「岩本 實次郎」の版間の差分

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'''私の校長時代'''
'''私の校長時代'''


 山根視学官は十二月五日に広島師範学校男子部長に転出、私がその後を引継ぎ、次いで二十一年三月三十日に校長に補せられた。私は岡田・中島両先生の如き識見・力量もなく、終戦処理と新教育制度を受け入れるに遅なき状態で、特別語るべき業績の何物もなかったのは汗顔の至りである。中島校長は就任間もなく保護者会を作り、自ら会長となって運営に当売られた。私は普通会員中から選出の渡辺次郎氏に会長の席を譲り、先ず講堂復旧に着手した。資材の甚だ乏しい折ながら、やっと雨漏り防止を主として外廓だけを造って貰った。また学校周辺は人家疎開で空地になっていたので、都築校務主任の勧めにより買収を決意、西原惰三氏の十万円寄付申し入れに力を得、保護者会に諮り寄付を募り今の体育館の在る一帯の土地一千十六坪余を吉仲長五郎・飯泉鐘之助両氏から譲り受け運動場を拡張した。そして二十三年には保護者会を後援会に改め、名実共に協力団体たる性格を明らかにしたのである。この年四月一日から新制高校制度が発足し、校名も東京都立第八新制高等学校とせられ現在の体制に移行したのである。しかし旧制中学一・二年は都立八中併設中学校となったので、昼夜を合わせると四校同居の形となった。これより先ジュッぺル中尉の視察かあり、その結果かどうか知らぬが、八中が都内学校のベスト・スリーの一つに挙げられたという愉快なことがあった。高校については当然校章が問題となり、図案を募ったが、結局美術科の先生の考案で現在の姿となったのである。また学年の表示には数字を用いず、校章の座を赤・黄・青に色別けし、入学年度によって卒業するまで同一の色を用うることとした。外部の者にはどれが一年やら三年やら分らず、定時制にはこれを用いぬことにしたが、現在もそうなっていると思う。二十二年五月五日には二十五周年記念式を校庭で行ない、衆議院議長松岡駒吉・民主党議員苫米地義三の両氏から感銘深い祝辞を戴いたが、八中鰻頭はどうしたか記憶がない。二十四年三月八日第一回卒業式を行ない、四月から高校一本の単純な形となり、全日制課程二十四学級・定時制課程十六学級という完成規模を定めた。この時全日制課程一学級を増募、初めて四名の女生徒に入学を許可した。この頃後援会が発展的に解消、P.T・Aが誕生することとなり、初代会長に渡辺次郎氏が選任せられた。当時教育庁からナンバーを用いない校名に変更したいとの要求があり、八の字には未練があったが、苦慮の末「南陵」と報告した。一年近く経ってから再考を求められたが、名案も浮ばず、隣地名をとり「小山台」と報告し、これが採用せられ二十五年一月に現在の校名を称えることとなった。尚男女生徒数三対一もこの年に定められたのである。また、この頃民主社会に望ましい人間像を描き、生徒を全人的に育成する目標として敬愛・自主・力行の三徳を掲げ、従来の克己・親和・勤勉にかえたわけである。制定以来愛唱せられて来た校歌も全面的に改める必要に迫られ、各方面に呼びかけ、応募も数篇あったが、第二代PTA会長内海貞夫氏を長とする校歌制定委員会により時の国語科講師栗原源七氏の作詞を採択、平井保喜(康三郎)氏に作曲を依頼、二十六年五月末に星講堂で演奏会を開き発表したものが現在の校歌である。私が校長に就任した年の冬、職員室に怪火が発生、大事に至らず喰い止めたが、二十六年の初夏に工作室から漏電に因る出火があり、幸いに小火の程度に止まったものの、図書室の書籍が黒焦げとなったり水浸しになるという失態があった。講堂の内部は長く放世せられていたが、創立三十周年を迎える直前やっと内装を行ない現在に至っている。