「1923年度 (大正12年度)」の版間の差分
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: | :1923(大正12)年春 青山師範学校(現東京学芸大学=赤坂区青山北町5丁目)内で東京府荏原郡平塚村小山東京府立第8中学校入学試験を行い志願者1,047名、入学許可者281名 1923(大正12)年4月8日青山師範学校講堂で第1回入学式 | ||
: | :1923(大正12)年4月15日 東京府青山師範学校教諭 岡田 藤十郎 本校校長ニ任ゼラル | ||
: | :1923(大正12)年4月16日 東京府荏原郡品川町三木尋常小学校(現品川区立三木小学校=品川区西品川3丁目)の校舎の一部を借用して授業が開始された(6学級) | ||
:1923(大正12)年5月10日所沢飛行場に遠足。 | |||
:大正12年夏 校舎建設着工 | |||
:大正12年9月1日の関東大震災では、さいわい被害がきわめて少なかったので、震災で焼け出された人々が移って住むようになり、しだいに田畑が住宅地に変わってきた | |||
:創立の1923(大正12)年、まだ三木小学校に仮ずまいしていた時に大震災に遭い、その後1945(昭和20)年5月23日夜半から空襲に見舞われ、講堂、剣道場などを焼失した。 | |||
:1948(昭和23)年には大職員室でボヤがあり、机と前箱を2つばかり焦がしたことがあった。1949(昭和24)年6月には漏電が原因で、旧図書館の1階工作室から出火したが、小火災で事なきを得た。 | |||
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'''創成期'''<br> | '''創成期'''<br> | ||
本校の前身・東京府立第8中学校は1923(大正12)年東京府荏原郡平塚村小山に設立され、岡田藤十郎青山師範教頭が初代校長に就任し、同年春に青山師範学校内で入学試験を行った(志願者1,047名、入学許可者281名)。 | 本校の前身・東京府立第8中学校は1923(大正12)年東京府荏原郡平塚村小山に設立され、岡田藤十郎青山師範教頭が初代校長に就任し、同年春に青山師範学校内で入学試験を行った(志願者1,047名、入学許可者281名)。 | ||
当時府立中学校は創立順序に従って数字で校名を表わしていたので、本校は第7番目の現墨田川高校の次に創立されたため、「東京府立第8中学校」略して「8中」となった。 | |||
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また、学習指導の特色は「練習」をくり返して学習成果の向上を図り、成績の評定を上・中・下の3段階とし、これを総合して学年成績は「甲乙丙丁」で表した。<br> | また、学習指導の特色は「練習」をくり返して学習成果の向上を図り、成績の評定を上・中・下の3段階とし、これを総合して学年成績は「甲乙丙丁」で表した。<br> | ||
1901年(明治34)年の中学校令施行規則に基いて8中が最初に定めた学科目は修身、国語及び漢文、英語、歴史、地理、数学、博物、物理及び化学、法制及び経済、図画、唱歌、体操の12科目であった。 | |||
修身は現在の倫理社会に相当するが、教育勅語の精神に基いて道徳を教え、国家、社会及び家族に対する責任と人格の修養に関し必要なことを学ばせるのを目的とした。 | |||
各学科の学期成績は3等に分けて上中下の評語をもって優劣を示し、学年成績は甲乙丙丁の4等に分けて評価した。しかも、修身、体操、唱歌の3科目は成績を表示しなかった。 | |||
修身は各自が日常実践躬行を主とし、体操は健康保持のために、音楽は情操を養うためあることを生徒に自覚させればよいのであるとした。 | |||
< | 各学年の課程の修了、卒業には各学科目乙以上を及第として、その他を落第としたが、全科目の3分の1までは丙の成績であっても修了、卒業を認められた。 | ||
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==教職員== | ==教職員== |
