「数学科」の版間の差分
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松井:戦争が始まった年に生まれました。小山台高校は、1985年4月から2002年3月まで17年間お世話になりました。担当は数学です。桜町、練馬、赤城台と20年間で20年目で小山台に来て、43から60まで、そして定年退職しました。その後、嘱託で新宿で5年過ごしました。小山台の着任式・始業式は、旧体育館で行いました。ガタガタしていました。その時に定年制が導入され、60以上の先生方は退職なかったので、奥野先生が75歳、不島先生が65歳、斉藤先生が65歳、児玉先生が60歳で、数学科では4人が退職されて、関先生が50になるかならないか。私が43歳で吉沢先生が42歳で田辺先生が30代の若手で、数学科は全く半分入れ替わって、大変な時でした。 | |||
それから運動会が、3年ほど校舎の改築のため校庭が使えなかったので3年ぶりに復活しました。団長をやったことがない、見たこともない生徒が団長になったので、卒業生が手とり足とり指導をなさって・・・、その運動会が私が高校(武蔵丘高)でやっていたと同じような競技をやっているので、びっくりしました。棒倒し騎馬戦、本当に昔のまんまの騎馬戦と棒倒しだったので、大変びっくりしましたね。(他の高校ではやってなかったですか?)その頃はだんだん競技主体になっていたということだと思います。 | |||
それから2年くらい経ってから「ウルトラB」というのを小林日忠先生という。教育大学でオリンピックの候補になったくらいの方が来て、その方が「ウルトラB」という。80周年誌にも90周年誌にも説明が書いてあったんですが体操を主体とした種目です。そのこの「ウルトラB」がちょうど流行っていたということなので。なかなか何度の高いやつなので、前転後転バック転やすごいものでしたね。それから増脚といって、面白い競技だったのを覚えています。(あれはありましたね、昔からね。)一本足からね。ケンケンやって、一人で二人で三人でだんだん増脚して10人でしたっけ、すごかったです。(あれは練習をちゃんとやったところが強かったですよね。練習結果が出る。) | |||
小山台の運動会は80周年にもよく書いてあったんですけど、練習しないと絶対ダメで、しかも期間が限られていたので、結団式して2週間くらいで、完成させないとダメだと。 | |||
班活動は、ワンダーホーゲルで8年間やって、私の後増田先生が。(ワンゲルは大変だったんじゃないですか?)私が来た2年前くらいに、リーダーが合戦小屋のところで亡くなったという大変なことがあって、その時の顧問の松野下先生が随分警察に取り調べを受けたというのを聞きました。何年か経って、追悼山行で、槍ヶ岳に行って合戦小屋を降りてきたというようなこともしました。 | |||
玉川:昭和59年から60年1年間だけここでお世話になったんですけれども、私は高校29期の卒業生です。小山台生当時は小山台丁目に住んでいたので、朝ドラが始まったくらいに家を出るくらいでした。父も八中、おじは高4期なんです。 | |||
なんで私が1年間勤務したかというと、高校卒業後、順天堂大学大学を卒業した後、大学院に行ったんです。けれども大学院の2年間は中央大学付属杉並高校というところで非常勤講師を週に1日2コマぐらいやっていて、大学院を修了してその先就職先がなかったので研究生をやることになっていたんです。3月に卒業して3月の末に体育科の安倍先生から急遽電話がかかってきて、非常事態だと言うんですよ。18時間持ってくれないか、と。私も研究生になるということで研究生の仕事もあるし。18時間というのは持てないだろうと思ったんですけど、安倍先生が非常事態だと何とかしてくれということで、(何があったんですか?) それは分かりません。(笑) ただ私は教員採用試験も受けていないし、本当だったら18時間あきができればA採用じゃなくて、B採用だとかそういった人たちから取ってくればいいはずなんだけど、そういうことをしないで私のところに緊急事態だから来てくれと。週18時間を担当するのに1日6時間、週3日に割り振ってもらったんです。6、6、6。あとの3日間は大学に行ってという仕事にして、1年間だけお世話になりました。3月も末にそういう状況だったから、時間割りを組み直すのもかなり大変だったと思います。私をとにかく1時間目から6時間目まで入れなきゃいけない。大変な作業だったと思うんですけど、とにかく1年間やらせていただきました。その時、広瀬君が今いるんだけど、2年生で来て、とにかく1年間バタバタと、とにかく授業をこなすということだけに専念したようなものですね。あとは1時間目から実技があることがないので保健の授業をやって、着替えてグラウンド行って、場合によっては体育館に行って、時にはプールに行って、小山台は授業をするとき、こういう格好じゃダメなんですよ。ネクタイして行けって言われるわけですよ。ですから、保健の授業をやるときには着替えてネクタイして行くんですよ。まあ慌ただしかったですね。1年間、恩師の体育館の先生たちがいるし、心強い部分もあるんですけど、下手はできないということで、ひっしに授業をこなした。こなしたと言うんですけども、高校の時にお世話になった先生たちの真似をしていたという部分が大部分だったと思います。とにかく八中だとか小山台というのが私の中に染み付いているので、なんとか後輩たちにつながりを伝えられればいいかな、というような気持ちで授業をしていたかな。(ご自分が高校生でいらっしゃったときと先生になって来られたときに小山大高校の違いを感じられましたか?) 大きくは感じなかったですね。やっぱりその縦のつながりというのはちゃんと持っていてくれて、なんとなく、生徒たちも先輩だからというふうに見てくれていたから、なんとかやって来られたんだなと思います。 | |||