これは結局一記念事業となったのであるが、これを伝え聞いてか、八中五回生で、その頃日立製作所で課長の地位に在った米田誠一君がわざわざ来訪、「先生の思うように使って下さい」と金五十万円を寄付してくれたが、つくづく頼母しく有り難く感謝したことはいうまでもない。この金の使途については色々考究した結果、永く生徒が直接利用することができるまとまった物にするのが最善と考え、図書室の閲覧机・椅子及び書架などを作り、毎日後輩が恩恵を受けることができるようにした。今もそれは使われていると思う。米田君のネームプレートが付けてある。昭和二十八年新装の講堂で創立三十周年一記念式を挙行した。被災前講堂には岡田校長の肖像写真が掲げてあったので、これを復元し、同時に中島校長のも掲げたいと準備委員会に相談したところ、草光信成画伯が非常な好意をもって三十号の油絵で描いて下さった。当日これをステージの両側に掲げ、未亡人となられた奥様方のご臨席を願い、亡き両先生のご功絃を称え感謝の微意を表わした次第であった。私は堅牢で設備完壁の体育館を建築したいと鉄筋コンクリート造りのものを計画したが、遂に実現することができなかった。現在のものは四代斎藤校長の時建てられたもので、建築費は私の計画したものと同額で、建坪は二倍あると聞いている。体育といえば、野球や排球で活躍したこと、大伴英語科主任が早くから進駐軍の通訳に出られた関係もあって、米軍将校夫人らが英会話の指導に瀕繁と出入りしたこと、高校四回卒の尾崎茂雄君が我が国高校生を代表して、世界青少年協議会に出席のため渡米したことなど、いつまでも忘れられない思い出は尽きない位である。(四十周年沿革史より抜粋)
 山根視学官は12月5日に広島師範学校男子部長に転出、私がその後を引継ぎ、次いで1946(昭和21)年3月30日に校長に補せられた。私は岡田・中島両先生の如き識見・力量もなく、終戦処理と新教育制度を受け入れるに遑(いとま)なき状態で、特別語るべき業績の何物もなかったのは汗顔の至りである。<br>
 中島校長は就任間もなく保護者会を作り、自ら会長となって運営に当たられた。私は普通会員中から選出の渡辺次郎氏に会長の席を譲り、先ず講堂復旧に着手した。資材の甚だ乏しい折ながら、やっと雨漏り防止を主として外廓だけを造って貰った。また学校周辺は人家疎開で空地になっていたので、都築校務主任の勧めにより買収を決意、西原脩三氏の10万円寄付申し入れに力を得、保護者会に諮り寄付を募り今の体育館の在る一帯の土地1,016坪余を吉仲長五郎・飯泉鐘之助両氏から譲り受け運動場を拡張した。そして1948(昭和23)年には保護者会を後援会に改め、名実共に協力団体たる性格を明らかにしたのである。<br>
 この年4月1日から新制高校制度が発足し、校名も東京都立第八新制高等学校とせられ現在の体制に移行したのである。しかし旧制中学1・2年は都立八中併設中学校となったので、昼夜を合わせると4校同居の形となった。これより先ジュッぺル中尉の視察があり、その結果かどうか知らぬが、八中が都内学校のベスト・スリーの一つに挙げられたという愉快なことがあった。<br>
 高校については当然校章が問題となり、図案を募ったが、結局美術科の先生の考案で現在の姿となったのである。また学年の表示には数字を用いず、校章の座を赤・黄・青に色別けし、入学年度によって卒業するまで同一の色を用うることとした。外部の者にはどれが一年やら三年やら分らず、定時制にはこれを用いぬことにしたが、現在もそうなっていると思う。<br>
 1947(昭和22)年5月5日には25周年記念式を校庭で行い、衆議院議長松岡駒吉・民主党議員苫米地義三の両氏から感銘深い祝辞を戴いたが、八中饅頭はどうしたか記憶がない。<br>
