「トーク:1942年度 (昭和17年度)」の版間の差分

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'''昭和一六年一二月八日  (中15回・昭和17年卒 鈴木一弘)'''<br>
'''遠い景色(師の思い出)'''<br>
<br> 「大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」<br>
<br> 遠い、どうしてこんなに景色が遠いのだろう。それでも時計塔のあった鍵型の校舎が、はるかに瞼の底に甦ってくる。<br> 私の八中時代は、軍靴とゲートルに装われ、戦時下の規制に十重二十重に縛られた軍国主義集団生活以外の何物でもなかった。<br> 勿論、触れ合った大部分の先生方からは、かつて八中の伝統であった「自由」の片鱗がうかがわれ、画一的に束縛された学校生活の中に、何かホッとする瞬間を持てた事実は否めない。然し、そのホッとした感覚が、本当に「自由」であること知ったのは、旧制高校生活に依ってであり、当時はただ、無邪気にその解放感に浸ったに過ぎなかった。<br> 「師の思い出」という標題を与えられても、僅かな紙数の中に思い出の全てを記すことは出来ない。ただ、一年から五年迄の担任の諸先生(峰岸(徳)、大竹、甲藤、赤沼、松永)には、それぞれにお世話になり、イタズラ盛りの私が随分とご迷惑をかけたことを深く反省し、申し訳なく思うこともしばしばである。<br> 担任以外では加藤楸邨先生。終生私の心の伴侶となるであろう俳句を、最初に興味を持たせ、目を開かせて戴いたからである。<br> 当時、先生は秋桜子門下の新進俳句作家であり、黒の詰襟の学生服のまま、我々に「奥の細みち」の講義をされる傍ら、現代俳句について幅広く説明をされ、時には、授業中に「教え子の一人顔上げ青嵐」など即興の句を示され、俳句の心を戴いた恩人と言えよう。<br> 私の拙い句集が出来た時、真先に楸邨先生に御送りし、有難い批評を戴けたのも嬉しい思い出である。<br>
丁度、家を出発しようとして玄関でゲートルを巻いていた私の耳に此のニュースが飛び込んできた。軍艦マーチがラジオから流れると始まる大本営発表だが、此の朝は余りにも高調された響きがあったのを記憶している。「繰り返し申し上げます」と何度も流れるニュースを背に、昂奮して学校へ、半分駈け足で急いだ。<br>
(原田亮一 中16回「創立60周年記念誌」P128)<br>
 此の日、一六年一二月八にちは奇しくも年に一度の学校教練の査閲が行われる日で、六時には学校から五分位の東町の家を出た。査閲というのは、陸軍大臣の任命した教練査閲官が来て軍事教練の成果をみるもので、今流に言えば、年に一度、学校をあげて軍のテストを受ける日みたいなものだった。そういう日であったし、しかも中学五年生で、これが最後ということで、余計に意識が高揚したのかもしれない。<br>
 学校へ行っても日米開戦の話ばかりで、皆が何か頭に血が上っていたようであった。いよいよ査閲となったら、査閲官も大変なご機嫌っで、今日は米英と開戦したのだから査閲はこれで中止すると発表があり、内心「やったぞ」というのが正直な気持ちだった。<br>
 ハワイ空襲、香港占領などが、報道された一日だが、それまで英米仏蘭中等の包囲網をいわれ、米国の石油の対日輸出禁止などで、どうなってしまうのかという圧迫と不安が一杯だったので、後の事も考えずこういう気になったと思う。<br>
(鈴木一弘 中15回「創立60周年記念誌」P126)<br>


