トーク:1932年度 (昭和 7年度)

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
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できごと

1932年
04.02 始業式
04.03 入学式 中10回生
05.15 五年関西方面修学旅行(~18)
06.09 遠足 一年大磯 二年江ノ烏・鎌倉 三年筑波山 四年奥多摩御嶽 五年上野博物館見学
06.14 五年富士裾野板妻に野外演習(~18)
07.20 終業式
09.10 水泳大会
09.16 全校生徒オリンピック大会記録映画鑑賞
10.30 運動会
11.05 明治神宮奉拝式に参加
11.11 三・四・五年学芸会
11.12 一・二年学芸会
12.03 教練査閲
12.24 終業式
1933年
03.01 卒業式 中6回生(男子179名)
世相
05.15 五・一五事件
02.20 小林多喜二死す
03.27 国際連盟を脱退
流行語
非常時・話せばわかる
流行歌
影を慕いて・天国に結ぶ恋
 

在学中の思い出
この題は指定された題で、まことに不得意な題である。在学中は哲夫といって、洋画家になった今は隆彦で通している。
在学中の古きよき時代を思い出さしてくれるものは、音楽である。昨夜も札幌のあるバーで古い音楽を聞きながら、八中時代を思い出していた。私は一六年間の欧米生活から帰国してからは、毎年七、八月の二ヶ月は北海道で過ごしている。
あの頃の音楽と言えば、フォスターであり、映画につながると"会議は踊る""パリの屋根の下"それに"オーソレミオ""帰れソルレントヘ""サンタルチア"などのイタリー民謡、静かなものでは"ミネトンカの湖畔""コロラドの月"それに"アロハオエ"などのハワイアンであり、これらを聞くと本当に八中時代を思い出す。みな今でも歌っている生命の長い歌だ。
今度私の馬の油絵「黎明」を同期生一同で校長室へ寄贈した。馬が九頭行くから「うまく行く」という、母校の繁栄を祝すものである。
(三上隆彦(本名:哲夫) 中6回「創立60周年記念誌」P108)

八中運動会
私は昭和二年に八中に入学した。この年に始めて一年生から五年生まで揃ったわけだ。校舎も新しく、運動場も広く感じられた。運動会は、毎年五月五日に行われ、何時も雲一つない好天気で、岩崎源兵衛先生が、「八中日和」と言って居られたのが懐かしい。
二年E組の時、同じ組の佐藤正君が一○○米、二○○米、四○○米競争の全種目に優勝した。また五回生の中村静夫君が長距離競争に出て、皆に一周以上も遅れて最後まで一人で走り通して、盛大な拍手を浴びたことや、六回生の船山夏雄君が、百足競争で毎年先頭になって活躍していた事等も思い出される。
当時も運動はとても盛んで、生徒は皆頑張り屋であった。私は、水泳は得意であったが、陸上では余り見るべきものもなく、もっぱらクラス対抗の競技に、人一倍大きな声をふり絞って、応援に駈けずり廻っていた。
連動会が終わると、紅白の八中饅頭が配られて、そのおいしかったことを、今でも楽しく思い出す。
(堀井正 中6回「創立60周年記念誌」P109)