高輪 休郎

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
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高輪 休郎 先生 (中1回卒業アルバム)

高輪 休郎(たかなわ よしろう、19XX年XX月XX日 - 19XX年XX月XX日)は、日本の教育者。府立第八中学校 数学教諭

本校歴

1925(昭和14)年 5月15日 府立八中数学教諭として赴任
1942(昭和17)年 7月 都制施行により、東京都立第八中学校と改称
1948(昭和23)年 4月 1日 学制改革(新制高等学校制度)により、東京都立第八新制高等学校となる
1950(昭和25)年 1月28日 校名を東京都立小山台高等学校と改称
1960(昭和20)年 3月31日 都立小山台高校を退任




関連項目

着任:1925年 5月15日
退任:1960年 3月31日



記事

報国団雑誌 第19号 153 教師ぶら下がり取材 秋晴れの八各塔03

高輪先生<数> 趣味はまあ古本屋探しかな。雑誌に出すのならこれくらいで勘弁してくれよ。



追想-岡田藤十郎先生

40周年記念誌_P36_37_高輪休郎_追想岡田藤十郎先

【草創期】追想-岡田藤十郎先生   高輪休郎

=試験を廃して練習に=
岡田先生は本校校長15年、私は本校教諭35年、岡田先生については書くことがいっぱいあり、私には何もない。不徳の致す所などとは思っていない。これで好い。めでたさも中位である。 先生は平塚橋先に住んで居られ、今のアーケード街を歩いて通われたが、まだ畑の中の一本道で、夜は堤燈をつけて通行された。先生の温顔、丸く太った姿を生徒は「タヌキ」と綽名した。 生徒は完全に平等で、上に級長だの委員はいない。仕事は輪番であたるものである。特定の生徒を賞することもしない。例えば運動会に1等、2等はあるが、1等賞、2等賞はなかった。運動会は誰でも使えるように、少数で広い場所を占領する野球などは禁止された。みな平等一様の精神であります。 人格尊重も躾の重要な題目で、生徒を呼ぶにも必ず敬称をつけ、号令で敬礼させるのは侮辱として禁じられた。生徒はめいめい立って礼をし、その際、顔を見て地面を見るな、と注意されました。 先生は運動では水泳を理想的とし、夏になると午後の授業をやめ、電車で他所のプールや川に生徒を連れて行ったが、遂に校内プールを設け、夏休みには早くから来て生徒の泳ぐ様を見て居られた。プールの建設費はどう賄われたのか、私は下っ端であったためはっきり記憶してい居りません。 岡田教育の鮮明な特色の一つは試験を廃して練習に代えたことである。世にいう試験と考査の合言葉ではない。試験は一遍勝負、練習は繰り返しがきく、出来る迄何度でもやらせ、最後に上になったら成績は上とした。だから学期成績が下ということは、教師が練習をサボった疑いがあり、「余り下をつける先生はやめて貰う」と脅かされました。 成績評価は最も単純で、上中下の三つである。「7点と8点の差はわからぬが、良い悪い中くらいの区別はつくものだ。百点法が精密だと考えてる頭はおかしい」と笑われた。学年成績は甲乙丙丁で表し、学期成績と睨み合わせて次のようにした。之を狸算という。乙以上が及第で、その他は進級会議にかかった。こうして本校の誇りとするところでした


=のびのびした教育を=
先生の校長としての晩年は誠に不遇であった。満州国が誕生し、軍部は欲する所を行い、学校へ将校を派遣し、将校は訓練、躾に干渉した。先生は生徒を愛すること異常なものがあったから、内田辰雄大尉が着任すると、本校の人格尊重、体罰禁止、生徒に警鐘をつけて呼び、敬礼には号令を用いない等々の校是を説明したが、配属将校をしてこれに従わしめることは、猿に人道を解くよりも難しかった。 さすがのワンマン校長も、軍には歯が立たず、傍観をもってひそかに反抗したが、協力しない廉により、配属将校引き上げの噂もとんだ。自由や平等は洗い浚い影を潜めて行き、岡田先生の住む世の中ではなくなって、健康を害され、2.26事件の翌年に本校を去られたが、退職の事情を私はよく知りません。 岡田先生は平素こう言って居られた。「中学教育は進学のみを目的とするものではない。一年早く教育して十年早く死なすより、一年晩く世に出して十年長く働かす方が、本人のためにどれ程幸福かわからない。府立に一つ位、のびのびした教育をする所があっても良くはないのか。」 正に至言であります。 先生は父母の容喙を嫌い、保護者会等を設けず、経済的支援を仰がなかった。一体に職員には冷淡で何の厚生の手も打たなかった。部下をたいせつにしなかったのは先生一生の誤りで、この点では周囲の心服を得られませんでした。 以上は先生の仕方の大体であるが、その意図は俗流を擢ん出たものであった。惜しいことに衣鉢を継ぐ可き人を得ず、二代目校長中島嘉之吉君は生徒の受験風景を「秋の木の葉の散る如く」と冷評、「旧来の陋習を破る」と吾々を陋習扱いにし、三代目校長岩本実次郎君は曽っての岡田側近で、与望を担って登板したが、口に岡田ビジョンを讃えながら歩みは名門校の驥尾に付き、四代目校長斎藤清君に至っては進学一本、押しの一手で、建学の精神など顧みもしなかった。かくして小山台は柄が悪いと囁かれ、学園の品位、徳性高揚の責めは、あげて五代目校長上原好一先生の双肩に託されたのであります。 思うに創立校長岡田先生の教育に関する信念が名門校の目標と対蹠的なることは先生平素の言動に明らかで、このような秀でた独特の構想は、公立校にその後継者を得ること至難の運命にあった。本当の教育の道は果たして何れなりとするか。岡田教育を受けた本校三千の卒業生に聞いてみたい。 (旧職員・現本校講師)



関連事項

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脚注: ・

2024年8月4日:直近編集者:Teisaku
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