 1949(昭和24年3月8日第1回卒業式を行い、4月から高校一本の単純な形となり、全日制課程24学級・定時制課程16学級という完成規模を定めた。この時全日制課程一学級を増募、初めて4名の女生徒に入学を許可した。この頃後援会が発展的に解消、P.T.Aが誕生することとなり、初代会長に渡辺次郎氏が選任せられた。<br>
 当時教育庁からナンバーを用いない校名に変更したいとの要求があり、八の字には未練があったが、苦慮の末「南陵」と報告した。一年近く経ってから再考を求められたが、名案も浮ばず、隣地名をとり「小山台」と報告し、これが採用せられ1950(昭和25)年1月に現在の校名を称えることとなった。尚男女生徒数三対一もこの年に定められたのである。また、この頃民主社会に望ましい人間像を描き、生徒を全人的に育成する目標として敬愛・自主・力行の三徳を掲げ、従来の克己・親和・勤勉にかえたわけである。<br>
 制定以来愛唱せられて来た校歌も全面的に改める必要に迫られ、各方面に呼びかけ、応募も数篇あったが、第2代PTA会長内海貞夫氏を長とする校歌制定委員会により時の国語科講師栗原源七氏の作詞を採択、平井保喜(康三郎)氏に作曲を依頼、1951(昭和26)年5月末に星講堂で演奏会を開き発表したものが現在の校歌である。<br>
 私が校長に就任した年の冬、職員室に怪火が発生、大事に至らず喰い止めたが、1951年の初夏に工作室から漏電に因る出火があり、幸いに小火の程度に止まったものの、図書室の書籍が黒焦げとなったり水浸しになるという失態があった。<br>
 講堂の内部は長く放置せられていたが、創立30周年を迎える直前やっと内装を行い現在に至っている。これは結局一記念事業となったのであるが、これを伝え聞いてか、八中5回生で、その頃日立製作所で課長の地位に在った米田誠一君がわざわざ来訪、「先生の思うように使って下さい」と金50万円を寄付してくれたが、つくづく頼母しく有り難く感謝したことはいうまでもない。<br>
 この金の使途については色々考究した結果、永く生徒が直接利用することができるまとまった物にするのが最善と考え、図書室の閲覧机・椅子及び書架などを作り、毎日後輩が恩恵を受けることができるようにした。今もそれは使われていると思う。米田君のネームプレートが付けてある。<br>
 1953(昭和28)年新装の講堂で創立30周年記念式を挙行した。被災前講堂には岡田校長の肖像写真が掲げてあったので、これを復元し、同時に中島校長のも掲げたいと準備委員会に相談したところ、草光信成画伯が非常な好意をもって30号の油絵で描いて下さった。当日これをステージの両側に掲げ、未亡人となられた奥様方のご臨席を願い、亡き両先生のご功績を称え感謝の微意を表した次第であった。<br>
 私は堅牢で設備完壁の体育館を建築したいと鉄筋コンクリート造りのものを計画したが、遂に実現することができなかった。現在のものは4代斎藤校長の時建てられたもので、建築費は私の計画したものと同額で、建坪は二倍あると聞いている。<br>
 体育といえば、野球や排球で活躍したこと、大伴英語科主任が早くから進駐軍の通訳に出られた関係もあって、米軍将校夫人らが英会話の指導に瀕繁と出入りしたこと、高校4回卒の尾崎茂雄君が我が国高校生を代表して、世界青少年協議会に出席のため渡米したことなど、いつまでも忘れられない思い出は尽きない位である。(岩本實次郎「40周年記念誌」P21)
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==関連項目==
==関連項目==