2023年6月11日 (日) 16:37時点における版
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できごと
- 1923(大正12)年春 青山師範学校(現東京学芸大学=赤坂区青山北町5丁目)内で東京府荏原郡平塚村小山東京府立第8中学校入学試験を行い志願者1,047名、入学許可者281名 1923(大正12)年4月8日青山師範学校講堂で第1回入学式
- 1923(大正12)年4月15日 東京府青山師範学校教諭 岡田 藤十郎 本校校長ニ任ゼラル
- 1923(大正12)年4月16日 東京府荏原郡品川町三木尋常小学校(現品川区立三木小学校=品川区西品川3丁目)の校舎の一部を借用して授業が開始された(6学級)
- 1923(大正12)年5月10日所沢飛行場に遠足。
- 大正12年夏 校舎建設着工
- 大正12年9月1日の関東大震災では、さいわい被害がきわめて少なかったので、震災で焼け出された人々が移って住むようになり、しだいに田畑が住宅地に変わってきた
- 創立の1923(大正12)年、まだ三木小学校に仮ずまいしていた時に大震災に遭い、その後1945(昭和20)年5月23日夜半から空襲に見舞われ、講堂、剣道場などを焼失した。
- 1948(昭和23)年には大職員室でボヤがあり、机と前箱を2つばかり焦がしたことがあった。1949(昭和24)年6月には漏電が原因で、旧図書館の1階工作室から出火したが、小火災で事なきを得た。
創成期
本校の前身・東京府立第8中学校は1923(大正12)年東京府荏原郡平塚村小山に設立され、岡田藤十郎青山師範教頭が初代校長に就任し、同年春に青山師範学校内で入学試験を行った(志願者1,047名、入学許可者281名)。
当時府立中学校は創立順序に従って数字で校名を表わしていたので、本校は第7番目の現墨田川高校の次に創立されたため、「東京府立第8中学校」略して「8中」となった。
9月 1日:関東大震災。その後、東京の住宅地は郊外に向かって急速に移行・拡大したため、沿線一帯の人口も著しく増加した。
草創期の校風形成について
岡田初代校長は、とくに生徒の素質・個性の発揮・伸張を基調とする人格教育を理想とし、草創期の校風形成に大きなイニシアティヴを示し、新生8中の教育は大正デモクラシーの風潮をうけてリベラルな雰囲気のなかでのびのびと行われた。
1. 言心一致ヲ旨トシ、公明正大ニ行動スベシ
1. 自他ノ人格ヲ重ンジ、自治ノ良習ヲ養フベシ
1. 礼儀ヲ守り廉恥ヲ重ンジ、常ニ快活ノ気概アルベシ
〔学校のしつけ(校友会雑誌1号所載)〕
また、学習指導の特色は「練習」をくり返して学習成果の向上を図り、成績の評定を上・中・下の3段階とし、これを総合して学年成績は「甲乙丙丁」で表した。
1901年(明治34)年の中学校令施行規則に基いて8中が最初に定めた学科目は修身、国語及び漢文、英語、歴史、地理、数学、博物、物理及び化学、法制及び経済、図画、唱歌、体操の12科目であった。
修身は現在の倫理社会に相当するが、教育勅語の精神に基いて道徳を教え、国家、社会及び家族に対する責任と人格の修養に関し必要なことを学ばせるのを目的とした。
各学科の学期成績は3等に分けて上中下の評語をもって優劣を示し、学年成績は甲乙丙丁の4等に分けて評価した。しかも、修身、体操、唱歌の3科目は成績を表示しなかった。
修身は各自が日常実践躬行を主とし、体操は健康保持のために、音楽は情操を養うためあることを生徒に自覚させればよいのであるとした。
各学年の課程の修了、卒業には各学科目乙以上を及第として、その他を落第としたが、全科目の3分の1までは丙の成績であっても修了、卒業を認められた。
教職員
学芸会
関連項目
*← 1922年度 (大正11年度) *→ 1924年度 (大正13年度)
脚注
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2023年6月11日:直近編集者:SGyasushi
TimeStamp:20230611163707