1938年度 (昭和13年度)

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1938(昭和13)年度

できごと 詳細・引用・寄稿
4月 1日 第二、第三学年補欠試験

4月 2日 始業式、入学式
4月23日 常陸丸[2]生存者 小原氏講演会
4月29日 天長節
4月30日 靖国神社例祭、全校生徒参拝、行軍
5月 2日 第四学年野外演習
5月 5日 開校記念日、午前中小運動会
5月13~18日 中間考査 (初の学期中間での試験実施)
5月25日 第四学年野外演習
5月26日 放課後映画会
5月28日 全校マラソン、第五学年富士裾野野外演習
6月 4日 父兄会、保護者会
6月10日 第三学年野外演習
6月15日 第二学年野外演習
6月18日 第五学年狭窄射撃[3]
6月24~25日 模擬試験
6月28日 第五学年実包射撃
7月 1~2日 剣道大会
7月 7日 支那事変一周年、全校行軍
7月13~18日 第一学期定期考査
7月15日 市野先生応召入隊
7月20日 終業式
7月21~25日 勤労奉仕作業
7月21~31日 臨海学校(前期)
7月21~8月 3日 夏期講習会
8月 1~11日 臨海学校(後期)


9月1日 始業式

12月20日 「校友会雑誌 第15号」発行
12月XX日 終業式


1月X日 始業式
1月X~XX日 1・2年ア・テスト
1月XX日 3年ア・テスト
1月XX日 ロードレース
3月X~XX日 期末考査
3月 8日 卒業式 中12回生(男子207名)
3月XX日 終業式

射撃演習

 1930(昭和5)年代々木練兵場で教練と対抗演習・露営が行なわれた。1931(昭和6)年には第5学年で射撃演習が行なわれた。 その後は毎年教練・野外演習が行なわれた。1938(昭和13)年から全校行事となる。
(「50周年記念誌」P50)

世 相

1月1日 国家総動員法公布
6月9日 文部省、夏季学生の集団勤労を指令
1月14日 双葉山六九連勝

流行語-相手とせず
流行歌-旅の夜風・海行かば



できごと[1]

4月 1日 第二、第三学年補欠試験
4月 2日 始業式、入学式
4月23日 常陸丸[2]生存者 小原氏講演会
4月29日 天長節
4月30日 靖国神社例祭、全校生徒参拝、行軍
5月 2日 第四学年野外演習
5月 5日 開校記念日、午前中小運動会
5月13~18日 中間考査 (初の学期中間での試験実施)
5月25日 第四学年野外演習
5月26日 放課後映画会
5月28日 全校マラソン、第五学年富士裾野野外演習
6月 4日 父兄会、保護者会
6月10日 第三学年野外演習
6月15日 第二学年野外演習
6月18日 第五学年狭窄射撃[3]
6月24~25日 模擬試験
6月28日 第五学年実包射撃
7月 1~2日 剣道大会
7月 7日 支那事変一周年、全校行軍
7月13~18日 第一学期定期考査
7月15日 市野先生応召入隊
7月20日 終業式
7月21~25日 勤労奉仕作業
7月21~31日 臨海学校(前期)
7月21~8月 3日 夏期講習会
8月 1~11日 臨海学校(後期)

12月20日 「校友会雑誌 第15号」発行
3月 8日 卒業式 中12回生(男子207名)

1930(昭和5)年代々木練兵場で教練と対抗演習・露営が行なわれた。1931(昭和6)年には第5学年で射撃演習が行なわれた。
その後は毎年教練・野外演習が行なわれた。1938(昭和13)年から全校行事となる。



教職員



学芸会

4月9日(火)午前10時より

  • 開会挨拶
  • XXXXXX:○○○○
  • ああああああ(講演):○○○○
  • いいいいいい(劇):○○○○
  • ううう(ピアノ演奏):○○○○
  • 閉会挨拶


「校友会雑誌 第15号」

「校友会雑誌 第15号」は、1938(昭和13)年12月20日発行されました。
発行所:東京府立第八中学校校友會
印刷所は、なんと「大日本印刷株式會社」です。
「校友会雑誌 第15号」は小山台高校 図書室資料室に保管されていました(裏表紙なし)。




以下の「校友会雑誌 第15号」PDFファイルへのリンクをクリックすると「校友会雑誌 第15号」全文表示「校友会雑誌 第15号」全文

以下のリンクから「校友会雑誌 第15号」全文をご覧いただけます。
 「校友会雑誌 第15号」PDFファイルへのリンク




卒業アルバム





関連項目

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脚注

  1. 第一学期は、「校友会雑誌 第15号」P158からの校誌抄から転記しました。
  2. 常陸丸(ひたちまる)事件とは、日露戦争中の1904(明治37)年6月15日に玄界灘を西航中の陸軍徴傭運送船3隻が、ロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊(ウラジオ艦隊)所属の3隻の装甲巡洋艦、「ロシア」、「リューリク」および「グロモボーイ」によって相次いで攻撃され、降伏拒否などにより撃沈破された事件である。特に、陸軍徴傭運送船「常陸丸」(日本郵船、6,172トン)の喪失は日本の国内世論を憤激させ、連合艦隊、特に日本海の海上警備を担当していた上村彦之丞中将の第二艦隊に対して非難の声が向けられることとなり、第二艦隊は事件から2か月後の8月14日に起こった蔚山沖海戦でウラジオ艦隊を事実上壊滅させるまでの間、強い批判にさらされた。
  3. 室内もしくは狭隘(きょうあい)な射場で行なう射撃。装薬を少なくして狭窄射撃用に作られた狭窄弾を用いる。



2024年8月9日:直近編集者:Teisaku
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