「トーク:1941年度 (昭和16年度)」の版間の差分

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10月8日 一・二・三年学芸会<br>
10月8日 一・二・三年学芸会<br>
3月5日 第十五回卒業式<br>
3月5日 第十五回卒業式<br>
'''世相'''<br>
'''世相'''<br>
8月8日 学校報国隊の編成を指令<br>
8月8日 学校報国隊の編成を指令<br>
10月15日 ゾルゲ事件<br>
10月15日 ゾルゲ事件<br>
12月8日  真珠湾攻撃 太平洋戦争始まる<br>
12月8日  真珠湾攻撃 太平洋戦争始まる<br>
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'''流行語'''<br>
'''流行語'''<br>
 八紘一宇<br>
 八紘一宇<br>
'''流行歌'''<br>
'''流行歌'''<br>
 船頭さん・オウマ<br> 
 船頭さん・オウマ<br> 
(「60周年記念誌」P126)<br>
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[[ファイル:S28 小山台高校 校舎の全景(昭和28年ごろ)(60周年記念誌P9).jpg|サムネイル]]
[[ファイル:S28 小山台高校 校舎の全景(昭和28年ごろ)(60周年記念誌P9).jpg|サムネイル]]
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[[ファイル:S28 正門より校舎を望む.jpg|サムネイル]]
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'''創立30周年に講堂・体育館落成'''<br>
'''昭和一六年一二月八日  (中15回・昭和17年卒 鈴木一弘)'''<br>
創立30周年記念式典および事業の推進にあっては昭和26年5月2日の総会PTA総会で創立30周年記念準備委員会設置を可決し、その後PTA実行委員会で行事委員会を組織し、28年秋の式典をめざした。<br>
<br> 「大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」<br>
記念事業は式典までに完成を目標に講堂整備235万円(雨漏修理・天井・側壁張り・照明設備・椅子1300名分・ステージ改造・暗幕)体育館復旧600万円(1階建150坪・内部設備・付属室)に着手した。<br>
丁度、家を出発しようとして玄関でゲートルを巻いていた私の耳に此のニュースが飛び込んできた。軍艦マーチがラジオから流れると始まる大本営発表だが、此の朝は余りにも高調された響きがあったのを記憶している。「繰り返し申し上げます」と何度も流れるニュースを背に、昂奮して学校へ、半分駈け足で急いだ。<br>
かくて講堂は戦災後の昭和21年11月の応急の外壁と屋根のみのバラックから面目を一新し、体育館は1260万円かかって昭和30年12月に落成した。<br>
 此の日、一六年一二月八にちは奇しくも年に一度の学校教練の査閲が行われる日で、六時には学校から五分位の東町の家を出た。査閲というのは、陸軍大臣の任命した教練査閲官が来て軍事教練の成果をみるもので、今流に言えば、年に一度、学校をあげて軍のテストを受ける日みたいなものだった。そういう日であったし、しかも中学五年生で、これが最後ということで、余計に意識が高揚したのかもしれない。<br>
なお、式典は昭和28年10月24日に新装成った講堂で挙行され、永年勤続先生へ感謝状贈呈、生徒へは記念品(男子バックル、女子ブローチ)を配布した。<br>
 学校へ行っても日米開戦の話ばかりで、皆が何か頭に血が上っていたようであった。いよいよ査閲となったら、査閲官も大変なご機嫌っで、今日は米英と開戦したのだから査閲はこれで中止すると発表があり、内心「やったぞ」というのが正直な気持ちだった。<br>
続いて、25・26両日学芸会、展示会を催して創立30年を祝賀した。<br>
 ハワイ空襲、香港占領などが、報道された一日だが、それまで英米仏蘭中等の包囲網をいわれ、米国の石油の対日輸出禁止などで、どうなってしまうのかという圧迫と不安が一杯だったので、後の事も考えずこういう気になったと思う。<br>
(「50周年記念誌」P49)<br>
(鈴木一弘 中15回「創立60周年記念誌」P126)<br>
 


'''第8回オケラ杯弁論大会(高6回 秋山範子)'''<br>
'''第二次大戦前後の学校生活'''<br>
 今から30年程前、新制の男女共学が発足して3年目に小山台に入学した。
 府立八中に入学したら、祝日の打菓子にあんこが入っていたというので、兄貴は弟妹に大きな顔ができた。<br>
前年には約100名の女子が入学していたが男子生徒にはものめずらしかったと思う。
 図書室は自由閲覧で、中学生になった途端に一人前に待遇され、とまどったと同時に自由自律の重さを実感した。<br>
そこでオケラ杯弁論大会に私の選んだ題も「男女共学について」であった。
 小学校の優等生が集まったから、試験の成績はきびしい。内心びくびくしていた処に通信簿はないという。ほっとしたと同時に「人間は人間を評価できない」との旨に感銘した。<br>
オケラというのは漢文担当で弁論班の顧問だった舞田先生のことである。<br>
 入学した昭和一二年の七月に日華事変が始まり、一一月に突然岡田校長は退き、中島校長となる。この頃先生方のレジスタンスで授業放棄というような自習時間が多くなった。<br>
 原稿は自分で考えたが父に随分手伝ってもらったように思う。
 修学旅行は「歩け、歩け」と歩かされた。大磯、奥日光、箱根・長岡、榛名山と雨にもめげずに歩いたが、五年生のときは戦時で中止した。<br>
大会の前日まで屋上の八角塔の裏で練習した。
 明治節には代々木練兵場に集まり霜がひどく寒かった。S教官は自ら手本を示した。卒業の頃は三八銃がなく模擬銃となった。<br>
大体が早口の私はともすると一本調子で早口になりがちなのを、ゆっくり判りやすく話すのに時間がかかった。
 園芸のM先生も自ら率先した。戦後の焼跡菜園は、いも作りに大いに役立った。<br>
当日は十何人かの男子に混ざって、女子はほんの2、3人でものめずらしさも手伝ってか、確か3位迄に入賞したと思う。
 終身の副読本「皇国の精義」を教えながら、その編集に自ら参加したがその趣旨には疑問であるといい、時折戦争を皮肉っていたK先生(後の都高教組委員長)。またB氏は思想問題で追われ、中島校長が拾ったという噂に、軍学校の予備校と陰口を云われた八中の校長の一面を見、指導者の厳しさを感じた。<br>
それを弁論班にも入って多くの先輩達の教えを受けたことも今ではなつかしい想い出である。<br>
 戦時下、二宮翁夜話やダンテ神曲を語り、俳句の世界に潤いを与えてくれた先生方。<br>
(「創立60周年記念誌」P150)
 軍の学校へ行けという父親に反対してなぐられたと歎いていた友。また第一回特攻隊のS君ら多くの戦死した友の冥福を祈ります。<br>
(福田善治 中15回「創立60周年記念誌」P150)

