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==1961(昭和36)年度==
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{| class="wikitable" style="width: 85%;"
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|-
| colspan="2" |
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ファイル:1961 新校舎 40周年記念誌.png|新校舎
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==できごと==
==できごと==
:4月8日 午前 始業式
:4月 入学式 高16回生
:4月8日 午後 入学式 [[高16回 | 高16回生]](男子297、女子99、計396名)
:4月15日 補習科開講式 
:4月10日 対面式
:5月22日 新校舎完成、視聴覚室教室に図書室を臨時移転 
:4月11・12・14日 身体検査
:5月26日 遠足
:5月4日 創立記念日
:6月16日 生徒総会「コース制に反対する」など6議題 
:5月13日 PTA総会
:7月 千葉県館山市見物に臨海施設用地183坪をPTAで買収 
:5月16日 結核検診
:8月1日 林間学校(安達太良高原 ~4日)臨海学校(~4日) 
:5月22日~24日 中間テスト
:9月11日 水泳大会(~13日) 
:5月26日 遠足(1・2・3年)
:9月30日 学校祭(~10月1日) 
:6月13日~15日 ア・テスト(3年)
:10月8日 運動会
:6月22日 前期生徒総会
:11月5日 2年修学旅行(~9日朝) 
:6月30日 腸パラ予防接種
:12月1日 ロードレース大会 
:7月1日 学年父兄会
:2月4日 スケート教室 
:7月10日~13日 期末テスト
:2月17日 駅伝大会 
:7月20日 終業式
:3月1日 合同選抜学力検査(~2日)のため休校 
:7月21日 夏期休業
:3月18日 高等学校第14回卒業式 
:7月25日 転入考査
:
:8月1日~4日 臨海学校及林間学校
==世相== 
:9月1日 始業式
:4月12日 ソ連の人間衛星船「ボストーク1号」地球1周(ガガーリン搭乗)
:9月1日~4日 ア・テスト(1・2・3年)
:10月 中学校全国一斉学力テスト実施 
:9月11日~13日 水泳大会
:
:9月16日 PTA(3年)
:流行語:「レジャー」「プライバシー」 
:9月30日~10月1日 学芸会、展示会
:流行歌:「君恋し」「上を向いて歩こう」「スーダラ節」
:10月8日 運動会
:10月12日 間接撮影
:10月26日~28日 中間テスト
:11月5日~9日 修学旅行(2年)
:11月10日 遠足(1・3年)
:11月12日 修学旅行帰京(2年)
:11月20日~22日 ア・テスト(1・2・3年)
:11月28日 後期生徒総会
:12月1日 ロードレース
:12月2日 学年父兄会
:12月13日~16日 期末テスト
:12月25日 終業式
:12月26日 冬期休業
:1月8日 始業式
:1月16日~18日 ア・テスト(1・2・3年)
:2月4日 スケート教室
:2月17日 駅伝大会
:3月1日~2日 選抜テスト
:3月12日~15日 学年末テスト
:3月18日 卒業式 [[高14回 | 高14回生]](男子301、女子112、計413名)
:3月23日 編入考査
:3月24日 終業式
:3月26日 春季休業
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==級友と人生論を==
: 私の今の職業は英語の教師である。NHKテレビの「英会話Ⅰ」の講師も担当している、どうやら、世間の方は、私が外国(米国)で育ったぐらいに思っておられるようである。ところがどうして、私のルーツは、実に日本的・古い・ありきたりのものである。  とりわけ、青春時代とでも言おうか、多感な高校時代を、この母校、小山台で過ごしたことは、大きな意味を持っている。昭和18年に生まれ、「もったいない」という形容詞ばかり聞かされて育ってきて、高校の3年間は昭和30年代の高度経済成長がその端緒についたときだった。派手な遊びなどはなく、何よりの楽しみは、大岡山近辺などに住んでいた級友と漱石を語り、深夜まで時の経つのも忘れて人生論を交わすことだった。   思い起こすに、鮮明なのは学校そのもののあれこれではなく、以上のごとく、その時期の交友と自分の精神状態の方である。   学校の方はと言えば、受験校としての雰囲気が強く、みんなよく勉強した。しかし、運動会ともなると、早くから学校中が4つのチームに分かれ、応援の練習で、ふだんいっしょになることのない上級生・下級生と三三七調子などの手拍子をとったりした。その時の我がチームの応援団長の3年生が何と頼もしくたくましく見えたことか。今でもまぶたに浮かぶ。先輩・後輩のよきタテの関係を体得した時でもあった。   私は、今、小山台の卒業生であることを誇りに思っている。そんな高校時代だったのだ。  (高14回 小川邦彦「60周年記念誌」P166)
==放送局について==
: 画期的改革と自負して取組んだ放送局が産声をあげたのは36年4月であった。独立性のある専門機関の誕生と歓迎されはしたものの全くの素人集団であった。  行き掛かり上、初代局長の栄に浴した筆者は、学業放棄で連日精勤、日常業務を軌道に乗せ、年間最大行事である学校祭の放送サービスが無事終了したとき、局員一同充実した満足と一体感にひたるという得難い経験の時を持つことが出来、友情の輪も拡がった。そして今も年数回のKBSの会として継続している。   時効のエピソードを一つ。バケツを逆さにした様な雨が夜半に上がり、快晴の下36年の運動会は熱く燃えた。この日最も早く準備万端整えたのは何と放送局であった。その秘密は某先生黙認の宿泊許可であった。   あのころ、先生も生徒も一体となって何かに向かって一途であった。その気持は今もあるであろうか。  (高15回 藤原碩宜「60周年記念誌」P166)