山崎:私は平成22年の4月から26年の4年間校長でした。世界史担当だったので、夏休みだけ講習をやらせてもらって、それが一番楽しかったです。小山高校に来る前は大泉桜高校という新設校で校長をしていて、その前も新設校で校長をしていて、新しい学校を渡り歩いて来ので、小山台高校がもうできあがっている学校だったので、さて私は何をすればいいんだろう、という。新設校って校長がリードを取らないとなかなか進んでいかないので、ちょっとゆっくり構えようかな、と思っていたんですが、ちょうどいろんな指定を受けている時期で、進学指導何とか校とかスポーツ何とか校とか受けている時期なので、そういうのを活発にしなければいけないなという思いはあったんですけど、来て直後は落ち着いた学校だなというのと、聞いていたのと、わりとおとなしいかな、と瞬間思ったんです。(聞いていたというのはどういう意味ですか?)すごい運動会があっていろいろ活発な学校だと聞いていたんですけど、直後に着いてみると落ち着いた学校だなと思ったんです。行事が始まってくるとそういうことなんだって。要するに長くつながっていることが自然にできていくので、生徒たちはそんなに慌てて何かするという感じでなくて落ち着いていて。なので、ポテンシャルの高い生徒がたくさんいる学校だな、というのが最初の印象でしたね。ただいろいろその前、何年か生徒が亡くなったりとか、その処理が残っていたりしたので、そこだけやらなければいけないかなと思いましたけど、あとはですね。在任中はなにせ、とにかく甲子園に行ったことが一番大きな思い出じゃないですかね。記憶としてはあの年はですね。もう最後だと分かっていたので、私が。90周年だったんですよ。90周年をやって終わったのに、またゆっくりしようと思ったら急に甲子園に行ってしまいました。最後までバタバタバタバタという感じで過ごしましたね。ですから、記憶に残る生徒というのは、特に僕は担任をもったりとかということはなかったので、やっぱり甲子園に行った時の学年の生徒たちというのはなんだかんだで、バスに行きましたね。ガンガンツアーみたいなやつですね。そうですね、ゼロ博にガチャッと行きましたね。夜ずっと生徒と喋ったりとかもあって、そういうのが起こっている生徒たちという感じですかね。その子たちはちょうど僕4年間しかいなかったものですから1年目に来て中学生のこれ僕募集をやらないとすごくその通り、ちょっと倍率が下がっていて、これは何とかしないといけないなと思って募集対策というので、あちこち中学生もめちゃくちゃ待ったんですよ。一人で、そういうところで入ってきた生徒だったので、その子たちが卒業するぐらいまでの間はすごく個人性が良いと思います。クラス替えとか同期会は年をためながらないので、そういうところ一番感じたのはさっき、生徒にポテンシャルがあるというふうに思ったんですけど、先生たちも、ものすごく力のある先生が多かったんですよなんですが、あんまり派手に宣伝するとか思っている家の子供の生き方が多かったようで、子供の中で止まらないという、そこをすごく認識されている人が多かったので、外から見るとちょっと入りにくい感じなのかなと思ったので、少し広げていかなきゃ、同等会もすごくしっかりしていました。びっくりしましたけど、こんな役があるんだという。最初に言われたのがなんかこんな感じで酔っ払っての話かもしれないですけど、先生、何十年も東大が出てないんだ。甲子園に出したいって言われた。それから卒業生からノーベル賞を出したいんだって言われたんですけど、卒業生のノーベル賞は私の範疇じゃないんですよ。(まあそうですね。私の勘中じゃないからいや、これからってことだよ)勘中じゃないのででも結局ね。私の卒業が最後の時に卒業した生徒。東大17年ぶりの東大に引き換えまして甲子園に出て約束を果たしたかなと思って終わることができ、楽しく過ごさせていただいた4年間だったなと思っています。 |
2023年11月16日 (木) 17:43時点における版
「大人の寒菊祭」ワークショップ~子や孫に教えたい数学の面白さ~
令和5年9月17日(日)にワークショップ等に参加された方のために当日の資料を掲載しました。
数学科要覧
- 数学科では、1957(昭和32)年から、年度末の3月にその年の「考査問題集」を作成している。
- 1960(昭和35)年度までは「考査問題集」という名称で継続して発行していた。
- 翌年1961(昭和36)年度からは、翌年度の授業計画も盛り込んだ「数学科要覧」という形で作成を開始した。
- そこで、年度も翌年度を意識した形で「1962(昭和37)年度 数学科要覧」となった。
- (残念ながら、昭和44年度までの資料しか残っていません!)
