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:'''1928年''' | |||
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:4月 4日 第一学年本日より登校、朝礼場にて第二学年生以上に紹介 | :4月 4日 第一学年本日より登校、朝礼場にて第二学年生以上に紹介 | ||
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:10月 2日 天皇皇后両陛下の御真影を拝載する。 | :10月 2日 天皇皇后両陛下の御真影を拝載する。 | ||
:12月20日 「校友会雑誌 第5号」発行 | :12月20日 「校友会雑誌 第5号」発行 | ||
: 1月27日 文部省より教育勅語謄本を下附せらる。 | :'''1929年''' | ||
: 3月8日 府立第八中学校卒業式 [[中2回 | | :1月27日 文部省より教育勅語謄本を下附せらる。 | ||
:3月8日 府立第八中学校卒業式 [[中2回 | 中2回生]](男子193名) | |||
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==世相== | |||
:'''1928年'''<br> | |||
:5月3日 済南事件 | |||
:6月4日 張作霖爆死 | |||
:8月27日 パリ不戦条約 | |||
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:'''流行語'''-人民の名において<br> | |||
:'''流行歌'''-出船・モンパリ | |||
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==恩師 横井広保先生を偲ぶ== | |||
私が中学一年のときの担任が、国語の横井広保先生であった。そして、五年D組のときの担任もこの先生であった。<br> | |||
一年のとき、たしか放課後だったと思う。生徒を一人ずつ静かな保健室に呼んで、先生と親しく雑談をかわす機会を作ってくださったことがあった。それが今でも忘れられない。<br> | |||
卒業と同時に、私はゆえあって故郷の山形県内の山村へ戻った。そして数ヵ月を過ぎた頃、実に感じのよい会誌“泥海”が中川君等の手によって創刊され、送られてきた。<br> | |||
また、嘉納、伊藤、藤本、諸氏等の肝煎りでクラス同窓会が数年おきに開かれ、そのつど、その後ふるさとの名古屋方面に転任された先生をお招きした。クラス同窓会は後に学年同窓会に発展したが、恩師との交歓は実に40数年間も続いたのである。ただ私は、そうした折角の集いに一回しか出席していない。<br> | |||
1977(昭和52)年、先生からのお返しの年賀状には、「一の世界(対立を超えた一なるもの)を求めたい。2月10日で満80歳を迎えます。なお元気でご用を勤めさせてもらいます。一度この世でお会いする機会がなければあの世で待っています」とあった。その後間もなく2月15日に先生は亡くなられた。<br> | |||
先生は国語を教えて、こと足れりとした先生ではなかった。私のようなできの悪い落ちこぼれ生徒をも最後まで見捨てなかった。まさに教師の本願を全うされた先生であった。<br> | |||
(佐藤忠三郎 中3回「創立60周年記念誌」P100)<br> | |||
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==校旗制定== | ==校旗制定== | ||
桜の校章を栄誉の月桂冠でかこんだ8中校旗は、1928(昭和3)年7月13日に制定された。これは第1回卒業生の在校中、ついに校旗が作られなかったのを遺憾に思い、中村金次郎氏その他数人の有志が校旗作成の計画をたてて、卒業直後青山会館で大映画会を催し、父兄、在校生、卒業生に呼びけて会員券を売り、その収益金で高島屋に注文して作製されたものである。高島屋の担当者もその熱意に感じて非常な努力を払って作成してくれたという。 | |||
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File:1928 昭和3年 校旗.jpg||府立第8中学校校旗 | File:1928 昭和3年 校旗.jpg||府立第8中学校校旗 | ||
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== 「校友会雑誌 第5号」 == | == 「校友会雑誌 第5号」 == | ||
:「校友会雑誌 第5号」は、1928(昭和3)年12月20日発行されました。 | :「校友会雑誌 第5号」は、1928(昭和3)年12月20日発行されました。 |
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1928(昭和3)年度
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できごと | 詳細・引用・寄稿 |
