「岩崎源兵衛」の版間の差分

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(ページの作成:「thumb|250px|岩崎源兵衛 先生'''岩崎 源兵衛'''(いわさき げんべえ、19XX年XX月XX日 - 19XX年XX月XX日)は、日本の教育者。府立第八中学校 社会教諭 ==本校歴== :1923(大正12)年 3月21日 府立八中社会教諭として赴任 : :1939(昭和14)年 9月 府立八中を退任 : : <br><br> ==関連項目== :着任:1923年 3月21日 :退任:1939年 9月 ==岩崎先生の思い出== <br><…」)
 
 
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[[ファイル:Sample.jpg|thumb|250px|岩崎源兵衛 先生]]'''岩崎 源兵衛'''(いわさき げんべえ、19XX年XX月XX日 - 19XX年XX月XX日)は、日本の教育者。府立第八中学校 社会教諭
[[ファイル:一覧用画像_岩崎源兵衛.jpg|thumb|250px|岩崎源兵衛 先生 (中1回卒業アルバム)]]'''岩崎 源兵衛'''(いわさき げんべえ、19XX年XX月XX日 - 19XX年XX月XX日)は、日本の教育者。府立第八中学校 社会教諭
==本校歴==
==本校歴==
:1923(大正12)年 3月21日 府立八中社会教諭として赴任
:1923(大正12)年 3月21日 府立八中社会教諭として赴任
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==岩崎先生の思い出==
==岩崎先生の思い出==
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==「八中誕生期」==
≪八中誕生期 岩崎源兵衛≫


