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提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
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=== 1952年11月27日発行小山台新聞13号より「運動会雑感」 ===
=== 1952年11月27日発行小山台新聞13号より「運動会雑感」 ===
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|'''小山台新聞 第35号「青春記:三本立ての大学生活 小林年子」'''
|'''1952年11月27日発行小山台新聞13号より「運動会雑感」'''
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| 東京は山の手の町の一隅で周囲の人々の期待を一身に受けて産声をあげたのですが、残念ながら私は女の子、しかも三人目の女の子だったので、父は「また女か」と言って私の顔を見にもこなかったそうです。おかげで私は小さい時から父の運動神経を受け継いで男の子のように振る舞い、暴れ回っても家の者は、あまりうるさくいいませんでした。<br>
|style="vertical-align:top" |<br> 昨年に比し、今年はレベルが下がるだろうとの前評判であったが、案に相違して昨年に倍する成績を収めたのは、賞賛されてしかるべきであろう。各面から見て昨年より格段の進歩が見られ、応援戦などもバックに巨大な装置などを使ったのは昨年は白組のみであったが、今年は四組とも相当の費用をかけ黄色が特大の蝶を作れば、白組も負けじと白亜の巨城をつくるなど、それぞれ意匠をこらして気をはき、白組のごときは前評判で地理的なハンデに見舞われr、ぜんぜん望みがないとまで言われていたが、見事にハンデを有利に導いて、一等を取ったのは賞賛されてよい。<br>
 小学校のときの思い出は、もっぱらオテンバな思い出が多いようです。海へは毎年夏中家を借りて住みつき、泳ぎまくり、そして海岸を走り回り、待ちの黒んぼ大会にも出場したことがあり、また区の水泳大会では新記録を作って表彰されました。陸へ上がっては、運動会の徒競走はいつも一等賞、陸上競技のリレーでは神宮競技場で区代表として走ったこともあります。六年生のときには、健康優良児に選ばれたくらいですから、小さいときから私の体は体育向きにできていたのかもしれません。ですから私の学校生活の思い出は運動の思い出が多くあります。そんなことから女学校も運動の盛んな学校が良いというので桜町を選びました。桜町に入ってからは、戦争のいやな思い出と、戦後のバレーボールに明け暮れた思い出とがあります。入学して二年間は陸上競技部に入って、走り幅跳び、走り高跳び、円盤投げ等をやっていましたが、だんだん戦争が激しくなり、クラブ活動も制限されて、もっぱら軍事教練に変わってしまいました。女学生でもゲートルを巻き、防空頭巾をかぶって「頭ー右」、「歩調取れ」の号令も勇ましく分列行進もしたり、両手に土の入った袋を持って走ったり、果ては砂袋を背負って何十キロも歩く耐久訓練もやらされました。そしてそれが終われば学校工場で研磨工に早変わり、鉢巻きをして仕事をし、時折の警報に防空壕へ飛び込み、いり豆をかじりながら解除を待つ、といった毎日で、辛い、いやなことばかりでした。そんなとき、生まれたときは私の顔を見に来なかったのですが、物心ついてからは一番私をかわいがってくれた父を失い、仕方なく疎開をし、半年ほどで終戦になり、また学校へ戻って来てからの生活は一変して苦しい中にも楽しいバレーボールの生活が始まったのです。<br>
 また仮装行列にも格段の進歩が見られ、優勝した白組の仮装など、着想が良く群を抜いていた。<br>
 競技種目では、新形式のパン食い、さて誰でしょうなど相当観衆の哄笑を買ったようだ。<br>
 終了後行われたファイヤー・ストームは昭和22年以来、初めて正式の許可が降り、事前に千円の薪の購入等をめぐって相当紛糾もあったようだが、ともかく井沢先生等の監督下に盛大に挙行され、久し振りで青春を謳歌し、三年生にとっては内容的には、意余って力及ばずの感が強かったかもしれぬが、申し分のない一日を送ったことであろう。(秋麗太郎)<br>


 戦後、陸上競技は辞めてバレーボールに変わったのですが、当時の食糧難はひどく、朝はおかゆをすすり、昼は日の丸弁当を持って行き、一時は午前中で授業が終わることもありました。<br>
|style="vertical-align:top"|[[ファイル:19521127_小山台新聞13号_運動会雑感.jpg|thumb|480px]]
そんな中でもバレーボールを続けましたし、練習試合、合宿と休む暇もない日々でした。ボールが見えなくなるまでパスをし、トスを上げ、サーブを打ち、冬はどんなに寒くても指先が切れても手袋をはめず、夏はどんなに暑くても水を飲むのを我慢して涙を流しながら、歯を食いしばっての練習。それは辛いものでした。<br>
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 しかし、その中でも練習が終わって帰り道に皆と甘い物を食べる楽しみ、自炊合宿で皆と相談しながら献立を作る楽しさ等があったおかげで続けられたのだと思います。いつかはこの努力が実を結ぶと信じて、おかげで第一回国体に出場でき、全国第四位、続いて翌年の第二回には準優勝まで行くことができました。<br>
=== 1952年11月27日発行小山台新聞13号より「写真特集 運動会」 ===
 