2024年2月20日 (火) 20:51時点における最新版

岩本實次郎 三代校長

岩本 實次郎(いわもと さねじろう、1946年3月30日 - 1954年3月31日)は、日本の教育者。東京都立第八中学校校長(三代)

本校歴

1946年 11月   講堂外部の復旧工事が落成する。(保護者会の協力による修復)
1946年 12月19日 運動場拡充のため北側隣接地916坪1合2勺を保護者会により買収する(吉永長五郎氏所有の強制疎開地)。、 
1947年 10月21日 先に買収の隣接地100坪4合2勺を保護者会により買収し、合わせて運動場とする(飯泉鐘之助氏所有地)。   
1947年 12月 1日 教職員教育研究協議会が結成される。
1948年 4月 1日 新制高等学校制度実施により東京都立第八新制高等学校となり、全日制3年制各学年8学級、計24学級、定時制4年生各学年2学級計8学級の2課程を設置する。 
1948年 5月 5日 創立25周年記念式典を挙行する。
1948年 9月20日 寒さにもめげず咲き匂う寒菊を象徴した新校章を定める。
1949年 3月 8日 新制高等学校第1回卒業式を挙行する。(卒業生男子144名)  
1949年 4月 1日 全日制課程24学級編成(1学年8学級)。

           定時制課程16学級編成(1学年4学級)の完成規模定まる。男女共学とし本年度は、全日制のみ4名の女子生徒の入学を許可する。

1949年 7月   高等学校野球全国大会 東京都予選決勝で慶応高校に敗れ第2位となる。
1950年 4月 3日 新制中学第1回卒業の男子300名、女子100名を新制度の全日制第1学年に入学を許可する。

           定時制第1学年は男女合わせて200名の入学を許可する。

1951年 2月 6日 新校歌を制定する。(作詞、本校講師栗原源七氏、作曲平井保喜氏)   
1951年 5月 7日 新校歌発表演奏会を星講堂で開催する。
1951年 6月13日 別棟の工作教室の金工室から出火、小火の程度で消火する。
1951年 12月   女子生徒の制服、セーラー服を制定する。
1952年 3月   昭和28年度都立高校入学希望者に対し、初めて合同選抜学力検査制度を実施する。
1953年 4月10日 創立30周年記念事業として講堂の修復が完成する。
1953年 10月24日 創立30周年記念式典を挙行する。