<岡田初代校長の教育理念>
八中は大正12年の開校であるが、私はその前の年から開校の順分母手伝いをしたので、それから書き始めよう。岡田先生は元青山師範の教頭であった。そこの校長の娘が私の妻で妻の父は私どもと同居していたので、岡田先生が好調に出られる事情を聞いていた。翌年八中が出来、その校長に岡田教頭を推薦しておいたのが実現する事となった。
その頃岡田先生から、校長になったら君来て呉れといわれていた。何れも任命の事例は貰っていなかったが、毎週1,2度くらい渋谷の岡田先生のお宅で、八中の規則を作ったり、校訓のを相談したり、帽子の徽章を考案したりして数か月後に青山師範の校舎を借りて、第1回の入学試験を行ない、4月16日に入学式を行った
岡田先生の教育理念は、人格となるべき人間の素質を発揮発現させることを以て本領としていた。即ち生徒が生まれながらに具有している人間性を認め、これを生徒が発揮発現するのを助長する事が教育である。生徒の全然具有していないものを、教師が外から取り付けることではない。その発揮発現も、教師が外から不自然に引っ張ってはいけないといって、先生は度々次のようなことを言った。
「稲の伸びることの遅いのが待ちきれず、毎朝田に行って稲の葉末を引っ張って伸ばそうとしているのを見て、そんな無理をするものではない」といった中国のことばを岡田先生は良く引用して、ルソーの自然主義教育を強調していた。また、先生は鉢植えの松の如く委縮させてはならぬといっていた。
岡田先生は人格教育に強い信念を所持し、その人造りに関する考えは「学校のしつけ」(23ページ参照)に表れている。
『言心一致を旨とし、公明正大に行動すべし。自他の人格を重んじ、自治の良習を養うべし。礼儀を守り廉恥を重んじ、常に快活の気概あるべし。』であったように思うが、うろ覚えであるから違いかも知れない。
~独自の教育方針を~
八中は府立中学第八番目の創立であるから、一中や四中にまねず、独自の教育方針を立てた。即ち知育のみならず、情操も意志も調和的に発達させること、すなわち知情意全体、精神全体、精神のみならず精神身体全体の全人格教育を理想としていた。
一高に入学しさえすれば、身体はどうなってもかまわない、思想はどうなってもかまわないという教育を排斥していた。即ち中学卒業までの教育であったり、一高入学までの教育であってはならぬ。70年の長い生涯を幸福に送るように考えた教育であった。
岡田先生は真の教育者であった。人格教育に強い信念を持って、他をまねず先生独自の理念で八中を創立した。入学試験に学科試験を省いて抽選にしたり、学期学年試験に学科試験を全廃したりした。また、人間信用主義を強く打ち出し、図書館は自由閲覧制度で、生徒が自由に書庫にはいり、自分の読みたい本を選んで取って、閲覧室で読み、終わって自ら元の位置に返す。これは全く生徒を信用した制度で、それで一冊も紛失したことはなかった。
~卒業生に与えた人間像~
八中第十回生の馬場信夫君等のクラス会が、過日如水会館で開催された。卒業25周年で全国から35名集まった。その中のひとりで、工学博士の同窓が「八中を出てから25年間に知識を増し経験を積んだが、自分の性格は変わらず、八中時代に形成されたままである。」といわれたので、私はルソーの言を思い出し、13,4才から18,9才の間に人間は第2の誕生をし、人格として社会に生まれ出た好例を見た。
この博士が着席したら、その筋向いにいたほかの同窓が起ち上がって、「私も八中を出て、勉強して学位を取り目下新潟で病院長をして医者や看護婦を使い、PTAの会長もしていて、言うことすること色々あるが、私の性格は一貫して八中時代に形成されたままである」といって、八中教育に感謝していた。
また、第2回生のクラス会で、こんなことをきいた。その晩集まった中には日銀局長の外山君、厚生省局長の聖成君も居った。ひとりひとり起って、35年の過去を語っていた。それを皆静かに聞いていた。ある同窓が肺病で6年寝たきりでいる間、その夫人が働いて薬代を儲け、子供を育てて呉れたと夫人に対する感謝を語っていた。それを全員が、わがことの如く感心して聞いていた。
他所の集まりでは、私語雑談したり酌婦にたわむれたりして、のろけを聞かされているのだなどといって聞かぬものだ。52,3才の昔の学友が融和一体、あるいは悲しみあるいは喜んで、近頃見られぬ美しい会合で合った。岡が先生に見せたかった。
岡田先生は人格教育に力を入れると同時に、体育に非常に力を入れた。身長と体重との関係を指数で表し、均斉な発達を望んでいた。また、府立中学校としては、珍しく早期にプールを作った。私が資金作りの役を引き受けて借金し、先ず土地を買い、その上にプールを作った。初夏の6月完成したら、父兄の寄付も完納となり、借金は全部返済した。
八中生1400人中、体格指数の一番良いのを3人選びその平均を出し、ドイツの全学年中体格の一番よいのを3人選びその平均を出して、両平均を比較したら八中の方がよかったとは、岡田校長の自慢話の一つであった。45周年にあたり、改めて先生に感謝します。(旧職員・現佼成学園女子高等学校長)
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==「岡田校長の教育理念と教育方法」==
『八四会卒業記念文集_P10_岩崎源兵衛_岡田校長の教育理念』岩崎源兵衛
1.岡田校長の教育関する根本理念
岡田校長の令弟岡田虎二郎先生は、岡田子規静座法の創始者で、静座の目的は、肉体の源であり、精神の源である生命の根源を養うことであるといっていた。すなわち、自然の良能を養うことであり、生命の生々開展を助長することが静生の目的であるといっていた。令兄岡田藤十郎先生の教育に関する根本理念も、また、健康の源であり、徳性知能の源である生命の根源を養うことであった。すなわち、宇宙の大生命の生々開展と同一体である人間個人の生々開展を確信して、生徒の生命の根源を養い、生徒の生命の分化発達した徳性知能を発現発揮させることが岡田校長の信仰であり、信念であり、教育に関する根本理念であった。
2.岡田教育の4本柱
(1)潜在可能性の確信
生徒には、学校に入学してくる前に、既に、立派な人間的可能性が潜在していると岡田校長は確信していた。岡田校長が八中の校長になる前から、人間は、本来、性は善であると信じていた。それで、校長は、生徒の未達の力、生徒の潜勢の美、生徒の未見の人格を本心から尊重していた。エマーソンが教育の秘訣は生徒を尊敬するところにあると言ったそうだが、岡田校長の本心からエマーソンの言を実行していた。それで、八中の校訓にも、自他の人格を尊重せよとうたい、教授にも、詰込主義を排して、発現主義教育を取り入れた。
(2)体験の重視
潜在可能性を、生徒に発現発揮させるためには、生徒自身に練習を積ませることが必要である。それで、岡田校長は葉中校長になる前の青山師範学校教諭時代に、計算練習盤を発明していた。八中でも飯野先生はそれを八中生に使わせていた。また、岡田先生は独特の練習方法を創案していた。私は70年前、豊島師範学校在職中、この練習盤をこの方法で生徒に練習させた。岡田校長は、練習ののみならず、実験実習を重視し、また、実践実行演習等も重んじ、総じて、体験的教育を重んじていた。そして学期末、学年末、中間の試験は廃止した。この試験廃止のために、八中は、年間、2か月余りも普通の授業を他行より多く出来た。毎日毎時の練習実習中に、生徒の学力、体力、徳力を発現発揮させてしまうので、学期末の試験、学年末の試験まで、生徒に暗記させて置く必要はなかった。これは実力主義教育であって、試験主義教育ではなく、暗記強要でもなく、倫知教育でもなかった。
(3)喜びと意欲を起こさせること
生徒自身に体験を積ませるには、先ず、生徒に喜びと意欲を起こさせることが先決である。生徒をして喜び勇んで意欲的に学習させるにはどうするか。岡田校長は、生徒に失意とか落胆とかをさせてはいけない。生徒をがっかりさせることは禁物である。生徒の欠点短所をさしてはいけない。生徒の悪いところを探して出してはいけない。とぶか教職員にも言い渡していた。生徒の欠点短所を挙げるよりも、生徒の長所美点を先に挙げて、長所美点を発現発揮させ、それによって、欠点短所は生徒自身に矯めさせようといっていた。生徒が体験を積んで、事故の進歩向上を自覚すれば生徒の内心に喜びと意欲が自然に湧く。また、生徒は気づかずにいるが、生徒には、誰にも、可能性が潜在しているのである、と生徒自身に自覚さえることによって生徒に喜びと意欲を起こさせよ、と岡田校長は言っていた。
(4)教育愛 生徒愛
生徒に喜びと意欲を起こさせる原動力は、先生の教育教育愛生徒愛である。岡田校長は教育が本職で、教育が道楽で、教育が趣味であった。政治や経済や社会には余り、興味ががなかった、生徒本来の潜在可能性がすくすくと伸びているのをこの上もなく喜び、生徒の知だけでなく、情操も意志も即ち知情意全体、精神全体、否、精神のみならず精神身体全体の全人格の向上していくことを何よりも楽しみにしてい一生を送った。
かって校長が牡丹の花一輪を持って、校長室で、一人で、非常に喜んでいるのを、私は外から眺めたことがあった。その心の中にはこの花のように、生徒が、めいめい、その潜勢の美を発現発揮してほしいと思っていのであろう。
3.以上をまとめて言うと、先生の教育愛生徒愛によって、生徒に喜びと意欲を賦与し、生徒は喜び勇んで意欲的に体験を積んで潜在可能性を発現発揮する生徒の学習生活を指導していたのが岡田教育であった。
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==関連事項==
==関連事項==
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岩崎源兵衛 先生 (中1回卒業アルバム)

