1934年度 (昭和 9年度)
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1934(昭和9)年度
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できごと | 詳細・引用・寄稿 |
4月 2日 始業式 4月 3日 入学式(中12回生) 4月XX~XX日 9月 1日 始業式、伊藤教諭退職告別式 1月 1日 四方拝拝賀式挙行 |
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世 相 | |
6月1日 文部省に思想局設置 |
できごと[2]
- 1934年
- 4月 「中12回生」入学式
- 9月 1日 始業式、伊藤教諭退職告別式
- 9月 8日 水泳大会、授業第2時限まで
- 9月10日 本日より時間割7月以前通りに復帰
- 9月15日 校友会水泳本日にて終了
- 9月23日 朝礼の際新任高橋教諭の紹介あり
- 9月30日 神宮プールに於て東京府体育協会の水泳大会挙行、本校生徒も競技に参加
- 10月 1日 第五学年千葉歩兵学校見学
- 10月 5日 3、4、5年学芸会
- 10月 6日 1、2年学芸会
- 10月10日 第五学年旅行第1日 富士五湖・興津
- 10月11日 以下の通り遠足・旅行。1年 長瀞、2年 多摩御陵・高尾山、3年旅行第1日 日光、4年旅行第1日 富士五湖・大宮[3]、5年旅行第2日 興津・久能山・静岡・箱根底倉、3,4,5年旅行不参加者遠足(三崎、油壺、久里浜)
- 10月12日 以下の通り野外教練・旅行。1、2年野外教練、3年旅行第2日 日光・中岩、4年旅行第2日 大宮・韮山・修善寺・伊東、5年旅行第3日 箱根・ 十国峠・熱海・帰京、3,4,5年旅行不参加者見学 東京中央電話局、満蒙資源館
- 10月13日 以下の通り見学・旅行。1年 東京科学博物館、2年 植物園、3年 野外教練(飯盒炊事)、4年 旅行第3日 伊東・熱海・帰京、5年 野外教練(第三聯隊にて狭窄射撃[1])、4年旅行不参加者授業
- 10月15日 本日より多摩川運動場使用
- 10月28日 運動会挙行
- 10月30日 教育勅語奉読式挙行
- 11月 1日 東京府主催明治神宮祭奉祝体育大会に参加、全校見学
- 11月 3日 明治神宮参拝
- 11月 7日 明治神宮奉拝式に参加
- 11月 8日 本日より秋季身体検査を行う
- 11月10日 朝礼後朝礼場にて「国民精神作興に関する詔書[4]」奉読式
- 11月16日 午後武道大会挙行
- 11月18日 保証人会
- 12月 1日 放課後防火演習を行う
- 12月 3日 4、5年模擬試験(英・国・漢)
- 12月 4日 模擬試験(数学)
- 12月12日 教練査問
- 12月24日 終業式
1935年
- 1月 1日 四方拝拝賀式挙行
- 1月31日 第四学年生狭窄射撃[1]演習
- 2月 4日 入学願書受付第1日
- 2月11日 紀元節式挙行
- 2月11日 ムーン先生青山通に於て自動車にて負傷、赤十字病院に入院
- 2月13日 午前6時30分ムーン先生逝去
- 2月15日 青山学院高等科講堂に於てムーン先生の葬儀行わる、職員及び生徒の代表者参列
- 3月 2日 第五学年授業終。午後0時30分より講堂に於て卒業生送別謝恩会開催
- 3月 8日 卒業式 中8回生(男子206名)
- 3月10~13日 入学考査施行
- 3月14日 入学者発表
- 3月23日 終業式
世相
- 1934年
- 6月1日 文部省に思想局設置
- 12月3日 ワシントン軍縮条約廃棄を米国に通知
- 流行語-司法ファッショ
- 流行歌-赤城の子守歌
英語の授業があった