'''第二次大戦前後の学校生活'''<br>
'''野外教練の思い出'''<br>
 府立八中に入学したら、祝日の打菓子にあんこが入っていたというので、兄貴は弟妹に大きな顔ができた。<br>
 「野外教練の思い出」の原稿依頼を受け、いささか気が重い。私が府立八中に在校したのは、昭和一三年四月から昭和一八年三月までであったから、日華事変・太平洋戦争の最中であった。国家総動員法による日本の軍国主義化が進む中で、中等学校教育もその影響と無縁ではなかった。戦後には廃止された「教練」が正規の科目となったのは大正一四年であったが、昭和一三年からは成績が評価されるようになり、予備戦力養成という役割が強まった。しかし、当時の在校生が、この事を強く意識し、特別な反応を示したわけではなかった。週二、三時間の「教練」には、カーキ色の教練服を着、黒いゲートル(脚絆)を脚に巻き、銃をかついで、かなりまじめに教練に励んでいたと思う。無謀な戦争に反抗の余地なく、表面的には従順に協力していった当時の国民一般と同様な、八中在校生であったといえよう。<br> さて、校内における「教練」の外に、五年生になると「野外教練」が課された。私たちの学年では、六月初旬千葉県習志野において野外教練が実施された。敵味方の二軍に分かれ、当時の習志野陸軍練習地の広い野原を、夜を徹して行動し、暁に両軍が遭遇するという趣向であった。(残っている当時の私の作文草稿によれば、包囲するはずの敵軍が退却したため、徹夜の行動も成果をあげえず、そのまま休戦ラッパが響いたと書いてある。)小銃や機関銃をかついでの暗夜の行軍は、かなりきついものであったし、月のない夜のやみと沈黙、草のにおい、明け方の空のたたずまいなどが思い出の中にある。しかしその頃、戦争はミッドウェーにおいて海軍の主力が敗れ、日本は敗戦の途へと入っていったのであった。
 図書室は自由閲覧で、中学生になった途端に一人前に待遇され、とまどったと同時に自由自律の重さを実感した。<br>
<br>
 小学校の優等生が集まったから、試験の成績はきびしい。内心びくびくしていた処に通信簿はないという。ほっとしたと同時に「人間は人間を評価できない」との旨に感銘した。<br>
(野々村敞 中16回「創立60周年記念誌」P129)
 入学した昭和一二年の七月に日華事変が始まり、一一月に突然岡田校長は退き、中島校長となる。この頃先生方のレジスタンスで授業放棄というような自習時間が多くなった。<br>
 修学旅行は「歩け、歩け」と歩かされた。大磯、奥日光、箱根・長岡、榛名山と雨にもめげずに歩いたが、五年生のときは戦時で中止した。<br>
 明治節には代々木練兵場に集まり霜がひどく寒かった。S教官は自ら手本を示した。卒業の頃は三八銃がなく模擬銃となった。<br>
 園芸のM先生も自ら率先した。戦後の焼跡菜園は、いも作りに大いに役立った。<br>
 終身の副読本「皇国の精義」を教えながら、その編集に自ら参加したがその趣旨には疑問であるといい、時折戦争を皮肉っていたK先生(後の都高教組委員長)。またB氏は思想問題で追われ、中島校長が拾ったという噂に、軍学校の予備校と陰口を云われた八中の校長の一面を見、指導者の厳しさを感じた。<br>
 戦時下、二宮翁夜話やダンテ神曲を語り、俳句の世界に潤いを与えてくれた先生方。<br>
 軍の学校へ行けという父親に反対してなぐられたと歎いていた友。また第一回特攻隊のS君ら多くの戦死した友の冥福を祈ります。<br>
(福田善治 中15回「創立60周年記念誌」P150)

2023年10月1日 (日) 16:02時点における最新版

できごと

1942年
04.01 始業式
04.02 入学式 中20回生(男子291名、A~Fの6クラス)
04.06 級長・役員任命式
04.14 補習科入学式
04.30 全校生徒長距離走(学校~自由ヶ丘間)
05.05 開校記念日鍛錬大会
06.06 一・二・三・四年遠足 五年習志野野営
06.29 武道大会
07.31 終業式
09.01 始業式
09.02 宿題考査
09.12 水泳大会
10.07 学芸会
10.17 鍛錬大会
11.30 剣道大会
12.24 終業式
1943年
01.08 始業式・宿題考査
03.02 卒業式 中16回生(男子220名)
世相
04.18 米空軍日本本土初空襲
08.08 米軍ガダルカナルに上陸
流行語
欲しがりません勝つまでは
流行歌
朝だ元気で
  (「創立60周年記念誌」P128)