岩崎 源兵衛(いわさき げんべえ、19XX年XX月XX日 - 19XX年XX月XX日)は、日本の教育者。府立第八中学校 社会教諭

本校歴

1923(大正12)年 3月21日 府立八中社会教諭として赴任
1939(昭和14)年 9月 府立八中を退任



関連項目

着任:1923年 3月21日
退任:1939年 9月


岩崎先生の思い出





「八中誕生期」

≪八中誕生期 岩崎源兵衛≫

<岡田初代校長の教育理念>

八中は大正12年の開校であるが、私はその前の年から開校の順分母手伝いをしたので、それから書き始めよう。岡田先生は元青山師範の教頭であった。そこの校長の娘が私の妻で妻の父は私どもと同居していたので、岡田先生が好調に出られる事情を聞いていた。翌年八中が出来、その校長に岡田教頭を推薦しておいたのが実現する事となった。 その頃岡田先生から、校長になったら君来て呉れといわれていた。何れも任命の事例は貰っていなかったが、毎週1,2度くらい渋谷の岡田先生のお宅で、八中の規則を作ったり、校訓のを相談したり、帽子の徽章を考案したりして数か月後に青山師範の校舎を借りて、第1回の入学試験を行ない、4月16日に入学式を行った 岡田先生の教育理念は、人格となるべき人間の素質を発揮発現させることを以て本領としていた。即ち生徒が生まれながらに具有している人間性を認め、これを生徒が発揮発現するのを助長する事が教育である。生徒の全然具有していないものを、教師が外から取り付けることではない。その発揮発現も、教師が外から不自然に引っ張ってはいけないといって、先生は度々次のようなことを言った。 「稲の伸びることの遅いのが待ちきれず、毎朝田に行って稲の葉末を引っ張って伸ばそうとしているのを見て、そんな無理をするものではない」といった中国のことばを岡田先生は良く引用して、ルソーの自然主義教育を強調していた。また、先生は鉢植えの松の如く委縮させてはならぬといっていた。 岡田先生は人格教育に強い信念を所持し、その人造りに関する考えは「学校のしつけ」(23ページ参照)に表れている。 『言心一致を旨とし、公明正大に行動すべし。自他の人格を重んじ、自治の良習を養うべし。礼儀を守り廉恥を重んじ、常に快活の気概あるべし。』であったように思うが、うろ覚えであるから違いかも知れない。

