トーク:1934年度 (昭和 9年度)

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
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英会話の授業があった
もう半世紀も前の話で記憶も薄れかかっているけれども、かつての富士を望む学舎が建てかえられると聞いて感無量である。府立八中から小山台高校、その移りかわりの時期を戦地で過ごした者にとって何となくしっくりいかない感じが、校舎が消え去ってしまうことで、ますます縁の薄い存在になってしまうのではないかと危倶している。
僕は八中では劣等生であった。もともと偏屈だった僕は好きな学科はよく勉強したが、嫌いな学科は全くしなかった。数学は零点も同然だったし、教練とか剣道も大嫌いで、緊張の高まりつつあったあの時代、病気のせいもあるが教練が不合格でよくも卒業させて貰えたものである。今一応音楽家として認められてはいるものの音楽の時間が好きだったわけでもない。理論は面白かったが歌を唱わせられるのが大の苦手で成績も悪かった。音楽学校に行くようになった時も音楽の松井先生にはひと言も相談しなかった。いや、しにくかったのである。
そろそろキナ臭くなりつつあった時代、今考えればもう太平洋戦争の序曲は始まっていて、どの府立でも海兵、陸士ときおいたっている時代に、八中は他とは違った独自の教育をしていたように思う。音楽の時間が普通一年で終わりなのに八中は三年迄あった。図画の時間も何年迄か覚えていないが麻生先生ともう一人おられたように記憶する。絵も好きだったのでどっちにしようかと迷った時期もあった。また英会話の時間があってミス・ムーンというおばさんが教壇に立たれていた。外国語が好きになって今でも英語に不自由しないのもこの時間のせいかも知れぬ。
こういった独自の教育はその時こそ別に深くは考えもしなかったが、今になって名校長といわれた岡田藤十郎先生の時流に溺れない自由主義的な教育方針に改めて深い敬意を表せざるを得ないのである。
(黒沼俊夫 中8回「創立60周年記念誌」P112)

アメリカ帰りの先生
中学三年の頃、アメリカ帰りで、洋書を小脇に抱えて教室にこられる新進気鋭の先生がおられた。当時の我が八中は、自由でのんびした校風で、「常に快活の気概あるべし」、万事につけ活発この上なかった。
他の先生は特に文句を言われなかったが、その先生はある日、「あちらの生徒は静かに先生の来るのを待っている。あちらではストーブではなくスチーム暖房で、暖かい教室で先生も生徒もアイスクリームを食べている。教室もこんなに穢(きたな)くない……」など言われた。頭にきたので次の授業の日我々は、黒板と教壇の机の上を水浸しの雑巾で拭き、シーンとして待っていた。入ってこられた例の先生はそれをチラリと見ていやな顔をしたが、叱りもせず窓際に寄り掛かりながら講義をされた。我をとしては叱られた時の答弁も用意していたのであったが……。
後日、音楽の松井先生が、「誰だ、この前いたずらしたのは!職員会議にでたぞ」と教えてくれたが、ニコニコして、それ以上は追求もされなかった。松井先生は、いわゆる八中型の情味のある先生で、現在でも我々同期のクラス会には御出席いただいている。
アイスクリームといえば、当時大井の田舎に住む我々にとっては高級品であって、三又通りの「みやこ」という喫茶店で、夏しか食べられなかった。値段は確か二五銭。
また、各家庭では火鉢で暖をとっていて、ストーブを使っていた家庭など殆どなかったのではないだろうか。
(久能木武四郎 中8回「創立60周年記念誌」P112)