「1951年度 (昭和26年度)」の版間の差分

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==できごと==
==できごと==
:1951(昭和26)年 4月 入学式 [[高6回 | 高6回生]]
:'''1951年'''
:1951(昭和26)年 5月12日 イ<ref>「イ」はインテリジェントの略で実力テストのことであろう。ア・テストとどのように異なるのかは不明。</ref>・テスト(3年全員、2年希望者)
:04.  入学式 [[高6回 | 高6回生]]
:1951(昭和26)年 5月25日 第一回生徒総会開催
:05.12 イ<ref>「イ」はインテリジェントの略で実力テストのことであろう。ア・テストとどのように異なるのかは不明。</ref>・テスト(3年全員、2年希望者)
:1951(昭和26)年 5月27日 講堂にて新校歌披露発表会開催
:05.25 第一回生徒総会開催
:1951(昭和26)年 6月 5日~6日 ア<ref>「ア」はアチーブメントの略で実力テスト。すでにこの頃からア・テストと呼ばれていた。</ref>・テスト(3年、8課目選択制)
:05.27 講堂にて新校歌披露発表会開催
:06.05 ア<ref>「ア」はアチーブメントの略で実力テスト。すでにこの頃からア・テストと呼ばれていた。</ref>・テスト(3年、8課目選択制)(~6)
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|1951(昭和26)年 6月13日 別館工作室金工場から出火、2Fの図書室に延焼。蔵書3,600冊が黒焦げ水浸しとなる。
|06.13 別館工作室金工場から出火、2Fの図書室に延焼。蔵書3,600冊が黒焦げ水浸しとなる。
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:1951(昭和26)年 7月21日~ 3年修学旅行(京都・奈良)。当時は3年の夏期休暇時に実施していたようです。
:07.21 3年修学旅行(京都・奈良)。当時は3年の夏期休暇時に実施していたようです。
:1951(昭和26)年10月30日~11月 1日 学校祭(学芸会、展示会、運動会)
:10.30 学校祭(学芸会、展示会、運動会)(~11)
:1951(昭和26)年11月 1日 運動会終了後、3年間中止されていた「ファイアー・ストーム」復活
:11.01 運動会終了後、3年間中止されていた「ファイアー・ストーム」復活
:1951(昭和26)年11月 2日 1年遠足(雨天をついて高尾山強行登山)
:11.02 1年遠足(雨天をついて高尾山強行登山)
:1951(昭和26)年11月19日 日展見学(1、2年)
:11.19 日展見学(1、2年)
:1951(昭和26)年11月29日 第二回生徒総会開催
:11.29 第二回生徒総会開催
:1951(昭和26)年12月 6日~7日 ア・テスト(3年)
:12.06 ア・テスト(3年)(~7)
:1951(昭和26)年12月 8日 模擬インテリジェント・テスト
:12.08 模擬イ・テスト
:1951(昭和26)年12月14日、15日、17日 期末テスト(1、2年) 
:12.14  期末テスト(1、2年)(~15、17) 
:1951(昭和26)年12月16日 新制大学入学者選抜インテリジェント・テスト施行
:12.16 新制大学入学者選抜インテリジェント・テスト施行
:1951(昭和26)年12月22日 終業式 
:12.22 終業式
:1952(昭和27)年 3月 7日 卒業式 [[高4回 | 高4回生]](男子447、女子6、計453名) 
:'''1952年''' 
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:03.07 卒業式 [[高4回 | 高4回生]](男子447、女子6、計453名) 
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==世相==
==世相==
:'''1936年'''
:'''1951年'''
:11.25 日独防共協定締結
:04.01 マッカーサー元帥罷免<br>
:'''1937年'''
:04.24 桜木町事件(六三型国電発火)<br>
:4月1日 マッカーサー元帥罷免<br>
:09.04 サンフランシスコ平和条約調印<br><br>
4月24日 桜木町事件(六三型国電発火)<br>
:'''流行語'''-とんでもハップン・老兵は死なず<br>
9月4日 サンフランシスコ平和条約調印<br><br>
:'''流行歌'''-あゝモンテンルパの夜は更けて<br>
流行語-とんでもハップン・老兵は死なず<br>
流行歌-あゝモンテンルパの夜は更けて<br>
<br>
:'''流行語'''-今からでも遅くない・国民歌謡<br>
:'''流行歌'''-とんがらがっちゃ駄目よ
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==夏の修学旅行==
 昭和26 年は戦後の混乱や物員不足も解消し、占領下から独立へ向けて新しい時代がはじまった年といえるのではないか。この年に私は3 年生、夏には京都・奈良に修学旅行があった。秋では受験準備に差支えるからということであったが、ウダるような暑さのなかを京都から奈良まで国鉄の汽車でトコトコ走ったものである。
 ( 杉本正安 高4 回「創立60 周年記念誌P146 より抜粋)
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==六年間の学校生活==
 高4 回生は終戦の翌年1946( 昭和21) 年に八中に入学した学年である。六・三制への切り替えの時期であったため、中学、高校計6 年間母校にお世話になった。テーマが「当時の学校生活」となっているが、中学の時代について若干言及したい。
1. 戦後間もなく買い取った新校庭と、もとからあった旧校庭とがぶっ通しとなっていて広々とした感があった。戦後は猫も杓子も野球の時代。クラス対抗の試合はもとより、同じクラスの中でも1軍、2軍、3軍という野球のチームまでできていたのだから、その隆盛ぶりは想像がつくと思う。休み時間、休講時間、放課後等は校庭のあちらこちらで野球、ソフトボール等が何組にもわたり、入り乱れていた。ただ、食糧難の時代でもあり誰もがひもじかったのは苦しい思い出である。中学のころは「農業」という科目があった。担当の馬島先生がプールの外側の空地を利用して作って下さったサツマイモをふかして全員に食べさせてくれたことは懐かしい思い出となって残っている。先生には教育熱心な方々が多かった。とくに英語は教科書以外に先生がいろいろと副読本を探してきて下さり、紙の事情の悪かった当時のこととて、ザラ紙に印刷された本で勉強したことは今でも感謝している。
2. わが高4 回生は先にも述べたように、学校制度の節目にあたり、中学高校6 年を通じ高校2 年に至るまで4 年間下級生を持てず、末っ子学年の時期が続いた。男女共学制度は1949年に初めて行われたのである。高校1 年のとき全体でわすか4 名の女子が入っただけで、しかもすべてA 組に所属した。
 ( 浜田 脩ひさし 高4 回「創立60 周年記念誌」P146 より抜粋)
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==教職員==
==教職員==