==教職員==
==教職員==
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:「1961年学校祭」は以下のリンクからご覧になれます。
:「1961年学校祭」は以下のリンクからご覧になれます。
:[https://www.dropbox.com/s/zotwik9yslsmg6s/1961%E5%B9%B4_%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A5%AD%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0.pdf?dl=0 1961年学校祭.pdfファイルへのリンク]
:[https://www.dropbox.com/s/zotwik9yslsmg6s/1961%E5%B9%B4_%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A5%AD%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0.pdf?dl=0 1961年学校祭.pdfファイルへのリンク]
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:文化祭(寒菊祭)パンフレット一覧は以下のページからご覧いただけます。
:[[文化祭(寒菊祭)|文化祭(寒菊祭)一覧表]]
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==運動会==
==運動会==
:10月8日(日) 開催<br>
:10月8日(日) 開催<br>
:一位:紅, 二位:黄, 三位:白, 四位:青
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::[[小山台新聞#八高・小山台新聞|→「八高・小山台新聞」一覧へ移動]]
::[[小山台新聞#八高・小山台新聞|→「八高・小山台新聞」一覧へ移動]]
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==関連項目==
==関連項目==

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1961(昭和36)年度

できごと

4月 入学式 高16回生
4月15日 補習科開講式
5月22日 新校舎完成、視聴覚室教室に図書室を臨時移転
5月26日 遠足
6月16日 生徒総会「コース制に反対する」など6議題
7月 千葉県館山市見物に臨海施設用地183坪をPTAで買収
8月1日 林間学校(安達太良高原 ~4日)臨海学校(~4日)
9月11日 水泳大会(~13日)
9月30日 学校祭(~10月1日)
10月8日 運動会
11月5日 2年修学旅行(~9日朝)
12月1日 ロードレース大会
2月4日 スケート教室
2月17日 駅伝大会
3月1日 合同選抜学力検査(~2日)のため休校
3月18日 高等学校第14回卒業式

世相

4月12日 ソ連の人間衛星船「ボストーク1号」地球1周(ガガーリン搭乗)
10月 中学校全国一斉学力テスト実施
流行語:「レジャー」「プライバシー」
流行歌:「君恋し」「上を向いて歩こう」「スーダラ節」