最初に、1年生用のテキストを見てみてください!
夏期講習用テキスト(1年数学)
「夏期講習用テキスト(1年数学)」全文
- 以下のリンクから「夏期講習用テキスト(1年数学)」全文をご覧いただけます。
- 「夏期講習用テキスト(1年数学)」PDFファイルへのリンク
1957(昭和32)年度考査問題集
「昭和32年度数学科考査問題集」全文
- 以下のリンクから「昭和32年度数学科考査問題集」全文をご覧いただけます。
- 「昭和32年度数学科考査問題集」PDFファイルへのリンク
1958(昭和33)年度考査問題集
「昭和33年度数学科考査問題集」全文
- 以下のリンクから「昭和33年度数学科考査問題集」全文をご覧いただけます。
- 「昭和33年度数学科考査問題集」PDFファイルへのリンク
1959(昭和34)年度考査問題集
「昭和34年度数学科考査問題集」全文
- 以下のリンクから「昭和34年度数学科考査問題集」全文をご覧いただけます。
- 「昭和34年度数学科考査問題集」PDFファイルへのリンク
1960(昭和35)年度考査問題集
「昭和35年度数学科考査問題集」全文
- 以下のリンクから「昭和35年度数学科考査問題集」全文をご覧いただけます。
- 「昭和35年度数学科考査問題集」PDFファイルへのリンク
1962(昭和37)年度版数学科要覧(付36年度考査問題)
「昭和37年度数学科要覧」全文
- 以下のリンクから「昭和37年度数学科要覧」全文をご覧いただけます。
- 37「昭和37年度数学科要覧」PDFファイルへのリンク
1963(昭和38)年度版数学科要覧
「昭和38年度数学科要覧」全文
- 以下のリンクから「昭和38年度数学科要覧」全文をご覧いただけます。
- 「昭和38年度数学科要覧」PDFファイルへのリンク
1964(昭和39)年度版数学科要覧
「昭和39年度数学科要覧」全文
- 以下のリンクから「昭和39年度数学科要覧」全文をご覧いただけます。
- 「昭和39年度数学科要覧」PDFファイルへのリンク
1965(昭和40)年度版 数学科要覧
「昭和40年度数学科要覧」全文
- 以下のリンクから「昭和40年度数学科要覧」全文をご覧いただけます。
- 「昭和40年度数学科要覧_掲載用」PDFファイルへのリンク
1966(昭和41)年度版 数学科要覧
「昭和41年度数学科要覧」全文
- 以下のリンクから「昭和41年度数学科要覧」全文をご覧いただけます。
- 「昭和41年度数学科要覧_掲載用」PDFファイルへのリンク
1967(昭和42)年度版数学科要覧
「昭和42年度数学科要覧」全文
- 以下のリンクから「昭和42年度数学科要覧」全文をご覧いただけます。
- 「昭和42年度数学科要覧_掲載用」PDFファイルへのリンク
1968(昭和43)年度版数学科要覧
「昭和43年度数学科要覧」全文
- 以下のリンクから「昭和43年度数学科要覧」全文をご覧いただけます。
- 「昭和43年度数学科要覧_掲載用」PDFファイルへのリンク
1969(昭和44)年度版数学科要覧
「昭和44年度数学科要覧」全文
- 以下のリンクから「昭和44年度数学科要覧」全文をご覧いただけます。
- 「昭和44年度数学科要覧_掲載用」PDFファイルへのリンク
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- 【高28 3G担当者メールアドレス】nagaya@msi.biglobe.ne.jp ながや
脚注:
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2023年11月16日:直近編集者:NJyasuo
TimeStamp:20231116174340
松井:戦争が始まった年に生まれました。小山台高校は、1985年4月から2002年3月まで17年間お世話になりました。担当は数学です。桜町、練馬、赤城台と20年間で20年目で小山台に来て、43から60まで、そして定年退職しました。その後、嘱託で新宿で5年過ごしました。小山台の着任式・始業式は、旧体育館で行いました。ガタガタしていました。その時に定年制が導入され、60以上の先生方は退職なかったので、奥野先生が75歳、不島先生が65歳、斉藤先生が65歳、児玉先生が60歳で、数学科では4人が退職されて、関先生が50になるかならないか。