「トーク:1940年度 (昭和15年度)」の版間の差分

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
(同じ利用者による、間の5版が非表示)
19行目: 19行目:
10月20日 紀元二千六百年奉祝運動会<br>
10月20日 紀元二千六百年奉祝運動会<br>
10月30日 教育勅語渙発五十周年奉読式<br>
10月30日 教育勅語渙発五十周年奉読式<br>
3月8日 第十四回卒業式<br>
3月8日 卒業式 中14回生(男子226名)<br>


'''戦時下の学校生活'''<br>
'''戦時下の学校生活 岩瀬達弥 中14回・昭和16年3月卒'''<br>
戦時下の学校生活 岩瀬達弥 中学14回・昭和16年3月卒<br>
 自由の名残<br>
 自由の名残<br>
 私が八中に入学したのは、昭和十一年であるが、二年生の時に岡田校長から中島校長に替わった。<br>
 私が八中に入学したのは、昭和十一年であるが、二年生の時に岡田校長から中島校長に替わった。<br>
或る日、「上級生が新校長に抗議のストライキをするといって屋上に集まっている。下級生も集まれ。」<br>
或る日、「上級生が新校長に抗議のストライキをするといって屋上に集まっている。下級生も集まれ。」とハッパをかけられた記憶がある。何のことかも分からぬうちに、事は立ち消えになったようであったが今から思えば、それは、当時まだ幾らか残っていた自由の校風のそよぎであったのだろう。<br>
とハッパをかけられた記憶がある。何のことかも分からぬうちに、事は立ち消えになったようであったが<br>
 興亜奉公日<br>
今から思えば、それは、当時まだ幾らか残っていた自由の校風のそよぎであったのだろう。(中略)<br>
 この年、昭和一二年には、日華事変が勃発し、その後、軍国主義の風潮は加速化していった。昭和一四年九月から、毎月一日を「興亜奉公日」と定めて、国民は「戦場の労苦を偲んで、奉公の誠をいたす」ことになった。<br>
 八中でも、その日は、朝礼が三〇分繰上げられて、宮城遙拝、黙祷、青少年学徒への勅語の奉読等があり、放課後には、全校生徒の閲兵、分列行進を行うのが慣例となった。<br>
 体力錬成<br>
 体力錬成<br>
 
 昭和十五年には、紀元二千六百年式典が挙行され、その前後に、勤労奉仕で、宮城前の清掃に出たことがある。また、神宮外苑運動場の競技大会で、戦闘訓練をやって、何だか場違いな感じがしたこともあった。<br>
 昭和十五年には、紀元二千六百年式典が挙行され、その前後に、勤労奉仕で、宮城前の清掃に出たことがある。<br>
 この頃に、各人に「体力手帳」が交付された。今も手もとに残っているが、昭和十五年から十八年の学徒動員で入営する前までの私の体位等が記録されている。懸垂や投てきが苦手で苦労した体力検定の想い出と共に、体力錬成が至上命令であった当時の記念品である。<br>
また、神宮外苑運動場の競技大会で、戦闘訓練をやって、何だか場違いな感じがしたこともあった。<br>
 この頃に、各人に「体力手帳」が交付された。今も手もとに残っているが、昭和十五年から十八年の学徒動員で<br>
入営する前までの私の体位等が記録されている。懸垂や投てきが苦手で苦労した体力検定の想い出と共に、体力<br>
錬成が至上命令であった当時の記念品である。<br>
(「創立60周年記念誌」P124)<br>
(「創立60周年記念誌」P124)<br>



2023年9月10日 (日) 12:00時点における最新版

できごと

学校行事
4月3日 入学式
5月4日 全校マラソン(多摩川堤)
5月22日 「青少年学徒への勅語」下賜記念日奉読式
5月30日 三年箱根・伊豆 四年伊香保 五年甲府・富士五湖旅行(~6月1日)
5月31日 二年日光旅行(~6月1日)
6月1日 一年高尾山遠足
6月8日 東亜競技大会(神宮外苑)で五年60人の戦闘訓練
6月9日 五年習志野 野営演習
7月7日 日中事変三周年記念日(五年武装行軍 四年以下記念式 閲兵分列式)
7月20日 終業式
9月5日 防空演習実施
9月13日 水泳大会
9月28日 日独伊同盟成立につき訓辞、放課後行軍
10月1日 体力章授与
10月13日 三国同盟国民大会に三年生150名参加(芝公園)
10月16日 宮城内外苑勤労奉仕(一・二・四・五年)(~17日)
10月20日 紀元二千六百年奉祝運動会
10月30日 教育勅語渙発五十周年奉読式
3月8日 卒業式 中14回生(男子226名)

戦時下の学校生活 岩瀬達弥 中14回・昭和16年3月卒
 自由の名残
 私が八中に入学したのは、昭和十一年であるが、二年生の時に岡田校長から中島校長に替わった。
或る日、「上級生が新校長に抗議のストライキをするといって屋上に集まっている。下級生も集まれ。」とハッパをかけられた記憶がある。何のことかも分からぬうちに、事は立ち消えになったようであったが今から思えば、それは、当時まだ幾らか残っていた自由の校風のそよぎであったのだろう。
 興亜奉公日
 この年、昭和一二年には、日華事変が勃発し、その後、軍国主義の風潮は加速化していった。昭和一四年九月から、毎月一日を「興亜奉公日」と定めて、国民は「戦場の労苦を偲んで、奉公の誠をいたす」ことになった。
 八中でも、その日は、朝礼が三〇分繰上げられて、宮城遙拝、黙祷、青少年学徒への勅語の奉読等があり、放課後には、全校生徒の閲兵、分列行進を行うのが慣例となった。
 体力錬成
 昭和十五年には、紀元二千六百年式典が挙行され、その前後に、勤労奉仕で、宮城前の清掃に出たことがある。また、神宮外苑運動場の競技大会で、戦闘訓練をやって、何だか場違いな感じがしたこともあった。
 この頃に、各人に「体力手帳」が交付された。今も手もとに残っているが、昭和十五年から十八年の学徒動員で入営する前までの私の体位等が記録されている。懸垂や投てきが苦手で苦労した体力検定の想い出と共に、体力錬成が至上命令であった当時の記念品である。
(「創立60周年記念誌」P124)

世相
9月27日 日独伊三国同盟成立
1月(昭和16年) 食糧増産に青少年学徒を動員

流行語
 贅沢は敵だ・一億一心

流行歌
 湖畔の宿・隣組
 

昭和15年遠足.jpg