「塩野入啓晃」の版間の差分

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(ページの作成:「thumb|250px|塩野入啓晃 先生 (高7回卒業アルバム)'''塩野入啓晃'''(しおのいり ひろあき、19XX年XX月XX日 - 20XX年XX月XX日)は、日本の教育者。19XX年塩野入菊三郎より「啓晃」と改名。都立小山台高校 保健体育教諭 ==本校歴== :1949(昭和24)年 4月 1日 都立第八高等学校社会科教諭として赴任 :1950(昭和25)年 1月28日 校…」)
 
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:退任:1984年 3月31日
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==「青春記:sionoiri」==
:1966(昭和41)年7月23日発行の小山台新聞48号掲載の「青春記:勢山秀子」を以下に転載します。
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|'''小山台新聞 第48号「青春記:勢山秀子」'''
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|style="vertical-align:top"|<br> 十六の年の四月、津田の寄宿舎に向けて出発する朝になって、私はまだ大きな西洋人形を持って行ったものかどうか迷っていた... それほど大切な人形も寄宿に着くと同時に一目を恥じるものになったのだが、しかし大学の四年間は、急速に、この幼稚な少女を成長させてくれた。<br>
 最初に最も大きな影響を与えたのは川崎なつ女史という国語の先生であった。川崎女史は、日本の女性解放史の上では、有名な存在であるが、最初の授業で「古代、女性は太陽であった」と宣言され、日本の長い歴史の中で、いかに女性が男性によって圧迫されてきたかを説き、女性を解放することの急務を説かれた。多分この先生の授業が原因となったのであろうが、二年生の頃から、市川房枝女史(現社会党議員)のお伴をして、婦選運動に加わった時期もあった。今の学生諸君には「婦選」と言っても、何のことか分からないかもしれないが、婦人に参政権を与える運動のことである。当時は、男性にだけ選挙権が与えられていたので、これを婦人にも与えようとの運動が盛んになりかけた時代であった。<br>
 しかし、この運動に対する熱もいつしか冷めて、三年の頃には、自分の一生を託児所に捧げたいものと決めていた。そして三年の夏休みには日本女子大のセッツルメントに泊まり込みで出かけ、学齢前の子供達のシラミ取りに昼間を費やし、夜は子ども達を一人一人起こして、トイレにつれてゆくのに、ろくろく寝ずに過ごしたりした。四年の夏休みも日暮里にある託児所で過ごし、貧しい子供達の世話をするのが自分の使命であり、また子供達を愛することがどんなに自分を幸せにしてくれるかを知って、いよいよ託児事業に一生をかけようと決心したものであった。<br>
 この一大決心も、大学卒業と共に、あえなく消え去り、世の常の娘と同じように、おとなしく花嫁修業をしているときに、舞い込んだ運命が、女学校の教師であった。友人が急に結婚することになったが後任なくて辞められないので、三月まで教師をしてくれとのことで八カ月ほど女学校の先生をすることになった。卒業の時「先生だけは絶対にいや」と決めていたのにふしぎな巡り合わせであった。<br>
 しかし初めて教えた日の感激!かわいらしい生徒達(女学校の二年生)のいきいきとした「ハイハイ」と手を上げるときの、透き通る声!最初の日の夜は一晩中、生徒達の夢を見て、良くねむられなかったほどであった。東京からは離れた地方の女学校のこととて、自分の好き勝手をずいぶんとしたものだった。英語の授業は海岸へ生徒を連れ出して、大学の話をしたり、英語の歌を教えたり....。<br>
 今振り返ってみると、この短期間の教師の経験がなかったらば、私が小山台の教師になることもなかったと思う。そして外面にでたものは、さまざまの変化を見せてきたものの、その中心となるもの -人間への愛情- は変わらないで残っているような気がする。<br>
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[[ファイル:小山台新聞_48号_勢山秀子写真.jpg|thumb|220px|大学時代]]
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2023年7月16日 (日) 12:38時点における版

