「トーク:1955年度 (昭和30年度)」の版間の差分

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
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(ページの作成:「'''できごと ''' 4月 入学式 5月 女子制服決定 5月18日 1・2年遠足 6月19日 紫雲丸弔慰金募集 7月14日 海洋班ヨット大井競馬場附近で転覆、救助さる 7月21日~30日 夏期講習(1・2年) 7月21日~8月4日 夏期講習(3年) 9月19日 小山台新聞20号、黒板新聞1200号発刊 9月23日~24日 学校祭 10月2日 運動会 11月 裏門改修、木扉を鉄扉に改める…」)
 
 
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流行歌:「月がとっても青いから」「りんどう峠」
流行歌:「月がとっても青いから」「りんどう峠」
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当時の思い出 掲載に使う場合は要編集
~~~小山台での生活は勉学に明け暮れするものではなく、
30周年記念行事、運動会での華やかな応援合戦や仮装行列、各種の組別対抗試合やサークル活動等、
小山台は「一流大学受験校」といったイメージとは裏腹に青春を楽しんだ思い出に豊かに彩られている。
秋の運動会の終了後、男女生徒が校庭で一緒になってフォークダンスを踊ったのもこの頃が最初であろう。
今の学生には何でもないことだろうが、われわれの世代には共学を意識する大変新鮮な出来事であったように思う。
(60周年記念誌P155 高8回 新川健三郎)
武田校医の憶い出
 武田先生には昭和13年から55年に亡くなられるまでの長い間、本校の行為として面倒を見て戴きました。
 武田先生は飄々とした名利に恬淡な方でした。先生は本校を大変に愛さ運動会などは特に楽しみにして付き添って下さいました。
 注射は特にお上手で、時々大きく手を廻してパッと打つあたりは正に神技で、よく生徒を驚かしたり喜ばせたりされておられました。また大変お話がお好きでお宅にお伺いすると楽しそうに昔のことを繰返し話され、御愛蔵の珍品を嬉しそうに見せて下さいました。そんなときに患者さんが来られると、今忙しいから後で来なさいと帰されたのには恐縮されられたものです。もし先生が現在の新校舎を見られたらどんなに喜ばれることでしょう。またそれにも倍して旧校舎を懐かしがられることでしょう。
 先生は今の浜田屋別館の隣の300坪の藪のような空き地の古い小さな庵に住んで、仙人のような生活をしながら医院に通われ、愛称ヤブさんといって皆から親しまれておられました。
(60周年記念誌P156 奥野一雄先生)

2023年8月13日 (日) 15:48時点における最新版

できごと 4月 入学式 5月 女子制服決定

5月18日 1・2年遠足

6月19日 紫雲丸弔慰金募集

7月14日 海洋班ヨット大井競馬場附近で転覆、救助さる

7月21日~30日 夏期講習(1・2年)

7月21日~8月4日 夏期講習(3年)

9月19日 小山台新聞20号、黒板新聞1200号発刊

9月23日~24日 学校祭

10月2日 運動会

11月 裏門改修、木扉を鉄扉に改める

11月23日~27日 2年修学旅行

11月26日 1・3年遠足

12月5日 全校マラソン

12月23日 体育館落成式挙行

2月11日 スケート教室

2月15日 オリンピック派遣費募金

3月1日~2日 合同選抜学力検査のため休校

3月6日 高等学校第8回卒業式


世相 5月8日 砂川闘争

8月3日 民主党の「うれうべき教科書」配付、問題化

8月6日 第1回原水爆禁止世界大会


流行語:「ノイローゼ」「太陽族」「兵隊の位になおすと」

流行歌:「月がとっても青いから」「りんどう峠」


S30 体育館完成(70周年記念誌巻頭).jpg


当時の思い出 掲載に使う場合は要編集

~~~小山台での生活は勉学に明け暮れするものではなく、 30周年記念行事、運動会での華やかな応援合戦や仮装行列、各種の組別対抗試合やサークル活動等、 小山台は「一流大学受験校」といったイメージとは裏腹に青春を楽しんだ思い出に豊かに彩られている。 秋の運動会の終了後、男女生徒が校庭で一緒になってフォークダンスを踊ったのもこの頃が最初であろう。 今の学生には何でもないことだろうが、われわれの世代には共学を意識する大変新鮮な出来事であったように思う。

(60周年記念誌P155 高8回 新川健三郎)


武田校医の憶い出

 武田先生には昭和13年から55年に亡くなられるまでの長い間、本校の行為として面倒を見て戴きました。

 武田先生は飄々とした名利に恬淡な方でした。先生は本校を大変に愛さ運動会などは特に楽しみにして付き添って下さいました。

 注射は特にお上手で、時々大きく手を廻してパッと打つあたりは正に神技で、よく生徒を驚かしたり喜ばせたりされておられました。また大変お話がお好きでお宅にお伺いすると楽しそうに昔のことを繰返し話され、御愛蔵の珍品を嬉しそうに見せて下さいました。そんなときに患者さんが来られると、今忙しいから後で来なさいと帰されたのには恐縮されられたものです。もし先生が現在の新校舎を見られたらどんなに喜ばれることでしょう。またそれにも倍して旧校舎を懐かしがられることでしょう。

 先生は今の浜田屋別館の隣の300坪の藪のような空き地の古い小さな庵に住んで、仙人のような生活をしながら医院に通われ、愛称ヤブさんといって皆から親しまれておられました。

(60周年記念誌P156 奥野一雄先生)