級友と人生論を

 私の今の職業は英語の教師である。NHKテレビの「英会話Ⅰ」の講師も担当している、どうやら、世間の方は、私が外国(米国)で育ったぐらいに思っておられるようである。ところがどうして、私のルーツは、実に日本的・古い・ありきたりのものである。  とりわけ、青春時代とでも言おうか、多感な高校時代を、この母校、小山台で過ごしたことは、大きな意味を持っている。昭和18年に生まれ、「もったいない」という形容詞ばかり聞かされて育ってきて、高校の3年間は昭和30年代の高度経済成長がその端緒についたときだった。派手な遊びなどはなく、何よりの楽しみは、大岡山近辺などに住んでいた級友と漱石を語り、深夜まで時の経つのも忘れて人生論を交わすことだった。  思い起こすに、鮮明なのは学校そのもののあれこれではなく、以上のごとく、その時期の交友と自分の精神状態の方である。  学校の方はと言えば、受験校としての雰囲気が強く、みんなよく勉強した。しかし、運動会ともなると、早くから学校中が4つのチームに分かれ、応援の練習で、ふだんいっしょになることのない上級生・下級生と三三七調子などの手拍子をとったりした。その時の我がチームの応援団長の3年生が何と頼もしくたくましく見えたことか。今でもまぶたに浮かぶ。先輩・後輩のよきタテの関係を体得した時でもあった。  私は、今、小山台の卒業生であることを誇りに思っている。そんな高校時代だったのだ。 (高14回 小川邦彦「60周年記念誌」P166)

放送局について

 画期的改革と自負して取組んだ放送局が産声をあげたのは36年4月であった。独立性のある専門機関の誕生と歓迎されはしたものの全くの素人集団であった。  行き掛かり上、初代局長の栄に浴した筆者は、学業放棄で連日精勤、日常業務を軌道に乗せ、年間最大行事である学校祭の放送サービスが無事終了したとき、局員一同充実した満足と一体感にひたるという得難い経験の時を持つことが出来、友情の輪も拡がった。そして今も年数回のKBSの会として継続している。  時効のエピソードを一つ。バケツを逆さにした様な雨が夜半に上がり、快晴の下36年の運動会は熱く燃えた。この日最も早く準備万端整えたのは何と放送局であった。その秘密は某先生黙認の宿泊許可であった。  あのころ、先生も生徒も一体となって何かに向かって一途であった。その気持は今もあるであろうか。 (高15回 藤原碩宜「60周年記念誌」P166)


教職員

職名 教科目 氏 名 担任 校務分掌 班活顧問 就 任 PTA・菊桜会
校長 (国語) 上原 好一 1959/04/01
教頭 英語 瀬戸 規矩夫 1955/04/01
教諭 国語 舞田 正達   図書部長   1939/06/30
坂井 寿夫 1年学年係   バトミントン 1941/03/31  
落合 光禎 3A 3年学年主任   1945/09/30
青木 木兎哉 1E 庶務部 写真 1950/03/31
長瀬 治 1F 生徒部   1954/09/16 PTA書記
大谷 芳房 3G 教務部 海洋 1960/04/01  
安藤 千鶴子 2C 図書部 新聞 1960/04/01
社会 宮田 時雄   庶務部長 社会研究 1947/06/15
野々山 正司 3B 教務部 心理研究 1949/03/31
塩野入 菊三郎     演劇 1949/04/01
三橋 力   1年学年主任   1949/05/15
荒久保 忠夫   生徒部長 歴史研究 1954/09/16
沢井 恵之助 2B 生徒部 バスケット 1960/04/01
数学 赤沼 実   庶務部   1929/10/09
奥野 一雄   保健部 天文 1946/03/31
不島 静夫 2A 2年学年主任 鉄道研究 1947/09/30
井沢 弘児 3F 生徒部 野球 1950/03/31
竹内 庸雄 2H 教務部 剣道 1950/03/31
川又 之裕 1D 教務部   1957/04/01
斉藤 防 1C 庶務部 水泳 1960/04/01
石井 孝雄 3E 保健部   1960/04/01
理科 物理 永見 至 3年学年係 庶務部 ワンダーフォーゲル 1944/09/20
八乙女 盛典 2G   物理 1949/04/30  
化学 大岩 誠     ラジオ 1944/07/14 40周年記念事業部長
園山 忠夫 3H   化学 1946/09/15 PTA書記長
生物 矢野 佐   図書部 生物 1942/03/31  
杉村 親一 1G 教務部   1947/03/31 学校祭委員長
鈴木 亨   保健部長 サッカー 1951/04/05  
英語 深堀 修   保健部 硬式テニス 1945/10/31  
大島 長次     自動車 1945/06/20
勢山 秀子 1H 教務部 E・S・S 1949/05/31
蛭川 久康 2D 教務部   1957/04/01
原口 正則 3D 庶務部 軟式テニス 1958/04/16
中山 重男 3C 図書部 柔道 1959/04/01
清水 忠 1B 保健部 卓球 1960/04/01
保健体育 薗頭 潔   保健部 ラグビー 1946/08/31 40周年記念事業部
榎木 繁男 2E 庶務部 陸上競技 1949/03/31
小林 年子 3年学年係 生徒部 排球、舞踊 1952/04/01
阿部 修二 1年学年係 生徒部 器械体操 1958/04/01
芸術 音楽 吉岡 厳   図書部 音楽 1958/03/31
家庭 持塚 多喜   保健部   1951/02/28
司書 矢口 洋子   図書部 生活 1955/04/01

