「トーク:1959年度 (昭和34年度)」の版間の差分
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(ページの作成:「<臨海・林間学校について> 戦後、食糧事情の好転とともに臨海・林間学校を開こうという気運が次第に熟してきた。 臨海学校は大岩誠先生のお世話で、昭和27年の夏から体育科が中心になり、千葉県館山市西岬村の都立立川高校の清明寮をお借りして4泊5日で約100名を対象として開催されてきた。 林間学校は昭和29年から実施され、主に1・2…」) |
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戦後、食糧事情の好転とともに臨海・林間学校を開こうという気運が次第に熟してきた。 | 戦後、食糧事情の好転とともに臨海・林間学校を開こうという気運が次第に熟してきた。 | ||
臨海学校は大岩誠先生のお世話で、昭和27年の夏から体育科が中心になり、千葉県館山市西岬村の都立立川高校の清明寮をお借りして4泊5日で約100名を対象として開催されてきた。 | 臨海学校は大岩誠先生のお世話で、昭和27年の夏から体育科が中心になり、千葉県館山市西岬村の都立立川高校の清明寮をお借りして4泊5日で約100名を対象として開催されてきた。 | ||
林間学校は昭和29年から実施され、主に1・2年生について、1学期のきびしい学習につかれた心身をのびのびさせ、このときだけは勉強を忘れ、高原の白樺にいこい、高校生活の最良の想い出をつくらせたいと願って発足し、3泊4日であった。 | 林間学校は昭和29年から実施され、主に1・2年生について、1学期のきびしい学習につかれた心身をのびのびさせ、このときだけは勉強を忘れ、高原の白樺にいこい、高校生活の最良の想い出をつくらせたいと願って発足し、3泊4日であった。 | ||
1年目 長野県志賀高原 約50名 | 1年目 長野県志賀高原 約50名 | ||
2年目 福島県甲子温泉 約90名 | 2年目 福島県甲子温泉 約90名 | ||
3年目 福島県裏磐梯 約120名 | 3年目 福島県裏磐梯 約120名 | ||
4年目 長野県蓼科高原 約90名 | 4年目 長野県蓼科高原 約90名 | ||
5年目以降 福島県岳温泉 100名余 | 5年目以降 福島県岳温泉 100名余 | ||
その後、昭和37年春、群馬県に財団法人『小山台』によって鹿沢寮が竣工し、林間学校に利用された。 | その後、昭和37年春、群馬県に財団法人『小山台』によって鹿沢寮が竣工し、林間学校に利用された。 | ||
しかし、最近では、生徒会各班による合宿が盛んになり、臨海・林間学校は実施されなくなった。 | しかし、最近では、生徒会各班による合宿が盛んになり、臨海・林間学校は実施されなくなった。 | ||
(『60周年記念誌』園山忠夫教諭「夏期施設の思い出」P164より) | (『60周年記念誌』園山忠夫教諭「夏期施設の思い出」P164より) |
2023年8月12日 (土) 16:14時点における版
<臨海・林間学校について>
戦後、食糧事情の好転とともに臨海・林間学校を開こうという気運が次第に熟してきた。
臨海学校は大岩誠先生のお世話で、昭和27年の夏から体育科が中心になり、千葉県館山市西岬村の都立立川高校の清明寮をお借りして4泊5日で約100名を対象として開催されてきた。
林間学校は昭和29年から実施され、主に1・2年生について、1学期のきびしい学習につかれた心身をのびのびさせ、このときだけは勉強を忘れ、高原の白樺にいこい、高校生活の最良の想い出をつくらせたいと願って発足し、3泊4日であった。
1年目 長野県志賀高原 約50名
2年目 福島県甲子温泉 約90名
3年目 福島県裏磐梯 約120名
4年目 長野県蓼科高原 約90名
5年目以降 福島県岳温泉 100名余
その後、昭和37年春、群馬県に財団法人『小山台』によって鹿沢寮が竣工し、林間学校に利用された。
しかし、最近では、生徒会各班による合宿が盛んになり、臨海・林間学校は実施されなくなった。
(『60周年記念誌』園山忠夫教諭「夏期施設の思い出」P164より)