トーク:1937年度 (昭和12年度)

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
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岡田校長は昭和十二年十一月退職、後任に府立第二中学校長であった中島嘉之吉先生が補せられた。先生も頭脳明断で政治的才能を備え、力で推し進めるという風の人柄であった。国家主義・軍国主義の盛んであったせいもあり、質実剛健を標榜し、個人尊重よりも団体の規律・秩序を重視し、鍛錬主義の教 育が行なわれた。 そして上級進学に力を入れ、実力考査や定期試験を行ない、 成絞も学年末には中央の示す秀・優・良・可・劣で示したが、 平素は素点で表わし、言わば一点一分を争わせるようなやり方 をせられた。もともと素質の優れた八中生のこととて、その成