1924年度 (大正13年度)
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1924(大正13)年度
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できごと | 詳細・引用・寄稿 |
4月X日 入学式 中2回生(男子XXX名) 4月X日 9月1日 始業式 1月X日 始業式 |
==校舎落成==
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世 相 | |
5月 日本体育連盟組織 |
校舎落成
第2期工事は、正面玄関より左方に位置する1階2階並びに3階の講堂及び現在は消失した木造の雨天体操場などで大正14年3月完成。
第2代中島校長時代は樹木を大切にし、1年に一度は本職の植木屋を入れて手入れをしていた。運動場の南側の塀に沿ったイチョウの並木は学校中で一番古く、
昭和天皇御成婚記念樹で大正13年の植樹である。もう一か所、東側の康済病院側へはヤエザクラの並木を植えたが、惜しいことに戦争頃枯れてしまった。
4月1日 東京府荏原郡平塚町小山ニ於ケル新築校舎ノ一部落成セルヲ以テ之ニ移転ス
なぜ駅前が裏門?の謎解決!
駅に近いため正門より多くの人に馴染み深いものだが、目蒲電鉄の都合で線路が急に変更され、正門側をやめて、裏門側を通ることになったという。
8中7不思議(後述)の始まりである。
府立八中敷地決定裏話
- 城南地方も,時代の進歩とともに、一般にも教育思想が浸透して来た。東京府では、この地域に中学校を設慨することになり、府立第八中学校も最初は三木小学校の校舎の一部で仮開校、授業を開始した。
- 新校舎の敷地として、現在の武蔵小山駅の北側の現在地が候補に上り、予定の仮図ができた。ここは平塚村と碑衾(ひぶすま)村の両村に跨っていたのにも拘らず、碑裳村は学区外にされた。詳しくは、北側の正門や、校舎の玄関の事務室や東側の校舎、校庭の救地等は、碑衾村内で、村道に連なっていた。
- ここは碑衾村にとっては、誠に思い出深い所で、大字碑文谷(旧碑文谷村)の地番の出発点(筆頭)の「一番地」となっていた。このようなところへ、幸いに府立中学校が開校されることは、村として誠に喜ばしいことだが、どうしたことか、当村は学区外にされて、当村の児童は入学の受験さえできないとは、当村を余りにも軽蔑し過ぎる。「当村の児童の、向学心と大志を阻止するとは何事だ。もっての外だ。黙ってはおられない。報復手段に出るぞ。ここの正門は当村の大字碑文谷に面して村道に連っているから、この村道を変更して、事実上正門を封鎖してしまえ」等の穏かでないデマが盛んに飛び、昔の百姓一撲のような前兆が現れて風雲急を告げた。
- そこで東京府当局も驚愕して、大体左記のような妥協案を出した。
- 一、住所の位置が両村に跨っている場合は、戸主の居間(床の間)即ち、生活の本拠の所にする。この様な慣習になっていたから、学校の所在地も、これに倣って校長室のある、平塚村とする。
- 一、村内に府立中学校の校舎がありながら入学できないのは可哀想だが、発表した学区を簡単に変更することはできない。
- 一、然し校長の裁量で学区と同様、受験や、入学許可をすることにしたらどうか。東京府はこれを黙認する。
- 大体このような政治的配慮(俗に言う腹芸)により当村(碑裳村)も学区内と同様の取扱いを受けたのである。(略)
- 本稿は主として、昭和初期の碑裳町(目黒区の前身)助役であった故岡川そう三氏や、目黒区及び品川区の当時の古老(今はいずれも故人)の生前の御高話による。記して謝す。
- (目黒区郷土研究会「郷土目黒第十三輯」1969(昭和44)年、10月15日刊の大川省三氏の記事より転載)
- 創立60周年記念誌P93より
当時の様子
- 1924(大正13)年7月7日~18日の間1,2年生が1日交代で水泳の練習、場所は多摩川で18日には水上大会を行なった。
- 1924(大正13)年6月御成婚奉祝運動会を行なう。種目の中に棒倒し、綱引きがある。1937(昭和12)年の運動会は分列行進、爆弾点火競争、肉弾戦(野試合)など戦時色豊かな種目が行なわれた。
幻の8中7不思議
8中7不思議を古い人に聞いてみてもあまりはっきりしない。7つ揃っていたかどうかもよくわからない。順序も文句も人によって違う。
全然知らないという人もある。この解らないところも7不思議の一つかも知れない。
1.表門が裏にあって裏門が表にある。
1.昼間からおばけが出る。
1.あかずの戸。
1.斜に傾いた校舎。
1.校舎にわれ目がある。
1.煙の出ない煙突。
1.先生は動物ばかりで人間がいない。
おまけ7不思議
1.晴天に雨が降る。
1.コンクリート建の木造講堂。
「校友会雑誌 第1号」
- 第1号は現在探索中です。
関連項目
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脚注
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2024年1月1日:直近編集者:Adminkoyama100
TimeStamp:20240101122525