「加藤 楸邨」の版間の差分

提供:八中・小山台デジタルアーカイブ
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
(2人の利用者による、間の4版が非表示)
1行目: 1行目:
[[ファイル:Sample.jpg|thumb|250px|加藤 楸邨 先生]]'''加藤 楸邨'''(かとう しゅうそん、1905年5月26日 - 1993年7月3日)は、日本の俳人・国文学者。本名は健雄(たけお)。府立第八中学校 国語教諭
[[ファイル:一覧用画像_加藤楸邨.jpg|thumb|250px|加藤 楸邨 先生 (中14回卒業アルバム)]]'''加藤 楸邨'''(かとう しゅうそん、1905年5月26日 - 1993年7月3日)は、日本の俳人・国文学者。本名は健雄(たけお)。府立第八中学校 国語教諭
==本校歴==
==本校歴==
:1940(昭和15)年4月1日 府立八中国語教諭として赴任
:1940(昭和15)年4月1日 府立八中国語教諭として赴任
6行目: 6行目:
:
:
:
:
<br>
==記事==
報告団雑誌17号<br>
<br>
 白菊に人聲のふと遠くなる<br>
 白菊を過ぎて四五歩の暗さあり<br>
 めつむればやゝ白菊の崩れけり<br>
<br>
  教室にて<br>
 教へ子の一人目をあげ青嵐<br>
<br>
<br>
 報告団雑誌18号P26.
<br>
  星曼荼羅<br>
 大野分松はどこかが光りけり<br>
 鮎に星編んだらの深夜かな<br>
<br>
  嵯峨野<br>
 青竹の俄かにちかし秋の風<br>
 竹の奥なほ青竹の朝焼けて<br>
<br><br>
== 40周年記念誌_峰岸杜丘_旦暮抄 ==


 '''日暮抄'''
<br>
    峰岸杜丘<br>
<br>
 昭和15年10月より府立八中教諭、加藤楸邨、皆川弓彦らと雑誌「寒雷」を再刊する。それ以来、俳句に執着、わびしい人勢の道連れとする。惜しいことに弓彦戦死してしまい、八中関係で今も句道を歩んでいる者は、楸邨、杜丘、風船子、ぐらいのものである。昭和15年10月以後の句を抄出した。<br>
 (昭和15年)<br>


 (昭和17年2月15日燈管の夜星港陥落の臨時ニュースを聞く一句)<br>
 寒明けの戸の破目より雪明り<br>
 頬杖の片腕の影四月尽<br>
 短夜の吾子仰向けに寝たるかな<br>
 楸邨と青松毬を見てゐたり<br>
 蚊帳吊草子等に不幸は語るまじ<br>
 鰯雲南北何れ遙けしや<br>
<br><br>
== 参考 ==
:[[中19回|中19回生]]作成の[[中19回#篤友 会報4号|「篤友 会報4号」]]に掲載の「加藤楸邨先生と私:佐藤善信」
:'''「加藤楸邨先生と私:佐藤善信」'''(下のボタンを押すと全文が表示されます)
<div style="margin:0 0 0 3em">
<span class="mw-customtoggle-myDivision2 koyama-button-c" style="padding:0 7px 0 7px; text-align:center;">「加藤楸邨先生と私:佐藤善信」を表示</span>
<div class="mw-collapsible mw-collapsed" id="mw-customcollapsible-myDivision2">
<div style="width:86%>
<tabs>
<tab name="P001">
<div style="margin:0 1em 0 1em">
:[[ファイル:篤友_会報4号_04加藤楸邨先生01.jpg|1100px]]
<div align="center">[[#P002| → 次ページへ]] </div>
<div align="center">[[#P005| →→ 最終ページへ]]</div>
</div>
</tab>
<tab name="P002">
<div style="margin:0 1em 0 1em">
:[[ファイル:篤友_会報4号_05加藤楸邨先生02.jpg|1100px]]
<div align="center">[[#P003| → 次ページへ]]</div>
<div align="center">[[#P001| ← 前ページへ]]  [[#P005| →→ 最終ページへ]]</div>
</div>
</tab>
<tab name="P003">
<div style="margin:0 1em 0 1em">
:[[ファイル:篤友_会報4号_06加藤楸邨先生03.jpg|1100px]]
<div align="center">[[#P004| → 次ページへ]]</div>
<div align="center">[[#P001| ←← 最初のページへ]]  [[#P002| ← 前ページへ]]  [[#P005| →→ 最終ページへ]]</div>
</div>
</tab>
<tab name="P004">
<div style="margin:0 1em 0 1em">
:[[ファイル:篤友_会報4号_07加藤楸邨先生04.jpg|1100px]]
<div align="center">[[#P005| → 次ページへ]]</div>
<div align="center">[[#P001| ←← 最初のページへ]]  [[#P003| ← 前ページへ]]  [[#P005| →→ 最終ページへ]]</div>
</div>
</tab>
<tab name="P005">
<div style="margin:0 1em 0 1em">
:[[ファイル:篤友_会報4号_08加藤楸邨先生05.jpg|1100px]]
<div align="center">[[#P001| ←← 最初のページへ]]  [[#P004| ← 前ページへ]]</div>
</div>
</tab>
</tabs>
</div></div>
</div>
</div>
<br><br>
<br><br>