~独自の教育方針を~ 八中は府立中学第八番目の創立であるから、一中や四中にまねず、独自の教育方針を立てた。即ち知育のみならず、情操も意志も調和的に発達させること、すなわち知情意全体、精神全体、精神のみならず精神身体全体の全人格教育を理想としていた。 一高に入学しさえすれば、身体はどうなってもかまわない、思想はどうなってもかまわないという教育を排斥していた。即ち中学卒業までの教育であったり、一高入学までの教育であってはならぬ。70年の長い生涯を幸福に送るように考えた教育であった。 岡田先生は真の教育者であった。人格教育に強い信念を持って、他をまねず先生独自の理念で八中を創立した。入学試験に学科試験を省いて抽選にしたり、学期学年試験に学科試験を全廃したりした。また、人間信用主義を強く打ち出し、図書館は自由閲覧制度で、生徒が自由に書庫にはいり、自分の読みたい本を選んで取って、閲覧室で読み、終わって自ら元の位置に返す。これは全く生徒を信用した制度で、それで一冊も紛失したことはなかった。

~卒業生に与えた人間像~ 八中第十回生の馬場信夫君等のクラス会が、過日如水会館で開催された。卒業25周年で全国から35名集まった。その中のひとりで、工学博士の同窓が「八中を出てから25年間に知識を増し経験を積んだが、自分の性格は変わらず、八中時代に形成されたままである。」といわれたので、私はルソーの言を思い出し、13,4才から18,9才の間に人間は第2の誕生をし、人格として社会に生まれ出た好例を見た。 この博士が着席したら、その筋向いにいたほかの同窓が起ち上がって、「私も八中を出て、勉強して学位を取り目下新潟で病院長をして医者や看護婦を使い、PTAの会長もしていて、言うことすること色々あるが、私の性格は一貫して八中時代に形成されたままである」といって、八中教育に感謝していた。 また、第2回生のクラス会で、こんなことをきいた。その晩集まった中には日銀局長の外山君、厚生省局長の聖成君も居った。ひとりひとり起って、35年の過去を語っていた。それを皆静かに聞いていた。ある同窓が肺病で6年寝たきりでいる間、その夫人が働いて薬代を儲け、子供を育てて呉れたと夫人に対する感謝を語っていた。それを全員が、わがことの如く感心して聞いていた。 他所の集まりでは、私語雑談したり酌婦にたわむれたりして、のろけを聞かされているのだなどといって聞かぬものだ。52,3才の昔の学友が融和一体、あるいは悲しみあるいは喜んで、近頃見られぬ美しい会合で合った。岡が先生に見せたかった。 岡田先生は人格教育に力を入れると同時に、体育に非常に力を入れた。身長と体重との関係を指数で表し、均斉な発達を望んでいた。また、府立中学校としては、珍しく早期にプールを作った。私が資金作りの役を引き受けて借金し、先ず土地を買い、その上にプールを作った。初夏の6月完成したら、父兄の寄付も完納となり、借金は全部返済した。 八中生1400人中、体格指数の一番良いのを3人選びその平均を出し、ドイツの全学年中体格の一番よいのを3人選びその平均を出して、両平均を比較したら八中の方がよかったとは、岡田校長の自慢話の一つであった。45周年にあたり、改めて先生に感謝します。(旧職員・現佼成学園女子高等学校長)



