1923年度 (大正12年度)
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できごと
- 1923(大正12)年春 青山師範学校(現東京学芸大学=赤坂区青山北町5丁目)内で東京府荏原郡平塚村小山東京府立第8中学校入学試験を行い志願者1,047名、入学許可者281名
- 1923(大正12)年4月8日 青山師範学校講堂で第1回入学式
- 1923(大正12)年4月15日 東京府青山師範学校教諭 岡田 藤十郎 本校校長ニ任ゼラル
- 1923(大正12)年4月16日 東京府荏原郡品川町三木尋常小学校(現品川区立三木小学校=品川区西品川3丁目)の校舎の一部を借用して授業が開始された(6学級)
- 1923(大正12)年5月10日所沢飛行場に遠足。
- 大正12年夏 校舎建設着工
- 大正12年9月1日の関東大震災では、さいわい被害がきわめて少なかったので、震災で焼け出された人々が移って住むようになり、しだいに田畑が住宅地に変わってきた
*当時府立中学校は創立順序に従って数字で校名を表わしていたので、本校は第7番目の現墨田川高校の次に創立されたため、「東京府立第8中学校」略して「8中」となった。
草創期の校風形成について
岡田初代校長は、とくに生徒の素質・個性の発揮・伸張を基調とする人格教育を理想とし、草創期の校風形成に大きなイニシアティヴを示し、新生8中の教育は大正デモクラシーの風潮をうけてリベラルな雰囲気のなかでのびのびと行われた。
1. 言心一致ヲ旨トシ、公明正大ニ行動スベシ
1. 自他ノ人格ヲ重ンジ、自治ノ良習ヲ養フベシ
1. 礼儀ヲ守り廉恥ヲ重ンジ、常ニ快活ノ気概アルベシ
〔学校のしつけ(校友会雑誌1号所載)〕
また、学習指導の特色は「練習」をくり返して学習成果の向上を図り、成績の評定を上・中・下の3段階とし、これを総合して学年成績は「甲乙丙丁」で表した。
教科
1901年(明治34)年の中学校令施行規則に基いて8中が最初に定めた学科目は修身、国語及び漢文、英語、歴史、地理、数学、博物、物理及び化学、法制及び経済、図画、唱歌、体操の12科目であった。
修身は現在の倫理社会に相当するが、教育勅語の精神に基いて道徳を教え、国家、社会及び家族に対する責任と人格の修養に関し必要なことを学ばせるのを目的とした。
各学科の学期成績は3等に分けて上中下の評語をもって優劣を示し、学年成績は甲乙丙丁の4等に分けて評価した。しかも、修身、体操、唱歌の3科目は成績を表示しなかった。
修身は各自が日常実践躬行を主とし、体操は健康保持のために、音楽は情操を養うためあることを生徒に自覚させればよいのであるとした。
各学年の課程の修了、卒業には各学科目乙以上を及第として、その他を落第としたが、全科目の3分の1までは丙の成績であっても修了、卒業を認められた。
制服
8中の制服は紺ヘル(毛織地の一種)の海軍用の服地で、折返しの襟と袖口に黒蛇腹のライン(袖口には「八」の字の山型に入れる)の入った当時としてはモダンなもの。
開校当初岡田校長が発案し、教師の幹部会によってきめられた。しかし実際に着用されたのはその年の6月かららしい。
その当時の事情について、8中校歌作詞者で国語科教諭であられた臼杵東嶼先生は次のように語っておられる。
「制服についての発案者は校長で、当時の中学は公私立を問わずみな詰襟服で、折返しの襟服は8中が初めてではなかったでしょうか。制服については幹部会
(奏任待遇の教諭数名にて構成)に諮られたように思います。当時としては進歩的ムードの制服ですが、みなこれに異論はなかったようです。
実際に着用したのは大正12年6月からと思います。それまでは皆筒袖の着物に袴をはいて通学し勉強していました」
夏服は小倉木綿の霜降地で別に作られ、5月下旬から9月末日まで用いられた。
襟章は右襟に学年、左襟にクラスを表わすように付けた。外套、マント、靴、ゲートルに至るまで制定されていた。制帽は黒ラシャの1高型で、前に桜の帽章をつけ、夏は白のカバーをつけて着用した。
教職員
学芸会
関連項目
*← 1922年度 (大正11年度) *→ 1924年度 (大正13年度)
脚注
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2023年6月11日:直近編集者:SGyasushi
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