「1941年度 (昭和16年度)」の版間の差分
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== 「同窓會會報 第14号」 == | == 「同窓會會報 第14号」 == | ||
: | :「同窓會會報_第14号」は、1942(昭和17)年1月31日発行で、菊桜会会室に保管されていました。 | ||
:真珠湾攻撃が1941年12月8日なので、その直後に編集・発行されたもので、当時の世相を色濃く反映しています。 | |||
:特に、表紙にある「英魂顕彰号」にもある通り、戦没者への追悼・顕彰という目的で発行されたものです。 | |||
:口絵写真には「中1回」~「中10回」までの戦死者16名の写真が「故人ノ面影」として掲載されています。 | |||
:また、その次には「中島嘉之吉 会長」による「八中教学刷新案」が2ページに渡って掲載され、続いて「岩本實次郎」次期校長による、「臨戦態勢」という文章が掲載されています。 | |||
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:同窓会会長は、現役の校長先生が兼務されていた(後掲の「同窓会会則 第5条」に「本會會長ニハ母校校長を推戴ス」と記載)。 | |||
:実務は「幹事長」が取り仕切っていた。 | |||
:「噫<refference>「噫」は「ああ」と読む。詠嘆・呼びかけの言葉。</refference> ○○君」という追悼文のタイトルが並ぶ中に「仲田英之」さんの「幹事長の弁」という「新幹事長就任」の文章がある。 | |||
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:発行者は「東京府立第八中学校同窓会」となっており、「菊桜会」という名称になったのは戦後のことのようです(詳細は現在調査中)。 | |||
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:かなり分厚い「会報」であり、現在の会報とは型式が異なるが、前半77ページで「編集後記」と「奥付」となっている。 | |||
:次ページは、「第15号」の原稿募集、その次に「赤いページ」で「会員名簿」となっていて、以降は「同窓会会則」に続き、教職員、旧教職員、そして卒業生の名簿が「第1回卒業生」から掲載されている。 | |||
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:ここから見ていくと、 | |||
:昭和3年卒業の「第1回生」はこの時点(ほぼ14年後の昭和17年1月末)で202名中30名が死亡。 | |||
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:続いて昭和4年卒業「第2回卒業生」200名中、この時点で26名死亡。 | |||
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:昭和5年卒業「第3回生」194名中22名死亡 | |||
:昭和6年卒業「第4回生」219名中20名死亡 | |||
:昭和7年卒業「第5回生」202名中15名死亡(卒業10年後) | |||
:昭和8年卒業「第6回生」184名中20名死亡(卒業9年後) | |||
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:旧制中学は5年ですから、卒業時は17歳。 | |||
:ほぼ1割の生徒が卒業後10年足らずで死亡。 | |||
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:昭和9年卒業「第7回生」203名中7名死亡(卒業8年後) | |||
:昭和10年卒業「第8回生」214名中6名死亡(卒業7年後。享年24歳以下) | |||
:昭和11年卒業「第9回生」208名中5名死亡(卒業6年後。享年23歳以下) | |||
:昭和12年卒業「第10回生」218名中5名死亡(卒業5年後。享年22歳以下) | |||
:昭和13年卒業「第11回生」223名中5名死亡(卒業4年後。享年21歳以下) | |||
:昭和14年卒業「第12回生」218名中1名死亡(卒業3年後。享年20歳以下) | |||
:昭和15年卒業「第13回生」213名中3名死亡(卒業2年後。享年19歳以下) | |||
:昭和16年卒業「第14回生」237名(卒業1年後。18歳では死亡ゼロ) | |||
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:もちろん、全員が戦没者ということではないでしょうが、極めて「おそろしい」数字です。 | |||