講師・校医ほか

教科 氏名
講師 社会 田村 貞雄
数学 高輪 休郎
数学 崎谷 厳
理科 重野 四郎
新井 勇治
英語 黒岩 善吉
大島 好道
芸術 書道 麻生 秀二
美術 武田 良三
司書 加藤 和子
助手 戒崎 満恵
高橋 弘
香取 茂子
平塚 博
青山 利枝
校医 武田 久孝
歯科校医 鎌田 栄一
眼科校医 早川 和夫
耳鼻科校医 仙頭 哲夫
保健婦 大塚 静子
薬剤師 平山 正五

職員

職 名 氏 名 就 任
事務長 山田 紀元 1959/07/01
事務主事 井上 とみ 1948/10/15
梶野 公夫 1960/05/01
諸 孝 1961/05/01
事務主事補 佐生 せい子 1949/08/31
渡部 富夫 1955/12/01
内田 誠 1961/05/01
事務助手 中根 久子 1956/07/16
司書 加藤 和子 1959/04/01
助手 戒崎 満恵 1960/04/01
高橋 弘 1960/04/01
香取 茂子 1961/04/01
平塚 博 1961/04/01
青山 利枝 1961/04/01
用務員 上田 信吉 1936/07/22
君塚 盛 1945/03/15
平野 福三郎 1947/05/01
警備員 西尾 繁 1951/09/01
浜村 辰次郎 1954/08/01
伊藤 和祐 不明 

生徒在籍数 (昭36.4.13現在)

A B C D E F G H
1年 37 35 38 37 37 38 38 37 297
12 12 13 13 13 12 12 12 99
49 47 51 50 50 50 50 49 396
2年 37 38 38 38 38 37 37 39 302
14 13 14 13 14 14 14 13 109
51 51 52 51 52 51 51 52 411
3年 38 37 37 38 37 37 38 39 301
14 15 14 14 15 14 14 13 113
52 52 51 52 52 51 52 52 414
総 計 900 321 1,221


学校祭(学芸会、展示会、招待試合)

9月30日(土)、10月1日(日) 開催




「1961年学校祭」は以下のリンクからご覧になれます。
1961年学校祭.pdfファイルへのリンク



文化祭(寒菊祭)パンフレット一覧は以下のページからご覧いただけます。
文化祭(寒菊祭)一覧表



運動会

10月8日(日) 開催
一位:紅, 二位:黄, 三位:白, 四位:青




卒業アルバム





小山台新聞

1960(昭和35)年度発行
→「八高・小山台新聞」一覧へ移動



関連項目

 * ← 1960年度 (昭和35年度)    * → 1962年度 (昭和37年度)


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脚注




2025年3月24日:直近編集者:Ssumie2
TimeStamp:20250324212401