塩野入啓晃 先生 (高7回卒業アルバム)

塩野入啓晃(しおのいり ひろあき、19XX年XX月XX日 - 20XX年XX月XX日)は、日本の教育者。19XX年塩野入菊三郎より「啓晃」と改名。都立小山台高校 保健体育教諭

本校歴

1949(昭和24)年 4月 1日 都立第八高等学校社会科教諭として赴任
1950(昭和25)年 1月28日 校名を東京都立小山台高等学校と改称
1984(昭和59)年 3月31日 都立小山台高校を退任




関連項目

着任:1949年 4月 1日
退任:1984年 3月31日



「青春記:sionoiri」

1966(昭和41)年7月23日発行の小山台新聞48号掲載の「青春記:勢山秀子」を以下に転載します。
小山台新聞 第48号「青春記:勢山秀子」

 十六の年の四月、津田の寄宿舎に向けて出発する朝になって、私はまだ大きな西洋人形を持って行ったものかどうか迷っていた... それほど大切な人形も寄宿に着くと同時に一目を恥じるものになったのだが、しかし大学の四年間は、急速に、この幼稚な少女を成長させてくれた。

 最初に最も大きな影響を与えたのは川崎なつ女史という国語の先生であった。川崎女史は、日本の女性解放史の上では、有名な存在であるが、最初の授業で「古代、女性は太陽であった」と宣言され、日本の長い歴史の中で、いかに女性が男性によって圧迫されてきたかを説き、女性を解放することの急務を説かれた。多分この先生の授業が原因となったのであろうが、二年生の頃から、市川房枝女史(現社会党議員)のお伴をして、婦選運動に加わった時期もあった。今の学生諸君には「婦選」と言っても、何のことか分からないかもしれないが、婦人に参政権を与える運動のことである。当時は、男性にだけ選挙権が与えられていたので、これを婦人にも与えようとの運動が盛んになりかけた時代であった。

 しかし、この運動に対する熱もいつしか冷めて、三年の頃には、自分の一生を託児所に捧げたいものと決めていた。そして三年の夏休みには日本女子大のセッツルメントに泊まり込みで出かけ、学齢前の子供達のシラミ取りに昼間を費やし、夜は子ども達を一人一人起こして、トイレにつれてゆくのに、ろくろく寝ずに過ごしたりした。四年の夏休みも日暮里にある託児所で過ごし、貧しい子供達の世話をするのが自分の使命であり、また子供達を愛することがどんなに自分を幸せにしてくれるかを知って、いよいよ託児事業に一生をかけようと決心したものであった。

 この一大決心も、大学卒業と共に、あえなく消え去り、世の常の娘と同じように、おとなしく花嫁修業をしているときに、舞い込んだ運命が、女学校の教師であった。友人が急に結婚することになったが後任なくて辞められないので、三月まで教師をしてくれとのことで八カ月ほど女学校の先生をすることになった。卒業の時「先生だけは絶対にいや」と決めていたのにふしぎな巡り合わせであった。

 しかし初めて教えた日の感激!かわいらしい生徒達(女学校の二年生)のいきいきとした「ハイハイ」と手を上げるときの、透き通る声!最初の日の夜は一晩中、生徒達の夢を見て、良くねむられなかったほどであった。東京からは離れた地方の女学校のこととて、自分の好き勝手をずいぶんとしたものだった。英語の授業は海岸へ生徒を連れ出して、大学の話をしたり、英語の歌を教えたり....。

 今振り返ってみると、この短期間の教師の経験がなかったらば、私が小山台の教師になることもなかったと思う。そして外面にでたものは、さまざまの変化を見せてきたものの、その中心となるもの -人間への愛情- は変わらないで残っているような気がする。

19660723 小山台新聞 48号 青春記.jpg
大学時代
1950(昭和25)年頃 (高3回卒業アルバム)



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2023年7月16日:直近編集者:Adminkoyama100
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