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2022年10月2日 (日) 13:30時点における版
(編集中) (編集完了)
できごと
- 4月 府立第八中学校入学式 中19回生(男子2XX名、A~F組の6クラス)
- 9月 学校報國団結成
- 10月 8日 学芸会
- 10月10日 鍛錬運動大会
- 12月 8日 真珠湾攻撃、マレー半島上陸
- 1月15日 「報國団雑誌 第18号」発行
- 1月31日 「同窓會會報 第14号」発行
- 3月 5日 卒業式 中15回生(男子215名)
教職員
学芸会
10月8日(水)午前9時より
- (宮城遙拝黙祷の後)
- 1. 音楽
- 2. 支那人と處:2B 宮川丈二
- 3. 戦火に見る皇道精神:1A 黒川 尚
- 4. 谷川岳登山:1F 小島良策
- 5. ベルギー:3B 中村正巳
- 6. 詩吟:2B 森下昭平
- 7. 厳島:1F 村川秀雄
- 8. 音楽
- 9. 葉の毛管現象について:1F 土井洋三
- 10. 武蔵の野辺:2C 斎藤俊重
- 立派な態度で、声も明瞭であり、熱情溢れるばかりで聴者を自ら陶酔させた。
- 11. 鴨鉱山:2F 岸 英明
- 落ち着きあり態度が立派である。惜しいことは、一箇の鉱山案内に終わったことで、大きく鉱山紹介に迄言及すべきだった。
- 以下つづく(本日はここまで「報國団雑誌第18号」)
- 閉会の辞:高橋先生
「報國団雑誌 第18号」
「同窓會會報 第14号」
- 「同窓會會報_第14号」は、1942(昭和17)年1月31日発行で、菊桜会会室に保管されていました。
- 真珠湾攻撃が1941年12月8日なので、その直後に編集・発行されたもので、当時の世相を色濃く反映しています。
- 特に、表紙にある「英魂顕彰号」にもある通り、戦没者への追悼・顕彰という目的で発行されたものです。
- 口絵写真には「中1回」~「中10回」までの戦死者16名の写真が「故人ノ面影」として掲載されています。
- また、その次には「中島嘉之吉 会長」による「八中教学刷新案」が2ページに渡って掲載され、続いて「岩本實次郎」次期校長による、「臨戦態勢」という文章が掲載されています。
- 同窓会会長は、現役の校長先生が兼務されていた(後掲の「同窓会会則 第5条」に「本會會長ニハ母校校長を推戴ス」と記載)。
- 実務は「幹事長」が取り仕切っていた。
- 「噫<refference>「噫」は「ああ」と読む。詠嘆・呼びかけの言葉。</refference> ○○君」という追悼文のタイトルが並ぶ中に「仲田英之」さんの「幹事長の弁」という「新幹事長就任」の文章がある。
- 発行者は「東京府立第八中学校同窓会」となっており、「菊桜会」という名称になったのは戦後のことのようです(詳細は現在調査中)。
- かなり分厚い「会報」であり、現在の会報とは型式が異なるが、前半77ページで「編集後記」と「奥付」となっている。
- 次ページは、「第15号」の原稿募集、その次に「赤いページ」で「会員名簿」となっていて、以降は「同窓会会則」に続き、教職員、旧教職員、そして卒業生の名簿が「第1回卒業生」から掲載されている。
- ここから見ていくと、
- 昭和3年卒業の「第1回生」はこの時点(ほぼ14年後の昭和17年1月末)で202名中30名が死亡。
- 続いて昭和4年卒業「第2回卒業生」200名中、この時点で26名死亡。
- 昭和5年卒業「第3回生」194名中22名死亡
- 昭和6年卒業「第4回生」219名中20名死亡
- 昭和7年卒業「第5回生」202名中15名死亡(卒業10年後)
- 昭和8年卒業「第6回生」184名中20名死亡(卒業9年後)
- 旧制中学は5年ですから、卒業時は17歳。
- ほぼ1割の生徒が卒業後10年足らずで死亡。
- 昭和9年卒業「第7回生」203名中7名死亡(卒業8年後)
- 昭和10年卒業「第8回生」214名中6名死亡(卒業7年後。享年24歳以下)
- 昭和11年卒業「第9回生」208名中5名死亡(卒業6年後。享年23歳以下)
- 昭和12年卒業「第10回生」218名中5名死亡(卒業5年後。享年22歳以下)
- 昭和13年卒業「第11回生」223名中5名死亡(卒業4年後。享年21歳以下)
- 昭和14年卒業「第12回生」218名中1名死亡(卒業3年後。享年20歳以下)
- 昭和15年卒業「第13回生」213名中3名死亡(卒業2年後。享年19歳以下)
- 昭和16年卒業「第14回生」237名(卒業1年後。18歳では死亡ゼロ)
- もちろん、全員が戦没者ということではないでしょうが、極めて「おそろしい」数字です。
卒業アルバム
関連項目
*← 1940年度 (昭和15年度) *→ 1942年度 (昭和17年度)
脚注
・
2022年10月2日:直近編集者:Adminkoyama100
TimeStamp:20221002133002