「1950年度 (昭和25年度)」の版間の差分
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3月 8日 卒業式 [[中8回 | 中八回生]](男子190名)<br> | 3月 8日 卒業式 [[中8回 | 中八回生]](男子190名)<br> | ||
3月XX日 終業式 | 3月XX日 終業式 | ||
| rowspan="3" style="width: 75% ;vertical-align:top" |''' | | rowspan="3" style="width: 75% ;vertical-align:top" |'''小山台の教育を現している校歌'''<br> | ||
現在の小山台高校校歌は、1950(昭和25)年7月、広く職員・生徒・父母に呼びかけて募集し、初め音楽科担任の柳力先生を中心とする小委員会で、のち職員・生徒・PTA委員からなる校歌選定審査委員会によって広募作品18編の中から、1951(昭和26年)2月6日に採択決定された。制定された新校歌は本校国語科講師の故栗原源七先生の手になるもので、友情・自主・理想を謳いあげあげた格調の高い作品である。作曲は芸大教授平井保喜氏にお願いした。 | |||
1951(昭和26)年5月27日、星講堂において作曲者平井保喜教授の指揮により、聴衆1600余人を集めて盛大な発表会が催された。 | |||
作曲者について、美術科講師の武田良三先生は次のように語っておられる。 | |||
「わたくしが本校の専任であったとき、担任していたクラスの小林道夫君(現在ピアニスト)が芸大の平井保喜先生に師事していたので、その関係でお願いしました。当時の校欣としては非常に清新な曲で、メロディーも現代的な感覚であったので、生徒がなかなかおぼえられず、8中校歌ばかり歌っていたのを記憶しています。」<br> | |||
===== 都立小山台高校校歌 ===== | |||
( | 1.富士見はるかす 窓晴れて<br> | ||
銀杏のみどり 濃きところ<br> | |||
語らいつどう 若人の<br> | |||
こころの琴に ひびきあり<br> | |||
敬愛の花 ここに咲く<br> | |||
「小山台」<br> | |||
おゝここぞ平和のはなぞの<br> | |||
2.象る菊の 香も清く<br> | |||
純情燃ゆる 青春の<br> | |||
我等に自主の 意気高く<br> | |||
自由の翼 明日を待ち<br> | |||
明るき誇り ここに満つ<br> | |||
「小山台」<br> | |||
おゝここぞ 文化のみなもと<br> | |||
3.朝雲流れ 中空に<br> | |||
八角塔の そそり立つ<br> | |||
揺がぬ力 礎に<br> | |||
たかき理想へ 進むとき<br> | |||
希望の光 ここにさす<br> | |||
「小山台」<br> | |||
おゝここぞ 精神のふるさと<br> | |||
(「創立50周年記念誌」P29)<br><br> | |||
'''生徒会は昭和25年設立'''<br> | |||
生徒会は1950(昭和25)年設立された。会則は設立当時のものが改正されて現行のものは1962(昭和37)年4月1日より実施されたものである。<br> | |||
生徒会は全校生徒で組織され、諸活動は次のように行なわれている。<br> | |||
生徒総会は最高議決機関として前後期2回定例総会を行ない、臨時総会は全生徒の1/3または評議会の要求で中央執行委員会によって開かれる仕組になっている。<br> | |||
ホームルームは生徒が直接活動を行なう場として正代表の外13種の委員(上図参照)19名で運営されている。<br> | |||
クラブ活動委員会は各クラブを代表するクラブ活動委員1名と会計1名からなり、クラブは文芸社会・理工・運動の4部32班、同好会・学佼直轄班から成り立っている。<br> | |||
評議会は生徒総会につぐ議決機関で議長の外25名で構成され、中央執行委員会の活動、実行機関の報告をうけ承認を与え、また生徒会会則の細則を定めている。<br> | |||
中央執行委員会は生徒会の執行機関でHR・クラブ両活動の全般の事務・会計を統轄し生徒会を代表している。構成は会長・副会長各1名、中央執行委員5名、学校祭常任委員長1名からなっている。<br> | |||
実行機関は中央執行委員会の下で9委員会、4局より成り立っている。<br> | |||
(「創立50周年記念誌」PY57)<br><br> | |||
'''ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト'''<br> | '''ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト'''<br> | ||
