに従って来岡、大正5年まで在岡、自身も山陽高女の音楽と英習字の嘱託教師を務めた。耕筰が音楽を志すに至ったのも、姉夫婦の感化によるものといわれている。 耕筰自身も、自分の推薦により先生をコロンビア社へ入社させたという責任を感じていたのか、先生のクラシック復帰後は自作の歌曲発表会などへは必ず先生をソリストとして伴うなど、よく面倒を見たという。 当時はJOAKの国民歌謡シリーズが人気を集めていた時代で、数々の名曲を一曲ずる一週間にわたり、毎昼時間、歌唱指導の形で先生の声が全国放送の電波に乗って流れた。我々が八中に入る前後の頃と思うが、私は覚えがない。どなたがご記憶ありや?
<戦局の激化とともに>
しかしながら、戦争の拡大・激化とともにこうした音楽活動は次第に先細りになり、先生も音楽生活の重点を音楽教育の面に置かざるをえなくなった。こうして先生は「上野」の分校や府立八中、府立十高女の教壇に立つに至った。 やがて日本の敗色がますますその濃さをましていた昭和19年、先生は海軍に召集された。 昭和19年の我々は、四修者、軍関係進学者はすでに八中を去り、残る大半の生徒は二か所の勤労動員先向上に分散、武蔵小山の校舎に登校することほとんどなかったから、先生の応召を見送った18回生はおそらく誰一人いなかったことと思う。 終戦後しばらくして、先生は無事復員された。

<三つのヒューゲル・コール>
(その1)昭和20年8月、広島県東部在の勤労動員先の工場で終戦を迎えた私は、すでに6月末の岡山大空襲により帰るべき町も校舎も失った今、なす術もなく、学友散り散りに重い心と足を引きずるようにして我が家に帰り着いた。帰り着いた東京も一面の焼け野原、我が家も5月空襲で被災、焼け残った知人宅に寄寓する身だった。 戦後の荒廃と混迷の続く一方、平和と自由が着実に根付き、社会の秩序と平静が取り戻されてゆく中で、戦時中閉ざされ、押さえつけられていた、いわゆる文化的なものが一時に解き放たれ、花咲かせた。誰もが急速・急激な変化に戸惑いながらも、千天に降り注ぐ慈雨に巡り会った思いを抱いて、それらに飛びついていった。 私が飛びついたものは音楽、特に合唱だった。そしてこれが昂じて昭和21年春、同好の友人と混声合唱団を創った。所在する大岡山の地名に因んで「ヒューゲル・コール」と名付け、指揮・指導を秋月先生にお願いした。八中時代、私などは千数百人もいる生徒の中の一人、先生から名前・顔を覚えてもらっていたかも分からないが、先生に近く接する機会を得たのはこの時が初めてだった。
(その2)先生ご自身は、復員はされたものの、渋谷・常盤松の自宅は空襲によりすでに消失、苦しい戦後の生活の連続だったと思うが、昭和22年春、昭和19年以来郷里岡山に疎開されていたご家族のもとに帰郷された。 昭和21年後半に胸に病を患い、学年末試験を放棄、所謂ドッペった私は、昭和22年4月、再度、2学年に復学、岡山での生活に腰を据えることになったので、岡山帰りした先生とおぼ同じころだったということになる。 昭和22年6月、岡山帰りの先生を待ち受けていたかのように混声合唱団結成の気運が急速に高まり、「岡山ヒューゲル・コール」が誕生した。指揮者は東京と同じ秋月先生であり、地名も同じ岡を冠する岡山に因んだ命名であることはご推察の通り。かくして、舞台は東京から岡山へ。この地でもまた先生と合唱のご縁が続こうとは思いもかけないことだった。
(その3)ところが翌年6月、先生は岡山を去ることになる。ヒューゲル誕生からわずか1年後、惜しまれての離別だったが、大阪音楽大学声楽部長就任への招聘によるものとあれば仕方あるまい。 しかし数年後には、当時日本全土を席巻した学生運動に巻き込まれ、ほとんどの教授連中と共に職を辞された。つづいて新設音楽大学の設立計画に参画・奔走されたが、これも成就しなかった。その後、兵庫県立山崎高校、姫路商業高校に奉職。その間にも、阪神地区の合唱指導者としても勇名をはせ、宮城道雄自作自演の「日蓮」演奏会には氏のたっての希望により指揮に当たり、また作曲面でも「白鷺城賛歌」やオペラ「修善寺物語」などの作品をはっぴょうするなど、精力的に音楽活動を続けられた。 そして、教職生活二十数年に及んだ後、定年により退職、ご長男の勤務地に近い埼玉県白岡町に新居を建て、移り住まわれた。 しかし、先生の高名を知った埼玉音楽会は先生を放任することを許さず、昭和48年、礼を尽くして川越高校に迎え入れた。3年後に後輩に生を譲られたが、教え子たちが先生を慕って離さず、ここでもまた先生を指揮者に頂く合唱団が結成された。その名「ヒューゲル・コール1976」が示す通り、東京、岡山に次ぐ3番目のヒューゲル・コールである。大岡山、岡山、白岡とはよくよく岡に縁のある先生だなと思う。

<おわりに>
この川越「ヒューゲル・コール」は中世協会のコラールから現代ミュージカルものまで幅広いレパートリーを持ち、二十数人の小編成ながら、メンバーに音大出身者を多く擁し、非常にレベルの高い合唱団、さすが秋月先生の指導の賜物と今更ながら感銘を深くする。 しかしながら、その後十年余を経た昭和63年11月先生は最愛のこの地をついの栖として、その「多彩にして多難な人生」の幕を閉じられたのである。 川越ヒューゲルは、メンバーの中から川本軒司という新進気鋭の指揮者が育ち、先生の後を継いでいるが、彼は実は皆川達夫君の直弟子とのこと、皆川先生からみっちり薫陶を受けたというから、世の中狭いと言おうか、ここでも秋月-皆川-川本へと連なる縁の糸の確かさを感じないわけにはゆかない。 また、私ら東京、岡山ヒューゲルの在京浜地区生き残りメンバーもかつては招かれて同じステージに登り、先生の指揮棒のもと一緒に歌ったこともあり、今も毎年5月の定期演奏会には決まって川越を訪ね、先生の奥様をはじめ先生の教え子諸兄姉と親交を重ね、温めている。 終わりに改め、謹んで、先生のご冥福をお祈りします。合掌

秋月先生の思い出

中18回生のページに掲載されている、「いっぱち 会報 創刊号」に掲載されている「今にして知る秋月先生:湯本明郎」
「今にして知る秋月先生:湯本明郎」 (下のボタンを押すと全文が表示されます)

「今にして知る秋月先生:湯本明郎」を表示



中18回生のページに掲載されている、「いっぱち 会報2004 通巻第2号」に掲載されている「今にして知る秋月先生(その2) 山田洋次 (構成・注釈・文責:湯本明郎)」
「今にして知る秋月先生(その2) 山田洋次 (構成・注釈・文責:湯本明郎)」(下のボタンを押すと全文が表示されます)

「今にして知る秋月先生(その2) 山田洋次]を表示





関連事項

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脚注: ・

2023年12月16日:直近編集者:SGyasushi
TimeStamp:20231216164140