私が43歳で吉沢先生が42歳で田辺先生が30代の若手で、数学科は全く半分入れ替わって、大変な時でした。 それから運動会が、3年ほど校舎の改築のため校庭が使えなかったので3年ぶりに復活しました。団長をやったことがない、見たこともない生徒が団長になったので、卒業生が手とり足とり指導をなさって・・・、その運動会が私が高校(武蔵丘高)でやっていたと同じような競技をやっているので、びっくりしました。棒倒し騎馬戦、本当に昔のまんまの騎馬戦と棒倒しだったので、大変びっくりしましたね。(他の高校ではやってなかったですか?)その頃はだんだん競技主体になっていたということだと思います。 それから2年くらい経ってから「ウルトラB」というのを小林日忠先生という。教育大学でオリンピックの候補になったくらいの方が来て、その方が「ウルトラB」という。80周年誌にも90周年誌にも説明が書いてあったんですが体操を主体とした種目です。そのこの「ウルトラB」がちょうど流行っていたということなので。なかなか何度の高いやつなので、前転後転バック転やすごいものでしたね。それから増脚といって、面白い競技だったのを覚えています。(あれはありましたね、昔からね。)一本足からね。ケンケンやって、一人で二人で三人でだんだん増脚して10人でしたっけ、すごかったです。(あれは練習をちゃんとやったところが強かったですよね。練習結果が出る。) 小山台の運動会は80周年にもよく書いてあったんですけど、練習しないと絶対ダメで、しかも期間が限られていたので、結団式して2週間くらいで、完成させないとダメだと。 班活動は、ワンダーホーゲルで8年間やって、私の後増田先生が。(ワンゲルは大変だったんじゃないですか?)私が来た2年前くらいに、リーダーが合戦小屋のところで亡くなったという大変なことがあって、その時の顧問の松野下先生が随分警察に取り調べを受けたというのを聞きました。何年か経って、追悼山行で、槍ヶ岳に行って合戦小屋を降りてきたというようなこともしました。 玉川:昭和59年から60年1年間だけここでお世話になったんですけれども、私は高校29期の卒業生です。小山台生当時は小山台丁目に住んでいたので、朝ドラが始まったくらいに家を出るくらいでした。父も八中、おじは高4期なんです。 なんで私が1年間勤務したかというと、高校卒業後、順天堂大学大学を卒業した後、大学院に行ったんです。けれども大学院の2年間は中央大学付属杉並高校というところで非常勤講師を週に1日2コマぐらいやっていて、大学院を修了してその先就職先がなかったので研究生をやることになっていたんです。3月に卒業して3月の末に体育科の安倍先生から急遽電話がかかってきて、非常事態だと言うんですよ。18時間持ってくれないか、と。私も研究生になるということで研究生の仕事もあるし。18時間というのは持てないだろうと思ったんですけど、安倍先生が非常事態だと何とかしてくれということで、(何があったんですか?) それは分かりません。(笑) ただ私は教員採用試験も受けていないし、本当だったら18時間あきができればA採用じゃなくて、B採用だとかそういった人たちから取ってくればいいはずなんだけど、そういうことをしないで私のところに緊急事態だから来てくれと。週18時間を担当するのに1日6時間、週3日に割り振ってもらったんです。6、6、6。あとの3日間は大学に行ってという仕事にして、1年間だけお世話になりました。3月も末にそういう状況だったから、時間割りを組み直すのもかなり大変だったと思います。私をとにかく1時間目から6時間目まで入れなきゃいけない。大変な作業だったと思うんですけど、とにかく1年間やらせていただきました。その時、広瀬君が今いるんだけど、2年生で来て、とにかく1年間バタバタと、とにかく授業をこなすということだけに専念したようなものですね。あとは1時間目から実技があることがないので保健の授業をやって、着替えてグラウンド行って、場合によっては体育館に行って、時にはプールに行って、小山台は授業をするとき、こういう格好じゃダメなんですよ。ネクタイして行けって言われるわけですよ。ですから、保健の授業をやるときには着替えてネクタイして行くんですよ。まあ慌ただしかったですね。1年間、恩師の体育館の先生たちがいるし、心強い部分もあるんですけど、下手はできないということで、ひっしに授業をこなした。こなしたと言うんですけども、高校の時にお世話になった先生たちの真似をしていたという部分が大部分だったと思います。