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(「創立XX周年記念誌」PYYY) | (「創立XX周年記念誌」PYYY) | ||
|- | |- | ||
| style="text-align:center" |世 相 | | style="text-align:center" |世 相 | ||
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|style="vertical-align:top"| | |style="vertical-align:top"| | ||
6月25日 朝鮮戦争始まる<br> | |||
7月2日 金閣寺焼失<br> | |||
8月 第二次米国教育使節団来日<br><br> | |||
流行語-おおミステイク・曲学阿世<br> | |||
流行歌-水色のワルツ<br> | |||
|} | |} | ||
</div> | </div> | ||
<br><br> | <br><br> | ||
==できごと== | ==できごと== |
2023年12月3日 (日) 14:49時点における最新版
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1950(昭和25)年度
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できごと | 詳細・引用・寄稿 |
4月 2日 始業式 4月 3日 健康診断 9月1日 始業式 1月X日 始業式 |
小山台の教育を現している校歌 現在の小山台高校校歌は、1950(昭和25)年7月、広く職員・生徒・父母に呼びかけて募集し、初め音楽科担任の柳力先生を中心とする小委員会で、のち職員・生徒・PTA委員からなる校歌選定審査委員会によって広募作品18編の中から、1951(昭和26年)2月6日に採択決定された。制定された新校歌は本校国語科講師の故栗原源七先生の手になるもので、友情・自主・理想を謳いあげあげた格調の高い作品である。作曲は芸大教授平井保喜氏にお願いした。
1951(昭和26)年5月27日、星講堂において作曲者平井保喜教授の指揮により、聴衆1600余人を集めて盛大な発表会が催された。
作曲者について、美術科講師の武田良三先生は次のように語っておられる。
「わたくしが本校の専任であったとき、担任していたクラスの小林道夫君(現在ピアニスト)が芸大の平井保喜先生に師事していたので、その関係でお願いしました。当時の校欣としては非常に清新な曲で、メロディーも現代的な感覚であったので、生徒がなかなかおぼえられず、8中校歌ばかり歌っていたのを記憶しています。」 都立小山台高校校歌1.富士見はるかす 窓晴れて |
世 相 | |
6月25日 朝鮮戦争始まる |
できごと
- 4月3日 全日制第1学年に新制中学第1回卒業の男子300名、女子100名( 高5回生)の入学を許可、第1学年8、第2学年9、第3学年8計25学級となる
- 2月6日 新校歌決定(校歌制定審査委員会で栗原源七講師の作詞を採用決定し、平井保喜氏に作曲を依頼)
- 2月23日 新聞班横堀特派員文部省にて天野文部大臣と会見
- 詳細は、「議論」より転記し、折りたたみ式で掲載予定
- 3月6日 卒業式 高3回生(男子386名)
- 3月中旬 柔道班再発足
教職員
職名 | 担任学科 | 氏 名 | 担任 | 分 掌 | 班活顧問 | 本校就職 | PTA | |
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校長 | 修身 | 岩本 實次郎 | 1923/04/12 | |||||
教諭 | 国語 | 坂井 寿夫 | 1941/03/31 | |||||
松永 正修 | 1939/03/31 | |||||||
落合 光禎 | 1945/09/30 | |||||||
舞田 正達 | 1939/06/30 | |||||||
渋谷 素男 | 1946/05/15 | |||||||
伊藤 茂 | 1948/06/10 | |||||||
鵜川 昇 | 3E | 1949/10/31 | ||||||
青木 木菟哉 | 1950/03/31 | |||||||
社会 | 日下部 寅次郎 | 1939/03/31 | ||||||
森 貞成 | 1944/03/31 | |||||||
平井 正士 | 1947/06/30 | |||||||
宮田 時雄 | 1947/06/15 | |||||||
塩野入 啓晃 | 1948/03/31 | |||||||
野々山 正司 | 1949/03/31 | |||||||
木村 稔 | 1949/09/15 | |||||||
赤堀 景章 | 1950/03/31 | |||||||
世界史 | 三橋 力 | 3B | 1949/05/15 | |||||
数学 | 高輪 休郎 | 1925/05/15 | ||||||
赤沼 実 | 1929/10/09 | |||||||