2023年9月10日 (日) 15:15時点における最新版

できごと

学校行事
4月1日 東京府立第八中学校夜間中学を弘道中学と改称
4月   校友会を解散し、報国団を結成
6月8日 五年習志野野外教練(~11日)
7月   多摩川運動場の一部八〇〇坪を開墾農場とする。この頃各種集団勤労作業を行う。
9月  学校報国隊を結成
10月8日 一・二・三年学芸会
3月5日 第十五回卒業式
世相
8月8日 学校報国隊の編成を指令
10月15日 ゾルゲ事件
12月8日  真珠湾攻撃 太平洋戦争始まる
流行語
 八紘一宇
流行歌
 船頭さん・オウマ
  (「60周年記念誌」P126)

S28 小山台高校 校舎の全景(昭和28年ごろ)(60周年記念誌P9).jpg
S28 正門より校舎を望む.jpg

昭和一六年一二月八日 (中15回・昭和17年卒 鈴木一弘)

 「大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
丁度、家を出発しようとして玄関でゲートルを巻いていた私の耳に此のニュースが飛び込んできた。軍艦マーチがラジオから流れると始まる大本営発表だが、此の朝は余りにも高調された響きがあったのを記憶している。「繰り返し申し上げます」と何度も流れるニュースを背に、昂奮して学校へ、半分駈け足で急いだ。
 此の日、一六年一二月八にちは奇しくも年に一度の学校教練の査閲が行われる日で、六時には学校から五分位の東町の家を出た。査閲というのは、陸軍大臣の任命した教練査閲官が来て軍事教練の成果をみるもので、今流に言えば、年に一度、学校をあげて軍のテストを受ける日みたいなものだった。そういう日であったし、しかも中学五年生で、これが最後ということで、余計に意識が高揚したのかもしれない。
 学校へ行っても日米開戦の話ばかりで、皆が何か頭に血が上っていたようであった。いよいよ査閲となったら、査閲官も大変なご機嫌っで、今日は米英と開戦したのだから査閲はこれで中止すると発表があり、内心「やったぞ」というのが正直な気持ちだった。
 ハワイ空襲、香港占領などが、報道された一日だが、それまで英米仏蘭中等の包囲網をいわれ、米国の石油の対日輸出禁止などで、どうなってしまうのかという圧迫と不安が一杯だったので、後の事も考えずこういう気になったと思う。
(鈴木一弘 中15回「創立60周年記念誌」P126)

第二次大戦前後の学校生活
 府立八中に入学したら、祝日の打菓子にあんこが入っていたというので、兄貴は弟妹に大きな顔ができた。
 図書室は自由閲覧で、中学生になった途端に一人前に待遇され、とまどったと同時に自由自律の重さを実感した。
 小学校の優等生が集まったから、試験の成績はきびしい。内心びくびくしていた処に通信簿はないという。ほっとしたと同時に「人間は人間を評価できない」との旨に感銘した。
 入学した昭和一二年の七月に日華事変が始まり、一一月に突然岡田校長は退き、中島校長となる。この頃先生方のレジスタンスで授業放棄というような自習時間が多くなった。
 修学旅行は「歩け、歩け」と歩かされた。大磯、奥日光、箱根・長岡、榛名山と雨にもめげずに歩いたが、五年生のときは戦時で中止した。
 明治節には代々木練兵場に集まり霜がひどく寒かった。S教官は自ら手本を示した。卒業の頃は三八銃がなく模擬銃となった。
 園芸のM先生も自ら率先した。戦後の焼跡菜園は、いも作りに大いに役立った。
 終身の副読本「皇国の精義」を教えながら、その編集に自ら参加したがその趣旨には疑問であるといい、時折戦争を皮肉っていたK先生(後の都高教組委員長)。またB氏は思想問題で追われ、中島校長が拾ったという噂に、軍学校の予備校と陰口を云われた八中の校長の一面を見、指導者の厳しさを感じた。
 戦時下、二宮翁夜話やダンテ神曲を語り、俳句の世界に潤いを与えてくれた先生方。
 軍の学校へ行けという父親に反対してなぐられたと歎いていた友。また第一回特攻隊のS君ら多くの戦死した友の冥福を祈ります。
(福田善治 中15回「創立60周年記念誌」P150)