「班目 文雄」の版間の差分

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==エピソード==
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: 私が小山台高校の第八代校長として赴任した年、光栄にも創立五○周年の式典が挙行された。式典は、国立教育会館の講堂、虎の門ホールで盛大に取り行われた。厳粛そのものの式典で、長い時間頭を動かす生徒はほとんどなかった。学園紛争後まだ日の浅い昭和四八年で大方の学校の秩序規律は乱れており、列席した他校の校長たちは、目のさめる思いで賞賛・讃嘆の声を残して行った式典終了後聞いた話だが、虎の門ホールの清掃の係員たちが、「紙一枚落ちていない集会は初めてだ」と言っていたという。
: 私が小山台高校の第八代校長として赴任した年、光栄にも創立五○周年の式典が挙行された。式典は、国立教育会館の講堂、虎の門ホールで盛大に取り行われた。厳粛そのものの式典で、長い時間
:頭を動かす生徒はほとんどなかった。学園紛争後まだ日の浅い昭和四八年で大方の学校の秩序規律は乱れており、列席した他校の校長たちは、目のさめる思いで賞賛・讃嘆の声を残して行った。式典
:終了後聞いた話だが、虎の門ホールの清掃の係員たちが、「紙一枚落ちていない集会は初めてだ」と言っていたという。


 小山台がもっとも小山台らしさを発揮するのは言うまでもなく運動会である。若人の情念とエネルギーが爆発する。
: 小山台がもっとも小山台らしさを発揮するのは言うまでもなく運動会である。若人の情念とエネルギーが爆発する。
棒倒し、騎馬戦その他男らしさの満ち満ちた演目がつぎつぎと展開される。それだけに校長としては、連動会の練習中から終わるまで精神の緊張が続いていた。事故の起こらないことを心から祈っていた。正直のところ終わるとホッとして急にくたくたと疲労を感じたのである。ある年某君が枠倒しで首の骨を折った。入院加療が長く続いた。親の方に申しわけなくて学校としてもささやかであるが何がしかのお見舞を送りとどけた。その後日譚であるが親御さんから巨額の寄付をいただいた。校庭の一隅に記念のため樹木を植えてその志にお酬いした。近頃さわやかな話であった。
:棒倒し、騎馬戦その他男らしさの満ち満ちた演目がつぎつぎと展開される。それだけに校長としては、連動会の練習中から終わるまで精神の緊張が続いていた。事故の起こらないことを心から祈って         
 
:いた。正直のところ終わるとホッとして急にくたくたと疲労を感じたのである。ある年某君が棒倒しで首の骨を折った。入院加療が長く続いた。親の方に申しわけなくて学校としてもささやかである
 
:が何がしかのお見舞を送りとどけた。その後日譚であるが親御さんから巨額の寄付をいただいた。校庭の一隅に記念のため樹木を植えてその志にお酬いした。近頃さわやかな話であった。             
 
:(60周年記念誌 斑目文雄校長 二題より)
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2023年12月13日 (水) 09:51時点における最新版

班目 文雄校長

班目 文雄(まだらめ ふみお、1973年4月1日 - 1976年3月31日)は、日本の教育者。東京都立小山台高等学校校長(八代)

本校歴

1973年 5月    学習費の制度を新設する。
1973年 11月1日 創立50周年記念式典を挙行する。(於国立教育会館) 
1974年 5月   本校舎改築を目的とする委員会を発足させる。設計プランを作るための調査研究を開始すると同時に都に改築促進を申し入れる。
1974年11月   小山台運動会の様子がNHKテレビで放映される。 
1974年12月   物理学習用コンピューターを導入設置する。
1976年 2月   文部省科学研究費によるコンピューター学習の特別研究発表が行われる。(発表教諭 芝茂雄氏)


斑目文雄校長先生については、以下のフォルダー内文書を転記すること。

08_斑目文雄校長

エピソード

私が小山台高校の第八代校長として赴任した年、光栄にも創立五○周年の式典が挙行された。式典は、国立教育会館の講堂、虎の門ホールで盛大に取り行われた。厳粛そのものの式典で、長い時間
頭を動かす生徒はほとんどなかった。学園紛争後まだ日の浅い昭和四八年で大方の学校の秩序規律は乱れており、列席した他校の校長たちは、目のさめる思いで賞賛・讃嘆の声を残して行った。式典
終了後聞いた話だが、虎の門ホールの清掃の係員たちが、「紙一枚落ちていない集会は初めてだ」と言っていたという。
 小山台がもっとも小山台らしさを発揮するのは言うまでもなく運動会である。若人の情念とエネルギーが爆発する。
棒倒し、騎馬戦その他男らしさの満ち満ちた演目がつぎつぎと展開される。それだけに校長としては、連動会の練習中から終わるまで精神の緊張が続いていた。事故の起こらないことを心から祈って
いた。正直のところ終わるとホッとして急にくたくたと疲労を感じたのである。ある年某君が棒倒しで首の骨を折った。入院加療が長く続いた。親の方に申しわけなくて学校としてもささやかである
が何がしかのお見舞を送りとどけた。その後日譚であるが親御さんから巨額の寄付をいただいた。校庭の一隅に記念のため樹木を植えてその志にお酬いした。近頃さわやかな話であった。
(60周年記念誌 斑目文雄校長 二題より)



関連項目

着任:1973年4月 1日
退任:1976年3月31日
前 任 在 任 後 任
伊藤 太一郎

1973年度 (昭和48年度)

1974年度 (昭和49年度)

1975年度 (昭和50年度)

斎藤 義光



関連事項

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脚注: ・

2023年12月13日:直近編集者:Mchika
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