崎谷 巖 | 1940/03/26 | |||||||
奥野 一雄 | 1946/03/31 | |||||||
松岡 剛 | 1947/10/10 | |||||||
不島 静夫 | 1947/09/30 | |||||||
井沢 弘児 | 1950/03/31 | |||||||
竹内 庸雄 | 1950/03/31 | |||||||
理科 | 鈴木 幸夫 | 1950/03/31 | ||||||
物理 | 氷見 至 | 1944/09/20 | ||||||
八乙女 盛典 | 1949/04/30 | |||||||
化学 | 大岩 誠 | 1944/07/14 | ||||||
園山 忠夫 | 3F | 1946/09/15 | ||||||
生物 | 矢野 佐 | 3G | 1942/03/31 | |||||
松田 亀吉 | 1938/03/31 | |||||||
杉村 親一 | 1947/03/31 | |||||||
英語 | 大伴 峻 | 3H | 学年主任 | 1924/03/31 | ||||
中村 禎 | 1938/03/31 | |||||||
大島 長次 | 3A | 1945/06/20 | ||||||
深堀 修 | 3K | 1945/10/31 | ||||||
堅川 吉英 | 1950/03/31 | |||||||
勢山 秀子 | 1949/05/31 | |||||||
保健体育 | 岐部 信之助 | 1924/02/11 | ||||||
薗頭 潔 | 1946/08/31 | |||||||
松永 節 | 1949/03/31 | |||||||
榎木 繁男 | 1949/03/31 | |||||||
古野 雅子 | 1950/03/31 | |||||||
音楽 | 柳 力 | 1948/03/31 | ||||||
工作 | 田村 耕 | 1941/07/20 | ||||||
書道 | 麻生 秀二 | 1923/03/31 | ||||||
嘱託 | 国語 | 飯沢 紳美 | 1944/03/31 | |||||
理科 | 上島 千一 | 1949/08/31 |
講師・校医
教科 | 氏名 | ||
---|---|---|---|
講師 | 国語 | 栗原 源七 | |
英語 | 黒岩 善吉 | ||
美術 | 武田 良三 | ||
学校医 | 岡田 省三 | ||
武田 久孝 | |||
学校医 | 歯科 | 鎌田 栄一 |
事務職員
職 名 | 氏 名 | 着 任 |
---|---|---|
事務長 | 小田 実 | 1947/10/01 |
事務主事 | 唐木 厚 | 1946/10/09 |
井上 とみ | 1948/10/15 | |
三浦 忠雄 | 1950/02/31 | |
白川 房子 | 1950/03/31 | |
国分 英太郎 | 1949/08/31 | |
佐生 せい子 | 1949/08/31 | |
事務助手 | 岡本 秀男 | 1947/06/07 |
中村 満 | 1948/11/15 | |
渡辺 里子 | 1950/03/31 | |
主事補 | 茂木 弘 | 1947/02/22 |
事務補佐 | 竹花 隆司 | 1948/03/31 |
用務員 | 上田 信吉 | 1936/07/22 |
君塚 盛 | 1945/03/15 | |
河隅 幸一 | 1946/03/31 | |
平野 福三郎 | 1947/05/06 | |
守衛 | 高橋 芳雄 | 1946/07/09 |
学芸会
- 11月 1日
学芸会の写真
- 以下の写真は、高4回 小林大二 様 ご家族の 小林ジュディ由利江 様より提供いただきました。→「高4回生のページ」にたくさんの資料がありますのでご覧ください。
- 高4回の学芸会の写真の中に、中2Eのときの写真が混入したので、こちらに掲載しています。中2Eのときでしたら1947(昭和22)年の学芸会でしょうか。
卒業アルバム
小山台新聞
- 1950(昭和25)年度発行 1950年度から新聞発行元は「新聞班」と変更になる。
- 「小山台新聞1950(昭和25)年7月20日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→ 「小山台新聞1950(昭和25)年7月20日発行」へのリンク
- 「小山台新聞1950(昭和25)年12月1日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→ 「小山台新聞1950(昭和25)年12月1日発行」へのリンク
「小山台新聞1951(昭和26)年3月1日発行」は以下のリンクからご覧になれます。 | |
「小山台新聞1951(昭和26)年3月1日発行」へのリンク |
関連項目
*← 1949年度 (昭和24年度) *→ 1951年度 (昭和26年度)
脚注
・
2023年12月3日:直近編集者:NMKtakaji
TimeStamp:20231203144928