== 参考 ==
 
外部サイト
外部サイト
:【加藤楸邨の有名俳句 20選】→[https://haiku-textbook.com/kato-shuson/ 「俳句の教科書」サイトより]
:【加藤楸邨の有名俳句 20選】→[https://haiku-textbook.com/kato-shuson/ 「俳句の教科書」サイトより]


==関連項目==
==関連項目==

2023年12月23日 (土) 16:50時点における最新版

加藤 楸邨 先生 (中14回卒業アルバム)

加藤 楸邨(かとう しゅうそん、1905年5月26日 - 1993年7月3日)は、日本の俳人・国文学者。本名は健雄(たけお)。府立第八中学校 国語教諭

本校歴

1940(昭和15)年4月1日 府立八中国語教諭として赴任
1942(昭和17)年 7月 都制施行により、東京都立第八中学校と改称
1942(昭和17)年 9月15日 都立八中を退任し、都立第八女学校(現:都立八潮高校)に転任


記事

報告団雑誌17号

 白菊に人聲のふと遠くなる
 白菊を過ぎて四五歩の暗さあり
 めつむればやゝ白菊の崩れけり

  教室にて
 教へ子の一人目をあげ青嵐


 報告団雑誌18号P26.
  星曼荼羅
 大野分松はどこかが光りけり
 鮎に星編んだらの深夜かな

  嵯峨野
 青竹の俄かにちかし秋の風
 竹の奥なほ青竹の朝焼けて


 40周年記念誌_峰岸杜丘_旦暮抄 

 日暮抄
    峰岸杜丘

 昭和15年10月より府立八中教諭、加藤楸邨、皆川弓彦らと雑誌「寒雷」を再刊する。それ以来、俳句に執着、わびしい人勢の道連れとする。惜しいことに弓彦戦死してしまい、八中関係で今も句道を歩んでいる者は、楸邨、杜丘、風船子、ぐらいのものである。昭和15年10月以後の句を抄出した。
 (昭和15年)

 (昭和17年2月15日燈管の夜星港陥落の臨時ニュースを聞く一句)
 寒明けの戸の破目より雪明り
 頬杖の片腕の影四月尽
 短夜の吾子仰向けに寝たるかな
 楸邨と青松毬を見てゐたり
 蚊帳吊草子等に不幸は語るまじ
 鰯雲南北何れ遙けしや


参考

中19回生作成の「篤友 会報4号」に掲載の「加藤楸邨先生と私:佐藤善信」
「加藤楸邨先生と私:佐藤善信」(下のボタンを押すと全文が表示されます)

「加藤楸邨先生と私:佐藤善信」を表示




外部サイト

【加藤楸邨の有名俳句 20選】→「俳句の教科書」サイトより

関連項目

着任:1940年 4月 1日
退任:1942年 9月15日



関連事項

↑ページトップへ   ↑「恩師の思い出」のページに移動    ↑「歴代校長一覧」のページに移動    ↑「卒業生・同窓生」のページに移動    ↑卒業生、同窓生からの「寄稿」ページに移動    ↑「菊桜会歴代会長」のページに移動    ↑↑メインページ(人物アーカイブ)に移動

脚注: ・

2023年12月23日:直近編集者:SGyasushi
TimeStamp:20231223165032