江戸時代の小山
江戸時代の小山は幕府の直轄領
小山村は江戸時代に近隣の大井村、中延村、上・下大崎村、桐谷村と共に徳川氏の直轄領であり代官が支配していた。
目黒川の沿岸には、せまいながらも一帯に水田が開け、武蔵野原にはめずらしし、米産地だったといわれる。
一方目黒区碑文谷あたりから流れる小川に、品川用水のあまり水が落ちていた立会川のため中延あたりは早く開けたようである。
学校の北を東南に流れる品川用水は元禄4年(1691)に幕府の命でつくられたもので、用水は多摩郡境村で多摩川の水を分水して流し、戸越村で二つにした。一つは桐ヶ谷・大崎の村を流れ品川町付近で目黒川に落ち、もう一つは中延村を経て立会川に落ちていたかんがい用水である。
(「五十周年」小山台高等学校50周年記念誌)
明治時代の小山
明治時代は平塚村大字小山
大政奉還後、将軍直轄領は新政府の直轄地となり、府県が置かれた。このとき品川は武蔵県となったが、 明治2年(1869)に武蔵県は廃止され品川県となり小山はその中にはいった。
明治4年、品川県は廃止され、改めて東京府が設置され品川は東京府にはいり、小山は東京の一部となった。
明治21年に施行された町村制により品川宿6ヵ村は品川町となり、大崎5ヵ村に今の白金猿町の一部が合併して大崎村、大井地区は大井村、荏原5ヵ村は平塚村となり、1町3ヵ村の品川地区ができあがり、小山は平塚村大字小山となった。
(「創立XX周年記念誌」PYYY)
小山という地名の由来
江戸時代の郷名帖には仮名で「ヲヤマ」とあるらしい。やがて多摩川筋の「ヲヤマ」(尾山)とまちがわぬよう当方は小山と当て字して「コヤマ」 と呼ぶようになったかと思う。小山本通りに近い三谷八幡は、元禄のころに小山八幡社から分かれたという。
すなわち新編武蔵風土記稿には「元禄の末小山村高269石余り、以前は50石許り」とある。
元禄ごろに人口急増、経済力も増大したので新開地の三谷に新しく八幡社を分けて小山八幡となった。
立会川と目蒲線が交叉するところに西小山駅と商店街がある。この付近は小山田圃とよばれた水田があって、ここが小山集落の発祥地らしい。
地名も字本村と呼ばれた。駅の南方3,4分の所に洗足方面の岡の一角がつきでて川にのぞみ、その上に矢幡社が祀られ、小山八幡(別名本村八幡)といわれる。
(40周年誌・都築秀徳氏稿より)
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