小林 年子
小林 年子(こばやし としこ、19XX年XX月XX日 - 20XX年XX月XX日)は、日本の教育者。都立小山台高校 保健体育教諭
本校歴
- 1952(昭和27)年 4月 1日 都立小山台高校保健体育教諭として赴任
- 1984(昭和59)年 3月31日 都立小山台高校を退任
関連項目
- 着任:1952年 4月 1日
- 退任:1984年 3月31日
「青春記:三本立ての大学生活 小林年子」
- 1962(昭和37)年5月12日発行の「小山台新聞第35号」より「青春記」を以下に転載します。
小山台新聞 第35号「青春記:三本立ての大学生活 小林年子」 | |
東京は山の手の町の一隅で周囲の人々の期待を一身に受けて産声をあげたのですが、残念ながら私は女の子、しかも三人目の女の子だったので、父は「また女か」と言って私の顔を見にもこなかったそうです。おかげで私は小さい時から父の運動神経を受け継いで男の子のように振る舞い、暴れ回っても家の者は、あまりうるさくいいませんでした。 小学校のときの思い出は、もっぱらオテンバな思い出が多いようです。海へは毎年夏中家を借りて住みつき、泳ぎまくり、そして海岸を走り回り、待ちの黒んぼ大会にも出場したことがあり、また区の水泳大会では新記録を作って表彰されました。陸へ上がっては、運動会の徒競走はいつも一等賞、陸上競技のリレーでは神宮競技場で区代表として走ったこともあります。六年生のときには、健康優良児に選ばれたくらいですから、小さいときから私の体は体育向きにできていたのかもしれません。ですから私の学校生活の思い出は運動の思い出が多くあります。そんなことから女学校も運動の盛んな学校が良いというので桜町を選びました。桜町に入ってからは、戦争のいやな思い出と、戦後のバレーボールに明け暮れた思い出とがあります。入学して二年間は陸上競技部に入って、走り幅跳び、走り高跳び、円盤投げ等をやっていましたが、だんだん戦争が激しくなり、クラブ活動も制限されて、もっぱら軍事教練に変わってしまいました。女学生でもゲートルを巻き、防空頭巾をかぶって「頭ー右」、「歩調取れ」の号令も勇ましく分列行進もしたり、両手に土の入った袋を持って走ったり、果ては砂袋を背負って何十キロも歩く耐久訓練もやらされました。そしてそれが終われば学校工場で研磨工に早変わり、鉢巻きをして仕事をし、時折の警報に防空壕へ飛び込み、いり豆をかじりながら解除を待つ、といった毎日で、辛い、いやなことばかりでした。そんなとき、生まれたときは私の顔を見に来なかったのですが、物心ついてからは一番私をかわいがってくれた父を失い、仕方なく疎開をし、半年ほどで終戦になり、また学校へ戻って来てからの生活は一変して苦しい中にも楽しいバレーボールの生活が始まったのです。 戦後、陸上競技は辞めてバレーボールに変わったのですが、当時の食糧難はひどく、朝はおかゆをすすり、昼は日の丸弁当を持って行き、一時は午前中で授業が終わることもありました。 しかし、その中でも練習が終わって帰り道に皆と甘い物を食べる楽しみ、自炊合宿で皆と相談しながら献立を作る楽しさ等があったおかげで続けられたのだと思います。いつかはこの努力が実を結ぶと信じて、おかげで第一回国体に出場でき、全国第四位、続いて翌年の第二回には準優勝まで行くことができました。 第三回の金沢での国体の時は、決勝戦で愛知県代表に三セットの末敗れ、くやし涙が止まりませんでした。合宿所へ帰っても泣き「うるさい!」と叱られて、また外へ出て電信柱に抱きついて声をあげて泣いたのを覚えています。そのときの記念写真を出してみると、泣きはらした皆の顔がそのときの気持ちを表していて懐かしく思うことがあります。そのときは女学校の五年生でしたから、今で言えば高校の一年に当たります。 大学時代の思い出と言ったら、この三本立ての忙しいことが先ず思い出されます。学校の経費、自分の食費、そして小遣いとを全部自分で出さなければならないのですから並大抵のことではありません。 専門科目の学校だけに授業もあまり抜けることができず、だいぶ苦労しましたが、それでも無事卒業できたときは、誰の助けも借りずに自分の力で大学を出たという誇りと自信を持つことができ、大学行きを認めてくれた母に感謝しているくらいです。
以上で私の十七年間にわたる学生生活は幕を閉じたことになりますが、振り返ってみると、一番思い出多い時代は大学時代と言えると思います。将来は教育者の立場に入るという責任感と真剣さのためおろそかにできず、しかもアルバイトをしていると人よりもすべての勉強が少なくなりがちなので、何とか追いつこうとする努力、実技などは放課後に残って練習したこともありました。 しかし、こう言うと本当に忙しくて遊ぶ間もなかったように思われますが「忙中閑あり」で暇を見つけてダンスを習ったり、映画を見たり、また人並みに恋もしましたし、友達と互いに悩みを語り合ったりもしましたから、経済的には苦労しましたが、精神的にはけっこう楽しかったことになります。ただ、自分の力で最後までがんばったという誇りと自信を持ったことは尊いことだと今でも思っています。 |
