「トーク:1934年度 (昭和 9年度)」の版間の差分

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
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(ページの作成:「==できごと== '''1932年'''<br> 04.02 始業式<br> 04.03 入学式 中10回生<br> 05.15 五年関西方面修学旅行(~18)<br> 06.09 遠足 一年大磯 二年江ノ烏・鎌倉 三年筑波山 四年奥多摩御嶽 五年上野博物館見学<br> 06.14 五年富士裾野板妻に野外演習(~18)<br> 07.20 終業式<br> 09.10 水泳大会<br> 09.16 全校生徒オリンピック大会記録映画鑑賞<br> 10.30 運…」)
 
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==できごと==
'''英会話の授業があった'''<br>
'''1932年'''<br>
もう半世紀も前の話で記憶も薄れかかっているけれども、かつての富士を望む学舎が建てかえられると聞いて感無量である。府立八中から小山台高校、その移りかわりの時期を戦地で過ごした者にとって何となくしっくりいかない感じが、校舎が消え去ってしまうことで、ますます縁の薄い存在になってしまうのではないかと危倶している。<br>
04.02 始業式<br>
僕は八中では劣等生であった。もともと偏屈だった僕は好きな学科はよく勉強したが、嫌いな学科は全くしなかった。数学は零点も同然だったし、教練とか剣道も大嫌いで、緊張の高まりつつあったあの時代、病気のせいもあるが教練が不合格でよくも卒業させて貰えたものである。今一応音楽家として認められてはいるものの音楽の時間が好きだったわけでもない。理論は面白かったが歌を唱わせられるのが大の苦手で成績も悪かった。音楽学校に行くようになった時も音楽の松井先生にはひと言も相談しなかった。いや、しにくかったのである。<br>
04.03 入学式 中10回生<br>
そろそろキナ臭くなりつつあった時代、今考えればもう太平洋戦争の序曲は始まっていて、どの府立でも海兵、陸士ときおいたっている時代に、八中は他とは違った独自の教育をしていたように思う。音楽の時間が普通一年で終わりなのに八中は三年迄あった。図画の時間も何年迄か覚えていないが麻生先生ともう一人おられたように記憶する。絵も好きだったのでどっちにしようかと迷った時期もあった。また英会話の時間があってミス・ムーンというおばさんが教壇に立たれていた。外国語が好きになって今でも英語に不自由しないのもこの時間のせいかも知れぬ。<br>
05.15 五年関西方面修学旅行(~18)<br>
こういった独自の教育はその時こそ別に深くは考えもしなかったが、今になって名校長といわれた岡田藤十郎先生の時流に溺れない自由主義的な教育方針に改めて深い敬意を表せざるを得ないのである。<br>
06.09 遠足 一年大磯 二年江ノ烏・鎌倉 三年筑波山 四年奥多摩御嶽 五年上野博物館見学<br>
(黒沼俊夫 中8回「創立60周年記念誌」P112)<br>
06.14 五年富士裾野板妻に野外演習(~18)<br>
07.20 終業式<br>
09.10 水泳大会<br>
09.16 全校生徒オリンピック大会記録映画鑑賞<br>
10.30 運動会<br>
11.05 明治神宮奉拝式に参加<br>
11.11 三・四・五年学芸会<br>
11.12 一・二年学芸会<br>
12.03 教練査閲<br>
12.24 終業式<br>
'''1933年'''<br>
03.01 卒業式 中6回生(男子179名)<br>
'''世相'''<br>
05.15 五・一五事件<br>
02.20 小林多喜二死す<br>
03.27 国際連盟を脱退<br>
'''流行語'''<br>
非常時・話せばわかる<br>
'''流行歌'''<br>
影を慕いて・天国に結ぶ恋<br> 


'''在学中の思い出'''<br>
'''アメリカ帰りの先生'''<br>
この題は指定された題で、まことに不得意な題である。在学中は哲夫といって、洋画家になった今は隆彦で通している。<br>
中学三年の頃、アメリカ帰りで、洋書を小脇に抱えて教室にこられる新進気鋭の先生がおられた。当時の我が八中は、自由でのんびした校風で、「常に快活の気概あるべし」、万事につけ活発この上なかった。<br>
在学中の古きよき時代を思い出さしてくれるものは、音楽である。昨夜も札幌のあるバーで古い音楽を聞きながら、八中時代を思い出していた。私は一六年間の欧米生活から帰国してからは、毎年七、八月の二ヶ月は北海道で過ごしている。<br>
他の先生は特に文句を言われなかったが、その先生はある日、「あちらの生徒は静かに先生の来るのを待っている。あちらではストーブではなくスチーム暖房で、暖かい教室で先生も生徒もアイスクリームを食べている。教室もこんなに穢(きたな)くない……」など言われた。頭にきたので次の授業の日我々は、黒板と教壇の机の上を水浸しの雑巾で拭き、シーンとして待っていた。入ってこられた例の先生はそれをチラリと見ていやな顔をしたが、叱りもせず窓際に寄り掛かりながら講義をされた。我をとしては叱られた時の答弁も用意していたのであったが……。<br>
あの頃の音楽と言えば、フォスターであり、映画につながると"会議は踊る""パリの屋根の下"それに"オーソレミオ""帰れソルレントヘ""サンタルチア"などのイタリー民謡、静かなものでは"ミネトンカの湖畔""コロラドの月"それに"アロハオエ"などのハワイアンであり、これらを聞くと本当に八中時代を思い出す。みな今でも歌っている生命の長い歌だ。<br>
後日、音楽の松井先生が、「誰だ、この前いたずらしたのは!職員会議にでたぞ」と教えてくれたが、ニコニコして、それ以上は追求もされなかった。松井先生は、いわゆる八中型の情味のある先生で、現在でも我々同期のクラス会には御出席いただいている。<br>
今度私の馬の油絵「黎明」を同期生一同で校長室へ寄贈した。馬が九頭行くから「うまく行く」という、母校の繁栄を祝すものである。<br>
アイスクリームといえば、当時大井の田舎に住む我々にとっては高級品であって、三又通りの「みやこ」という喫茶店で、夏しか食べられなかった。値段は確か二五銭。<br>
(三上隆彦(本名:哲夫) 中6回「創立60周年記念誌」P108)<br>
また、各家庭では火鉢で暖をとっていて、ストーブを使っていた家庭など殆どなかったのではないだろうか。<br>
 