S28 小山台高校 校舎の全景(昭和28年ごろ)(60周年記念誌P9).jpg
S28 正門より校舎を望む.jpg

遠い景色(師の思い出)

 遠い、どうしてこんなに景色が遠いのだろう。それでも時計塔のあった鍵型の校舎が、はるかに瞼の底に甦ってくる。
 私の八中時代は、軍靴とゲートルに装われ、戦時下の規制に十重二十重に縛られた軍国主義集団生活以外の何物でもなかった。
 勿論、触れ合った大部分の先生方からは、かつて八中の伝統であった「自由」の片鱗がうかがわれ、画一的に束縛された学校生活の中に、何かホッとする瞬間を持てた事実は否めない。然し、そのホッとした感覚が、本当に「自由」であること知ったのは、旧制高校生活に依ってであり、当時はただ、無邪気にその解放感に浸ったに過ぎなかった。
 「師の思い出」という標題を与えられても、僅かな紙数の中に思い出の全てを記すことは出来ない。ただ、一年から五年迄の担任の諸先生(峰岸(徳)、大竹、甲藤、赤沼、松永)には、それぞれにお世話になり、イタズラ盛りの私が随分とご迷惑をかけたことを深く反省し、申し訳なく思うこともしばしばである。
 担任以外では加藤楸邨先生。終生私の心の伴侶となるであろう俳句を、最初に興味を持たせ、目を開かせて戴いたからである。
 当時、先生は秋桜子門下の新進俳句作家であり、黒の詰襟の学生服のまま、我々に「奥の細みち」の講義をされる傍ら、現代俳句について幅広く説明をされ、時には、授業中に「教え子の一人顔上げ青嵐」など即興の句を示され、俳句の心を戴いた恩人と言えよう。
 私の拙い句集が出来た時、真先に楸邨先生に御送りし、有難い批評を戴けたのも嬉しい思い出である。
(原田亮一 中16回「創立60周年記念誌」P128)

野外教練の思い出
 「野外教練の思い出」の原稿依頼を受け、いささか気が重い。私が府立八中に在校したのは、昭和一三年四月から昭和一八年三月までであったから、日華事変・太平洋戦争の最中であった。国家総動員法による日本の軍国主義化が進む中で、中等学校教育もその影響と無縁ではなかった。戦後には廃止された「教練」が正規の科目となったのは大正一四年であったが、昭和一三年からは成績が評価されるようになり、予備戦力養成という役割が強まった。しかし、当時の在校生が、この事を強く意識し、特別な反応を示したわけではなかった。週二、三時間の「教練」には、カーキ色の教練服を着、黒いゲートル(脚絆)を脚に巻き、銃をかついで、かなりまじめに教練に励んでいたと思う。無謀な戦争に反抗の余地なく、表面的には従順に協力していった当時の国民一般と同様な、八中在校生であったといえよう。
 さて、校内における「教練」の外に、五年生になると「野外教練」が課された。私たちの学年では、六月初旬千葉県習志野において野外教練が実施された。敵味方の二軍に分かれ、当時の習志野陸軍練習地の広い野原を、夜を徹して行動し、暁に両軍が遭遇するという趣向であった。(残っている当時の私の作文草稿によれば、包囲するはずの敵軍が退却したため、徹夜の行動も成果をあげえず、そのまま休戦ラッパが響いたと書いてある。)小銃や機関銃をかついでの暗夜の行軍は、かなりきついものであったし、月のない夜のやみと沈黙、草のにおい、明け方の空のたたずまいなどが思い出の中にある。しかしその頃、戦争はミッドウェーにおいて海軍の主力が敗れ、日本は敗戦の途へと入っていったのであった。
(野々村敞 中16回「創立60周年記念誌」P129)