「岡田校長の教育理念と教育方法」

『八四会卒業記念文集_P10_岩崎源兵衛_岡田校長の教育理念』岩崎源兵衛

1.岡田校長の教育関する根本理念 岡田校長の令弟岡田虎二郎先生は、岡田子規静座法の創始者で、静座の目的は、肉体の源であり、精神の源である生命の根源を養うことであるといっていた。すなわち、自然の良能を養うことであり、生命の生々開展を助長することが静生の目的であるといっていた。令兄岡田藤十郎先生の教育に関する根本理念も、また、健康の源であり、徳性知能の源である生命の根源を養うことであった。すなわち、宇宙の大生命の生々開展と同一体である人間個人の生々開展を確信して、生徒の生命の根源を養い、生徒の生命の分化発達した徳性知能を発現発揮させることが岡田校長の信仰であり、信念であり、教育に関する根本理念であった。

2.岡田教育の4本柱 (1)潜在可能性の確信 生徒には、学校に入学してくる前に、既に、立派な人間的可能性が潜在していると岡田校長は確信していた。岡田校長が八中の校長になる前から、人間は、本来、性は善であると信じていた。それで、校長は、生徒の未達の力、生徒の潜勢の美、生徒の未見の人格を本心から尊重していた。エマーソンが教育の秘訣は生徒を尊敬するところにあると言ったそうだが、岡田校長の本心からエマーソンの言を実行していた。それで、八中の校訓にも、自他の人格を尊重せよとうたい、教授にも、詰込主義を排して、発現主義教育を取り入れた。 (2)体験の重視 潜在可能性を、生徒に発現発揮させるためには、生徒自身に練習を積ませることが必要である。それで、岡田校長は葉中校長になる前の青山師範学校教諭時代に、計算練習盤を発明していた。八中でも飯野先生はそれを八中生に使わせていた。また、岡田先生は独特の練習方法を創案していた。私は70年前、豊島師範学校在職中、この練習盤をこの方法で生徒に練習させた。岡田校長は、練習ののみならず、実験実習を重視し、また、実践実行演習等も重んじ、総じて、体験的教育を重んじていた。そして学期末、学年末、中間の試験は廃止した。この試験廃止のために、八中は、年間、2か月余りも普通の授業を他行より多く出来た。毎日毎時の練習実習中に、生徒の学力、体力、徳力を発現発揮させてしまうので、学期末の試験、学年末の試験まで、生徒に暗記させて置く必要はなかった。これは実力主義教育であって、試験主義教育ではなく、暗記強要でもなく、倫知教育でもなかった。 (3)喜びと意欲を起こさせること 生徒自身に体験を積ませるには、先ず、生徒に喜びと意欲を起こさせることが先決である。生徒をして喜び勇んで意欲的に学習させるにはどうするか。岡田校長は、生徒に失意とか落胆とかをさせてはいけない。生徒をがっかりさせることは禁物である。生徒の欠点短所をさしてはいけない。生徒の悪いところを探して出してはいけない。とぶか教職員にも言い渡していた。生徒の欠点短所を挙げるよりも、生徒の長所美点を先に挙げて、長所美点を発現発揮させ、それによって、欠点短所は生徒自身に矯めさせようといっていた。生徒が体験を積んで、事故の進歩向上を自覚すれば生徒の内心に喜びと意欲が自然に湧く。また、生徒は気づかずにいるが、生徒には、誰にも、可能性が潜在しているのである、と生徒自身に自覚さえることによって生徒に喜びと意欲を起こさせよ、と岡田校長は言っていた。 (4)教育愛 生徒愛 生徒に喜びと意欲を起こさせる原動力は、先生の教育教育愛生徒愛である。岡田校長は教育が本職で、教育が道楽で、教育が趣味であった。政治や経済や社会には余り、興味ががなかった、生徒本来の潜在可能性がすくすくと伸びているのをこの上もなく喜び、生徒の知だけでなく、情操も意志も即ち知情意全体、精神全体、否、精神のみならず精神身体全体の全人格の向上していくことを何よりも楽しみにしてい一生を送った。 かって校長が牡丹の花一輪を持って、校長室で、一人で、非常に喜んでいるのを、私は外から眺めたことがあった。その心の中にはこの花のように、生徒が、めいめい、その潜勢の美を発現発揮してほしいと思っていのであろう。

3.以上をまとめて言うと、先生の教育愛生徒愛によって、生徒に喜びと意欲を賦与し、生徒は喜び勇んで意欲的に体験を積んで潜在可能性を発現発揮する生徒の学習生活を指導していたのが岡田教育であった。



関連事項

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脚注: ・

2024年7月26日:直近編集者:Teisaku
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