そろそろキナ臭くなりつつあった時代、今考えればもう太平洋戦争の序曲は始まっていて、どの府立でも海兵、陸士と気負い立っている時代に、八中は他とは違った独自の教育をしていたように思う。音楽の時間が普通一年で終わりなのに八中は三年迄あった。図画の時間も何年迄か覚えていないが麻生先生ともう一人おられたように記憶する。絵も好きだったのでどっちにしようかと迷った時期もあった。また英会話の時間があってミス・ムーンというおばさんが教壇に立たれていた。外国語が好きになって今でも英語に不自由しないのもこの時間のせいかも知れぬ。
こういった独自の教育はその時こそ別に深くは考えもしなかったが、今になって名校長といわれた岡田藤十郎先生の時流に溺れない自由主義的な教育方針に改めて深い敬意を表せざるを得ないのである。
(黒沼俊夫 中8回「創立60周年記念誌」P112)
アメリカ帰りの先生
中学三年の頃、アメリカ帰りで、洋書を小脇に抱えて教室にこられる新進気鋭の先生がおられた。当時の我が八中は、自由でのんびした校風で、「常に快活の気概あるべし」、万事につけ活発この上なかった。
他の先生は特に文句を言われなかったが、その先生はある日、「あちらの生徒は静かに先生の来るのを待っている。あちらではストーブではなくスチーム暖房で、暖かい教室で先生も生徒もアイスクリームを食べている。教室もこんなに穢(きたな)くない……」など言われた。頭にきたので次の授業の日我々は、黒板と教壇の机の上を水浸しの雑巾で拭き、シーンとして待っていた。入ってこられた例の先生はそれをチラリと見ていやな顔をしたが、叱りもせず窓際に寄り掛かりながら講義をされた。我をとしては叱られた時の答弁も用意していたのであったが……。
後日、音楽の松井先生が、「誰だ、この前いたずらしたのは!職員会議にでたぞ」と教えてくれたが、ニコニコして、それ以上は追求もされなかった。松井先生は、いわゆる八中型の情味のある先生で、現在でも我々同期のクラス会には御出席いただいている。
アイスクリームといえば、当時大井の田舎に住む我々にとっては高級品であって、三又通りの「みやこ」という喫茶店で、夏しか食べられなかった。値段は確か二五銭。また、各家庭では火鉢で暖をとっていて、ストーブを使っていた家庭など殆どなかったのではないだろうか。
(久能木武四郎 中8回「創立60周年記念誌」P112)
学芸会
- 10月 5日(金) 3、4、5年学芸会
- 10月 6日(土) 1、2年学芸会
- 開会挨拶
- 閉会挨拶
「校友会雑誌 第11号」
- 「校友会雑誌 第11号」は、現在探索中です。
「八桜会 通信」
- 1935(昭和10)年3月8日卒業の「中八回生」が1997(平成9)年8月20日に「八桜会 通信_1997_平成9年」を発行されています。
関連項目
*← 1933年度 (昭和 8年度) *→ 1935年度 (昭和10年度)
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 室内もしくは狭隘(きょうあい)な射場で行なう射撃。装薬を少なくして狭窄射撃用に作られた狭窄弾を用いる。
- ↑ 第二学期以降については、「校友会雑誌 第12号」P327からの校誌抄から転記しました。
- ↑ 「大宮」および「村山」はそれぞれ富士山信仰の中心地であり、登山口を有する地であった。それぞれ「大宮口」「村山口」があり、総称して「大宮・村山口登山道」と言う。大宮の東北に村山が位置し、その北に富士山が位置する。
- ↑ 関東大震災直後の1923(大正12)年11月10日に出された詔書で、教育勅語と戊申詔書の流れをひき、当時の社会的・思想的激動に対して国民精神の振興を呼びかけたもの。第1次大戦以降大正デモクラシーの思想が広がり、震災直前には第1次共産党検挙が行われるという動きの中で、この詔書は「浮華放縦ノ習、軽佻詭激ノ風」と激しい語調で非難し、「質実剛健・醇厚中正」に立ち返り、国家の興隆を図れと国民を戒めた。
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2025年1月13日:直近編集者:Hosamu
TimeStamp:20250113121233