(久能木武四郎 中8回「創立60周年記念誌」P109)
'''八中運動会'''<br>
私は昭和二年に八中に入学した。この年に始めて一年生から五年生まで揃ったわけだ。校舎も新しく、運動場も広く感じられた。運動会は、毎年五月五日に行われ、何時も雲一つない好天気で、岩崎源兵衛先生が、「八中日和」と言って居られたのが懐かしい。<br>
二年E組の時、同じ組の佐藤正君が一○○米、二○○米、四○○米競争の全種目に優勝した。また五回生の中村静夫君が長距離競争に出て、皆に一周以上も遅れて最後まで一人で走り通して、盛大な拍手を浴びたことや、六回生の船山夏雄君が、百足競争で毎年先頭になって活躍していた事等も思い出される。<br>
当時も運動はとても盛んで、生徒は皆頑張り屋であった。私は、水泳は得意であったが、陸上では余り見るべきものもなく、もっぱらクラス対抗の競技に、人一倍大きな声をふり絞って、応援に駈けずり廻っていた。<br>
連動会が終わると、紅白の八中饅頭が配られて、そのおいしかったことを、今でも楽しく思い出す。<br>
(堀井正 中6回「創立60周年記念誌」P109)

2024年1月8日 (月) 18:12時点における版

英会話の授業があった
もう半世紀も前の話で記憶も薄れかかっているけれども、かつての富士を望む学舎が建てかえられると聞いて感無量である。府立八中から小山台高校、その移りかわりの時期を戦地で過ごした者にとって何となくしっくりいかない感じが、校舎が消え去ってしまうことで、ますます縁の薄い存在になってしまうのではないかと危倶している。
僕は八中では劣等生であった。もともと偏屈だった僕は好きな学科はよく勉強したが、嫌いな学科は全くしなかった。数学は零点も同然だったし、教練とか剣道も大嫌いで、緊張の高まりつつあったあの時代、病気のせいもあるが教練が不合格でよくも卒業させて貰えたものである。今一応音楽家として認められてはいるものの音楽の時間が好きだったわけでもない。理論は面白かったが歌を唱わせられるのが大の苦手で成績も悪かった。音楽学校に行くようになった時も音楽の松井先生にはひと言も相談しなかった。いや、しにくかったのである。
そろそろキナ臭くなりつつあった時代、今考えればもう太平洋戦争の序曲は始まっていて、どの府立でも海兵、陸士ときおいたっている時代に、八中は他とは違った独自の教育をしていたように思う。音楽の時間が普通一年で終わりなのに八中は三年迄あった。図画の時間も何年迄か覚えていないが麻生先生ともう一人おられたように記憶する。絵も好きだったのでどっちにしようかと迷った時期もあった。また英会話の時間があってミス・ムーンというおばさんが教壇に立たれていた。外国語が好きになって今でも英語に不自由しないのもこの時間のせいかも知れぬ。
こういった独自の教育はその時こそ別に深くは考えもしなかったが、今になって名校長といわれた岡田藤十郎先生の時流に溺れない自由主義的な教育方針に改めて深い敬意を表せざるを得ないのである。
(黒沼俊夫 中8回「創立60周年記念誌」P112)

アメリカ帰りの先生
中学三年の頃、アメリカ帰りで、洋書を小脇に抱えて教室にこられる新進気鋭の先生がおられた。当時の我が八中は、自由でのんびした校風で、「常に快活の気概あるべし」、万事につけ活発この上なかった。
他の先生は特に文句を言われなかったが、その先生はある日、「あちらの生徒は静かに先生の来るのを待っている。あちらではストーブではなくスチーム暖房で、暖かい教室で先生も生徒もアイスクリームを食べている。教室もこんなに穢(きたな)くない……」など言われた。頭にきたので次の授業の日我々は、黒板と教壇の机の上を水浸しの雑巾で拭き、シーンとして待っていた。入ってこられた例の先生はそれをチラリと見ていやな顔をしたが、叱りもせず窓際に寄り掛かりながら講義をされた。我をとしては叱られた時の答弁も用意していたのであったが……。
後日、音楽の松井先生が、「誰だ、この前いたずらしたのは!職員会議にでたぞ」と教えてくれたが、ニコニコして、それ以上は追求もされなかった。松井先生は、いわゆる八中型の情味のある先生で、現在でも我々同期のクラス会には御出席いただいている。
アイスクリームといえば、当時大井の田舎に住む我々にとっては高級品であって、三又通りの「みやこ」という喫茶店で、夏しか食べられなかった。値段は確か二五銭。
また、各家庭では火鉢で暖をとっていて、ストーブを使っていた家庭など殆どなかったのではないだろうか。
(久能木武四郎 中8回「創立60周年記念誌」P109)