岩本實次郎校長先生については、以下のフォルダー内文書を転記すること。

03_岩本實次郎校長

「三代目校長 岩本実次郎氏」

1966(昭和41)年3月18日発行の小山台新聞46号掲載の「三代目校長 岩本実次郎氏」を以下に転載します。
小山台新聞 第46号「三代目校長 岩本実次郎氏」


小山台新聞46号 岩本実次郎.jpg



エピソード

私の校長時代

 山根視学官は12月5日に広島師範学校男子部長に転出、私がその後を引継ぎ、次いで1946(昭和21)年3月30日に校長に補せられた。私は岡田・中島両先生の如き識見・力量もなく、終戦処理と新教育制度を受け入れるに遑(いとま)なき状態で、特別語るべき業績の何物もなかったのは汗顔の至りである。
 中島校長は就任間もなく保護者会を作り、自ら会長となって運営に当たられた。私は普通会員中から選出の渡辺次郎氏に会長の席を譲り、先ず講堂復旧に着手した。資材の甚だ乏しい折ながら、やっと雨漏り防止を主として外廓だけを造って貰った。また学校周辺は人家疎開で空地になっていたので、都築校務主任の勧めにより買収を決意、西原脩三氏の10万円寄付申し入れに力を得、保護者会に諮り寄付を募り今の体育館の在る一帯の土地1,016坪余を吉仲長五郎・飯泉鐘之助両氏から譲り受け運動場を拡張した。そして1948(昭和23)年には保護者会を後援会に改め、名実共に協力団体たる性格を明らかにしたのである。
 この年4月1日から新制高校制度が発足し、校名も東京都立第八新制高等学校とせられ現在の体制に移行したのである。しかし旧制中学1・2年は都立八中併設中学校となったので、昼夜を合わせると4校同居の形となった。これより先ジュッぺル中尉の視察があり、その結果かどうか知らぬが、八中が都内学校のベスト・スリーの一つに挙げられたという愉快なことがあった。
 高校については当然校章が問題となり、図案を募ったが、結局美術科の先生の考案で現在の姿となったのである。また学年の表示には数字を用いず、校章の座を赤・黄・青に色別けし、入学年度によって卒業するまで同一の色を用うることとした。外部の者にはどれが一年やら三年やら分らず、定時制にはこれを用いぬことにしたが、現在もそうなっていると思う。
 1947(昭和22)年5月5日には25周年記念式を校庭で行い、衆議院議長松岡駒吉・民主党議員苫米地義三の両氏から感銘深い祝辞を戴いたが、八中饅頭はどうしたか記憶がない。
 1949(昭和24年3月8日第1回卒業式を行い、4月から高校一本の単純な形となり、全日制課程24学級・定時制課程16学級という完成規模を定めた。この時全日制課程一学級を増募、初めて4名の女生徒に入学を許可した。この頃後援会が発展的に解消、P.T.Aが誕生することとなり、初代会長に渡辺次郎氏が選任せられた。
 当時教育庁からナンバーを用いない校名に変更したいとの要求があり、八の字には未練があったが、苦慮の末「南陵」と報告した。一年近く経ってから再考を求められたが、名案も浮ばず、隣地名をとり「小山台」と報告し、これが採用せられ1950(昭和25)年1月に現在の校名を称えることとなった。尚男女生徒数三対一もこの年に定められたのである。また、この頃民主社会に望ましい人間像を描き、生徒を全人的に育成する目標として敬愛・自主・力行の三徳を掲げ、従来の克己・親和・勤勉にかえたわけである。
 制定以来愛唱せられて来た校歌も全面的に改める必要に迫られ、各方面に呼びかけ、応募も数篇あったが、第2代PTA会長内海貞夫氏を長とする校歌制定委員会により時の国語科講師栗原源七氏の作詞を採択、平井保喜(康三郎)氏に作曲を依頼、1951(昭和26)年5月末に星講堂で演奏会を開き発表したものが現在の校歌である。
 私が校長に就任した年の冬、職員室に怪火が発生、大事に至らず喰い止めたが、1951年の初夏に工作室から漏電に因る出火があり、幸いに小火の程度に止まったものの、図書室の書籍が黒焦げとなったり水浸しになるという失態があった。
 講堂の内部は長く放置せられていたが、創立30周年を迎える直前やっと内装を行い現在に至っている。これは結局一記念事業となったのであるが、これを伝え聞いてか、八中5回生で、その頃日立製作所で課長の地位に在った米田誠一君がわざわざ来訪、「先生の思うように使って下さい」と金50万円を寄付してくれたが、つくづく頼母しく有り難く感謝したことはいうまでもない。
 この金の使途については色々考究した結果、永く生徒が直接利用することができるまとまった物にするのが最善と考え、図書室の閲覧机・椅子及び書架などを作り、毎日後輩が恩恵を受けることができるようにした。今もそれは使われていると思う。米田君のネームプレートが付けてある。
 1953(昭和28)年新装の講堂で創立30周年記念式を挙行した。被災前講堂には岡田校長の肖像写真が掲げてあったので、これを復元し、同時に中島校長のも掲げたいと準備委員会に相談したところ、草光信成画伯が非常な好意をもって30号の油絵で描いて下さった。当日これをステージの両側に掲げ、未亡人となられた奥様方のご臨席を願い、亡き両先生のご功績を称え感謝の微意を表した次第であった。
 私は堅牢で設備完壁の体育館を建築したいと鉄筋コンクリート造りのものを計画したが、遂に実現することができなかった。現在のものは4代斎藤校長の時建てられたもので、建築費は私の計画したものと同額で、建坪は二倍あると聞いている。
 体育といえば、野球や排球で活躍したこと、大伴英語科主任が早くから進駐軍の通訳に出られた関係もあって、米軍将校夫人らが英会話の指導に瀕繁と出入りしたこと、高校4回卒の尾崎茂雄君が我が国高校生を代表して、世界青少年協議会に出席のため渡米したことなど、いつまでも忘れられない思い出は尽きない位である。(岩本實次郎「40周年記念誌」P21)



関連項目

着任:1946年3月30日
退任:1954年3月31日
前 任 在 任 後 任
中島 嘉之吉

1946年度 (昭和21年度)

1947年度 (昭和22年度)

1948年度 (昭和23年度)

1949年度 (昭和24年度)

1950年度 (昭和25年度)

1951年度 (昭和26年度)

1952年度 (昭和27年度)

1953年度 (昭和28年度)

齋藤 清



関連事項

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脚注: ・

2024年2月20日:直近編集者:Adminkoyama100
TimeStamp:20240220205116