「トーク:1959年度 (昭和34年度)」の版間の差分

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
ナビゲーションに移動 検索に移動
80行目: 80行目:


(『60周年記念誌』園山忠夫教諭「夏期施設の思い出」P164より)
(『60周年記念誌』園山忠夫教諭「夏期施設の思い出」P164より)
当時の学校生活
(掲載する場合は、掲載用に要編集)
かなり選りすぐられた生徒が、それぞれ大学を目指す受験校でありながら、比較的自由でゆったりとした空気だった。
昼休みに全員でする小山台体操、クラブ活動や運動会など、勉強よりもむしろスポーツやクラブ活動に力が入っていた同級生も多かった。
しかし、受験勉強も精神力と体力の戦いであって、ラグビーや野球など激しいスポーツをしていた者が東大や一橋大に入っていった。まさに小山台精神の象徴みたいな人達だった。
勉学の方も、教師に特徴のある個性豊かな方々が多かった。
学生の方も青白きがり勉型からスポーツに専心する者、プレスリーを愛する者まで、それぞれに学生生活を満喫していた。
特に男女共学で、女子学生が存在していたことが、かなり古めかしい殺風景な校舎でありながらそれをあまり感じさせなかったのかもしれない。
八中時代の質実剛健さと文武奨励の伝統と気風をいくらか残しながら、女子学生を加えた柔らかさと受験校としての厳しさが、混然一体となって独特な校風を呈していた。
青白き秀才より、たくましく社会に役立つ心身ともに健全な人材の養成こそが、小山台高等学校の当時の目標であったことは間違いあるまい。
(『60周年記念誌』最上進「当時の学校生活」P162より)

2023年8月12日 (土) 17:57時点における版

4月1日 東京都立杉並高等学校長 上原好一 本校校長に就任

4月11日 入学式

4月15日 補習科開講式

5月29日 遠足

6月9日 前期生徒総会「L・H・Rを自由参加に」など10議題

7月16日 夏期講習(~28日)

7月29日 3年後期講習(~8月4日)

8月3日 林間学校(安達太良山 ~6日)

8月8日 臨海学校(館山 ~12日)

9月4日 水泳大会(4日・3年 7日・1年 2年 午後)

9月12日 映画「アンネの日記」又は美術館を団体鑑賞

9月27日 学校祭(~28日)

10月4日 運動会

11月18日 2年修学旅行(~22日)1・3年遠足

12月5日 ロードレース大会

2月6日 スケート教室

2月11日 駅伝大会

3月1日 合同選抜学力検査のため休校

3月18日 高等学校第12回卒業式


世相

4月10日 皇太子御成婚

4月20日 修学旅行専用電車「ひので号」運転開始

9月12日 ソ連、人類最初のロケットによる月面到着

1月15日 全学連、羽田デモ事件


流行語:「わたしのえらんだ人」「カミナリ族」

流行歌:「南国土佐を後にして」「黒い花びら」


<臨海・林間学校について>

 戦後、食糧事情の好転とともに臨海・林間学校を開こうという気運が次第に熟してきた。

 臨海学校は大岩誠先生のお世話で、昭和27年の夏から体育科が中心になり、千葉県館山市西岬村の都立立川高校の清明寮をお借りして4泊5日で約100名を対象として開催されてきた。

 林間学校は昭和29年から実施され、主に1・2年生について、1学期のきびしい学習につかれた心身をのびのびさせ、このときだけは勉強を忘れ、高原の白樺にいこい、高校生活の最良の想い出をつくらせたいと願って発足し、3泊4日であった。

 1年目 長野県志賀高原 約50名

 2年目 福島県甲子温泉 約90名

 3年目 福島県裏磐梯 約120名

 4年目 長野県蓼科高原 約90名

 5年目以降 福島県岳温泉 100名余


 その後、昭和37年春、群馬県に財団法人『小山台』によって鹿沢寮が竣工し、林間学校に利用された。

 しかし、最近では、生徒会各班による合宿が盛んになり、臨海・林間学校は実施されなくなった。

(『60周年記念誌』園山忠夫教諭「夏期施設の思い出」P164より)


当時の学校生活 (掲載する場合は、掲載用に要編集) かなり選りすぐられた生徒が、それぞれ大学を目指す受験校でありながら、比較的自由でゆったりとした空気だった。 昼休みに全員でする小山台体操、クラブ活動や運動会など、勉強よりもむしろスポーツやクラブ活動に力が入っていた同級生も多かった。 しかし、受験勉強も精神力と体力の戦いであって、ラグビーや野球など激しいスポーツをしていた者が東大や一橋大に入っていった。まさに小山台精神の象徴みたいな人達だった。 勉学の方も、教師に特徴のある個性豊かな方々が多かった。 学生の方も青白きがり勉型からスポーツに専心する者、プレスリーを愛する者まで、それぞれに学生生活を満喫していた。 特に男女共学で、女子学生が存在していたことが、かなり古めかしい殺風景な校舎でありながらそれをあまり感じさせなかったのかもしれない。 八中時代の質実剛健さと文武奨励の伝統と気風をいくらか残しながら、女子学生を加えた柔らかさと受験校としての厳しさが、混然一体となって独特な校風を呈していた。 青白き秀才より、たくましく社会に役立つ心身ともに健全な人材の養成こそが、小山台高等学校の当時の目標であったことは間違いあるまい。



(『60周年記念誌』最上進「当時の学校生活」P162より)