4月 2日 始業式 10月 2日 天皇皇后両陛下の御真影を拝載する。 |
校旗制定 桜の校章を栄誉の月桂冠でかこんだ8中校旗は、1928(昭和3)年7月13日に制定された。これは第1回卒業生の在校中、ついに校旗が作られなかったのを遺憾に思い、
中村金次郎氏その他数人の有志が校旗作成の計画をたてて、卒業直後青山会館で大映画会を催し、父兄、在校生、卒業生に呼びけて会員券を売り、その収益金で高島屋に注文して作製されたものである。
高島屋の担当者もその熱意に感じて非常な努力を払って作成してくれたという。 |
世 相 | |
5月3日 済南事件 |
できごと[1]
- 1928年
- 4月 2日 始業式
- 4月 3日 入学式(中6回生)
- 4月 4日 第一学年本日より登校、朝礼場にて第二学年生以上に紹介
- 4月18日 府参事会員会計検査のため来校
- 4月29日 天長節、全校職員生徒代々木練兵場に観兵式拝観
- 5月 5日 開校記念日、午前中運動会、午後余興
- 5月 6日 青山会館に於て同窓会主催の映画会あり
- 5月11日 補習科授業開始
- 5月19日 全校遠足。1年 小田原、2年 江ノ島鎌倉、3年 筑波山、4年 鋸山、5年 箱根
- 5月22日 午後見学。1年 鉄道博物館、2年 多摩川水道水源地、3年 川崎明治製菓会社、4年 東京朝日新聞社、5年 星製薬会社
- 6月 5日 東京府学務課長落合寅平氏、視察員秋山四麿氏参観
- 6月 8日 青山学院高等師範科生50名授業参観
- 6月10日 第一学年保証人会
- 6月20日 午後剣道大会
- 6月27日 学芸会(4年、5年)
- 6月28日 学芸会(1年、2年、3年)
- 7月 3日 水泳開始
- 7月13日 校旗制定式挙行
- 7月15日 同窓会第一回総会開催
- 7月20日 終業式
- 10月 2日 天皇皇后両陛下の御真影を拝載する。
- 12月20日 「校友会雑誌 第5号」発行
- 1929年
- 1月27日 文部省より教育勅語謄本を下附せらる。
- 3月8日 府立第八中学校卒業式 中2回生(男子193名)
世相
- 1928年
- 5月3日 済南事件
- 6月4日 張作霖爆死
- 8月27日 パリ不戦条約
- 流行語-人民の名において
- 流行歌-出船・モンパリ
恩師 横井広保先生を偲ぶ
私が中学一年のときの担任が、国語の横井広保先生であった。そして、五年D組のときの担任もこの先生であった。
一年のとき、たしか放課後だったと思う。生徒を一人ずつ静かな保健室に呼んで、先生と親しく雑談をかわす機会を作ってくださったことがあった。それが今でも忘れられない。
卒業と同時に、私はゆえあって故郷の山形県内の山村へ戻った。そして数ヵ月を過ぎた頃、実に感じのよい会誌“泥海”が中川君等の手によって創刊され、送られてきた。
また、嘉納、伊藤、藤本、諸氏等の肝煎りでクラス同窓会が数年おきに開かれ、そのつど、その後ふるさとの名古屋方面に転任された先生をお招きした。クラス同窓会は後に学年同窓会に発展したが、恩師との交歓は実に40数年間も続いたのである。ただ私は、そうした折角の集いに一回しか出席していない。
1977(昭和52)年、先生からのお返しの年賀状には、「一の世界(対立を超えた一なるもの)を求めたい。2月10日で満80歳を迎えます。なお元気でご用を勤めさせてもらいます。一度この世でお会いする機会がなければあの世で待っています」とあった。その後間もなく2月15日に先生は亡くなられた。
先生は国語を教えて、こと足れりとした先生ではなかった。私のようなできの悪い落ちこぼれ生徒をも最後まで見捨てなかった。まさに教師の本願を全うされた先生であった。
(佐藤忠三郎 中3回「創立60周年記念誌」P100)
校旗制定
桜の校章を栄誉の月桂冠でかこんだ8中校旗は、1928(昭和3)年7月13日に制定された。これは第1回卒業生の在校中、ついに校旗が作られなかったのを遺憾に思い、中村金次郎氏その他数人の有志が校旗作成の計画をたてて、卒業直後青山会館で大映画会を催し、父兄、在校生、卒業生に呼びけて会員券を売り、その収益金で高島屋に注文して作製されたものである。高島屋の担当者もその熱意に感じて非常な努力を払って作成してくれたという。
「校友会雑誌 第5号」
- 「校友会雑誌 第5号」は、1928(昭和3)年12月20日発行されました。
- 発行所:東京府立第八中学校校友會
- 印刷所:共同印刷株式会社
- 「校友会雑誌 第5号」は小山台高校 図書室資料室に保管されていました。
「校友会雑誌 第5号」全文
- 以下のリンクから「校友会雑誌 第5号」全文をご覧いただけます。
- 「校友会雑誌 第5号」PDFファイルへのリンク
卒業アルバム
- 卒業アルバムは以下のリンクからご覧ください。
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関連項目
*← 1927年度 (昭和 2年度) *→ 1929年度 (昭和 4年度)
脚注
- ↑ 第一学期については「校友会雑誌 第5号」P240「校史抜抄」から転記しました。
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2025年1月12日:直近編集者:Hosamu
TimeStamp:20250112201759