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 第三回の金沢での国体の時は、決勝戦で愛知県代表に三セットの末敗れ、くやし涙が止まりませんでした。合宿所へ帰っても泣き「うるさい!」と叱られて、また外へ出て電信柱に抱きついて声をあげて泣いたのを覚えています。そのときの記念写真を出してみると、泣きはらした皆の顔がそのときの気持ちを表していて懐かしく思うことがあります。そのときは女学校の五年生でしたから、今で言えば高校の一年に当たります。<br>
{| class="mw-collapsible mw-expanded wikitable" data-expandtext="「写真特集 運動会」を見る" data-collapsetext="折りたたむ"
桜町は全国的にも強かった時代ですので卒業間近には実業団のチームから、今で言うスカウトの人が来て「我が社へ!」と誘います。進学か就職か大分迷いましたが、母は「何か資格を持っていれば、将来きっと役に立つときがある。しかし、経済的援助はできないけれど」と言いますので、考えた末バレーボールも続けられて、しかもあまり費用のかからない学校というので、女子高等師範学校(お茶の水大学)を受けることに決め、幸い入学しましたが、今度は経済的に困ってしまいました。奨学金をもらっても足りずアルバイトを見つけることにしました。幸い中学校で体育の時間の講師を探していたので行くことに決め、大学の授業とバレーボールの練習と試合、そしてアルバイトの三本立ての生活が始まりました。<br>
|'''1952年11月27日発行小山台新聞13号より「写真特集 運動会」'''
 
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 大学時代の思い出と言ったら、この三本立ての忙しいことが先ず思い出されます。学校の経費、自分の食費、そして小遣いとを全部自分で出さなければならないのですから並大抵のことではありません。<br>
|style="vertical-align:top" |<br> 文化祭の劈頭を飾った運動会は10月26日開催され、トラックにフィールドに数々の熱戦を展開し、応援戦、仮装行列等昨年以上の豪華版であった。総合では青組が二連覇の黄組を破り、小山台以来初の優勝を遂げた。<br>
 二時間近くかかる下町の中学校へ朝早くから行き、終わって大学へ行って授業を受け、放課後バレーボールの練習をする。それは忙しい毎日でした。そして日曜日は試合。その間にも第二回の国体に出場したり、関東大会では個人賞もいただきました。こんな生活が結局卒業まで続いたのです。卒業間近の教育実習では、こっそり抜け出してアルバイトに行き、また見つからないように帰ってくるスリルも充分味わいました。<br>
 【写真説明】右上から 白組仮装「原爆の子」、好評を得た女子体操ダンス、黄組仮装「現代人」、赤組仮装「キリスト昇天」、初お目見えの綱引き<br>
 
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 専門科目の学校だけに授業もあまり抜けることができず、だいぶ苦労しましたが、それでも無事卒業できたときは、誰の助けも借りずに自分の力で大学を出たという誇りと自信を持つことができ、大学行きを認めてくれた母に感謝しているくらいです。
以上で私の十七年間にわたる学生生活は幕を閉じたことになりますが、振り返ってみると、一番思い出多い時代は大学時代と言えると思います。将来は教育者の立場に入るという責任感と真剣さのためおろそかにできず、しかもアルバイトをしていると人よりもすべての勉強が少なくなりがちなので、何とか追いつこうとする努力、実技などは放課後に残って練習したこともありました。<br>


 しかし、こう言うと本当に忙しくて遊ぶ間もなかったように思われますが「忙中閑あり」で暇を見つけてダンスを習ったり、映画を見たり、また人並みに恋もしましたし、友達と互いに悩みを語り合ったりもしましたから、経済的には苦労しましたが、精神的にはけっこう楽しかったことになります。ただ、自分の力で最後までがんばったという誇りと自信を持ったことは尊いことだと今でも思っています。<br>
|style="vertical-align:top"|[[ファイル:19521127_小山台新聞13号_写真特集_運動会.jpg|thumb|480px]]
|style="vertical-align:top"|[[ファイル:19521127_小山台新聞13号_運動会雑感.jpg|thumb|480px]]
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2023年7月3日 (月) 09:10時点における最新版

1952年11月27日発行小山台新聞13号より「運動会雑感」

1952年11月27日発行小山台新聞13号より「運動会雑感」

 昨年に比し、今年はレベルが下がるだろうとの前評判であったが、案に相違して昨年に倍する成績を収めたのは、賞賛されてしかるべきであろう。各面から見て昨年より格段の進歩が見られ、応援戦などもバックに巨大な装置などを使ったのは昨年は白組のみであったが、今年は四組とも相当の費用をかけ黄色が特大の蝶を作れば、白組も負けじと白亜の巨城をつくるなど、それぞれ意匠をこらして気をはき、白組のごときは前評判で地理的なハンデに見舞われr、ぜんぜん望みがないとまで言われていたが、見事にハンデを有利に導いて、一等を取ったのは賞賛されてよい。

 また仮装行列にも格段の進歩が見られ、優勝した白組の仮装など、着想が良く群を抜いていた。
 競技種目では、新形式のパン食い、さて誰でしょうなど相当観衆の哄笑を買ったようだ。
 終了後行われたファイヤー・ストームは昭和22年以来、初めて正式の許可が降り、事前に千円の薪の購入等をめぐって相当紛糾もあったようだが、ともかく井沢先生等の監督下に盛大に挙行され、久し振りで青春を謳歌し、三年生にとっては内容的には、意余って力及ばずの感が強かったかもしれぬが、申し分のない一日を送ったことであろう。(秋麗太郎)

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1952年11月27日発行小山台新聞13号より「写真特集 運動会」

1952年11月27日発行小山台新聞13号より「写真特集 運動会」

 文化祭の劈頭を飾った運動会は10月26日開催され、トラックにフィールドに数々の熱戦を展開し、応援戦、仮装行列等昨年以上の豪華版であった。総合では青組が二連覇の黄組を破り、小山台以来初の優勝を遂げた。

 【写真説明】右上から 白組仮装「原爆の子」、好評を得た女子体操ダンス、黄組仮装「現代人」、赤組仮装「キリスト昇天」、初お目見えの綱引き

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