「青春記:三本立ての大学生活 小林年子」
- 1962(昭和37)年5月12日発行の「小山台新聞第35号」より「青春記」を以下に転載します。
小山台新聞 第35号「青春記:三本立ての大学生活 小林年子」 | |
東京は山の手の町の一隅で周囲の人々の期待を一身に受けて産声をあげたのですが、残念ながら私は女の子、しかも三人目の女の子だったので、父は「また女か」と言って私の顔を見にもこなかったそうです。おかげで私は小さい時から父の運動神経を受け継いで男の子のように振る舞い、暴れ回っても家の者は、あまりうるさくいいませんでした。 小学校のときの思い出は、もっぱらオテンバな思い出が多いようです。海へは毎年夏中家を借りて住みつき、泳ぎまくり、そして海岸を走り回り、待ちの黒んぼ大会にも出場したことがあり、また区の水泳大会では新記録を作って表彰されました。陸へ上がっては、運動会の徒競走はいつも一等賞、陸上競技のリレーでは神宮競技場で区代表として走ったこともあります。六年生のときには、健康優良児に選ばれたくらいですから、小さいときから私の体は体育向きにできていたのかもしれません。ですから私の学校生活の思い出は運動の思い出が多くあります。そんなことから女学校も運動の盛んな学校が良いというので桜町を選びました。桜町に入ってからは、戦争のいやな思い出と、戦後のバレーボールに明け暮れた思い出とがあります。入学して二年間は陸上競技部に入って、走り幅跳び、走り高跳び、円盤投げ等をやっていましたが、だんだん戦争が激しくなり、クラブ活動も制限されて、もっぱら軍事教練に変わってしまいました。女学生でもゲートルを巻き、防空頭巾をかぶって「頭ー右」、「歩調取れ」の号令も勇ましく分列行進もしたり、両手に土の入った袋を持って走ったり、果ては砂袋を背負って何十キロも歩く耐久訓練もやらされました。そしてそれが終われば学校工場で研磨工に早変わり、鉢巻きをして仕事をし、時折の警報に防空壕へ飛び込み、いり豆をかじりながら解除を待つ、といった毎日で、辛い、いやなことばかりでした。そんなとき、生まれたときは私の顔を見に来なかったのですが、物心ついてからは一番私をかわいがってくれた父を失い、仕方なく疎開をし、半年ほどで終戦になり、また学校へ戻って来てからの生活は一変して苦しい中にも楽しいバレーボールの生活が始まったのです。 戦後、陸上競技は辞めてバレーボールに変わったのですが、当時の食糧難はひどく、朝はおかゆをすすり、昼は日の丸弁当を持って行き、一時は午前中で授業が終わることもありました。 しかし、その中でも練習が終わって帰り道に皆と甘い物を食べる楽しみ、自炊合宿で皆と相談しながら献立を作る楽しさ等があったおかげで続けられたのだと思います。いつかはこの努力が実を結ぶと信じて、おかげで第一回国体に出場でき、全国第四位、続いて翌年の第二回には準優勝まで行くことができました。 第三回の金沢での国体の時は、決勝戦で愛知県代表に三セットの末敗れ、くやし涙が止まりませんでした。合宿所へ帰っても泣き「うるさい!」と叱られて、また外へ出て電信柱に抱きついて声をあげて泣いたのを覚えています。そのときの記念写真を出してみると、泣きはらした皆の顔がそのときの気持ちを表していて懐かしく思うことがあります。そのときは女学校の五年生でしたから、今で言えば高校の一年に当たります。 大学時代の思い出と言ったら、この三本立ての忙しいことが先ず思い出されます。学校の経費、自分の食費、そして小遣いとを全部自分で出さなければならないのですから並大抵のことではありません。 専門科目の学校だけに授業もあまり抜けることができず、だいぶ苦労しましたが、それでも無事卒業できたときは、誰の助けも借りずに自分の力で大学を出たという誇りと自信を持つことができ、大学行きを認めてくれた母に感謝しているくらいです。
以上で私の十七年間にわたる学生生活は幕を閉じたことになりますが、振り返ってみると、一番思い出多い時代は大学時代と言えると思います。将来は教育者の立場に入るという責任感と真剣さのためおろそかにできず、しかもアルバイトをしていると人よりもすべての勉強が少なくなりがちなので、何とか追いつこうとする努力、実技などは放課後に残って練習したこともありました。 しかし、こう言うと本当に忙しくて遊ぶ間もなかったように思われますが「忙中閑あり」で暇を見つけてダンスを習ったり、映画を見たり、また人並みに恋もしましたし、友達と互いに悩みを語り合ったりもしましたから、経済的には苦労しましたが、精神的にはけっこう楽しかったことになります。ただ、自分の力で最後までがんばったという誇りと自信を持ったことは尊いことだと今でも思っています。 |
年子先生の思い出
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脚注:
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2023年7月16日:直近編集者:Adminkoyama100
TimeStamp:20230716144700