とにかく八中だとか小山台というのが私の中に染み付いているので、なんとか後輩たちにつながりを伝えられればいいかな、というような気持ちで授業をしていたかな。(ご自分が高校生でいらっしゃったときと先生になって来られたときに小山大高校の違いを感じられましたか?) 大きくは感じなかったですね。やっぱりその縦のつながりというのはちゃんと持っていてくれて、なんとなく、生徒たちも先輩だからというふうに見てくれていたから、なんとかやって来られたんだなと思います。 山崎:私は平成22年の4月から26年の4年間校長でした。世界史担当だったので、夏休みだけ講習をやらせてもらって、それが一番楽しかったです。小山高校に来る前は大泉桜高校という新設校で校長をしていて、その前も新設校で校長をしていて、新しい学校を渡り歩いて来ので、小山台高校がもうできあがっている学校だったので、さて私は何をすればいいんだろう、という。新設校って校長がリードを取らないとなかなか進んでいかないので、ちょっとゆっくり構えようかな、と思っていたんですが、ちょうどいろんな指定を受けている時期で、進学指導何とか校とかスポーツ何とか校とか受けている時期なので、そういうのを活発にしなければいけないなという思いはあったんですけど、来て直後は落ち着いた学校だなというのと、聞いていたのと、わりとおとなしいかな、と瞬間思ったんです。(聞いていたというのはどういう意味ですか?)すごい運動会があっていろいろ活発な学校だと聞いていたんですけど、直後に着いてみると落ち着いた学校だなと思ったんです。行事が始まってくるとそういうことなんだって。要するに長くつながっていることが自然にできていくので、生徒たちはそんなに慌てて何かするという感じでなくて落ち着いていて。なので、ポテンシャルの高い生徒がたくさんいる学校だな、というのが最初の印象でしたね。ただいろいろその前、何年か生徒が亡くなったりとか、その処理が残っていたりしたので、そこだけやらなければいけないかなと思いましたけど、あとはですね。在任中はなにせ、とにかく甲子園に行ったことが一番大きな思い出じゃないですかね。記憶としてはあの年はですね。もう最後だと分かっていたので、私が。90周年だったんですよ。90周年をやって終わったのに、またゆっくりしようと思ったら急に甲子園に行ってしまいました。最後までバタバタバタバタという感じで過ごしましたね。ですから、記憶に残る生徒というのは、特に僕は担任をもったりとかということはなかったので、やっぱり甲子園に行った時の学年の生徒たちというのはなんだかんだで、バスに行きましたね。ガンガンツアーみたいなやつですね。そうですね、ゼロ博にガチャッと行きましたね。夜ずっと生徒と喋ったりとかもあって、そういうのが起こっている生徒たちという感じですかね。その子たちはちょうど僕4年間しかいなかったものですから1年目に来て中学生のこれ僕募集をやらないとすごくその通り、ちょっと倍率が下がっていて、これは何とかしないといけないなと思って募集対策というので、あちこち中学生もめちゃくちゃ待ったんですよ。一人で、そういうところで入ってきた生徒だったので、その子たちが卒業するぐらいまでの間はすごく個人性が良いと思います。クラス替えとか同期会は年をためながらないので、そういうところ一番感じたのはさっき、生徒にポテンシャルがあるというふうに思ったんですけど、先生たちも、ものすごく力のある先生が多かったんですよなんですが、あんまり派手に宣伝するとか思っている家の子供の生き方が多かったようで、子供の中で止まらないという、そこをすごく認識されている人が多かったので、外から見るとちょっと入りにくい感じなのかなと思ったので、少し広げていかなきゃ、同等会もすごくしっかりしていました。びっくりしましたけど、こんな役があるんだという。最初に言われたのがなんかこんな感じで酔っ払っての話かもしれないですけど、先生、何十年も東大が出てないんだ。甲子園に出したいって言われた。それから卒業生からノーベル賞を出したいんだって言われたんですけど、卒業生のノーベル賞は私の範疇じゃないんですよ。(まあそうですね。私の勘中じゃないからいや、これからってことだよ)勘中じゃないのででも結局ね。私の卒業が最後の時に卒業した生徒。東大17年ぶりの東大に引き換えまして甲子園に出て約束を果たしたかなと思って終わることができ、楽しく過ごさせていただいた4年間だったなと思っています。