2025年3月16日 (日) 15:25時点における最新版

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1951(昭和26)年度



できごと

1951年
04.  入学式 高6回生
05.12 イ[1]・テスト(3年全員、2年希望者)
05.25 第一回生徒総会開催
05.27 講堂にて新校歌披露発表会開催
06.05 ア[2]・テスト(3年、8課目選択制)(~6)
06.13 別館工作室金工場から出火、2Fの図書室に延焼。蔵書3,600冊が黒焦げ水浸しとなる。
 延焼中の図書室
07.21 3年修学旅行(京都・奈良)。当時は3年の夏期休暇時に実施していたようです。
10.30 学校祭(学芸会、展示会、運動会)(~11)
11.01 運動会終了後、3年間中止されていた「ファイアー・ストーム」復活
11.02 1年遠足(雨天をついて高尾山強行登山)
11.19 日展見学(1、2年)
11.29 第二回生徒総会開催
12.06 ア・テスト(3年)(~7)
12.08 模擬イ・テスト
12.14 期末テスト(1、2年)(~15、17) 
12.16 新制大学入学者選抜インテリジェント・テスト施行
12.22 終業式
1952年 
03.07 卒業式 高4回生(男子447、女子6、計453名) 



世相

1951年
04.01 マッカーサー元帥罷免
04.24 桜木町事件(六三型国電発火)
09.04 サンフランシスコ平和条約調印

流行語-とんでもハップン・老兵は死なず
流行歌-あゝモンテンルパの夜は更けて


夏の修学旅行

 昭和26 年は戦後の混乱や物員不足も解消し、占領下から独立へ向けて新しい時代がはじまった年といえるのではないか。この年に私は3 年生、夏には京都・奈良に修学旅行があった。秋では受験準備に差支えるからということであったが、ウダるような暑さのなかを京都から奈良まで国鉄の汽車でトコトコ走ったものである。

 ( 杉本正安 高4 回「創立60 周年記念誌P146 より抜粋)

六年間の学校生活

 高4 回生は終戦の翌年1946( 昭和21) 年に八中に入学した学年である。六・三制への切り替えの時期であったため、中学、高校計6 年間母校にお世話になった。テーマが「当時の学校生活」となっているが、中学の時代について若干言及したい。 1. 戦後間もなく買い取った新校庭と、もとからあった旧校庭とがぶっ通しとなっていて広々とした感があった。戦後は猫も杓子も野球の時代。クラス対抗の試合はもとより、同じクラスの中でも1軍、2軍、3軍という野球のチームまでできていたのだから、その隆盛ぶりは想像がつくと思う。休み時間、休講時間、放課後等は校庭のあちらこちらで野球、ソフトボール等が何組にもわたり、入り乱れていた。ただ、食糧難の時代でもあり誰もがひもじかったのは苦しい思い出である。中学のころは「農業」という科目があった。担当の馬島先生がプールの外側の空地を利用して作って下さったサツマイモをふかして全員に食べさせてくれたことは懐かしい思い出となって残っている。先生には教育熱心な方々が多かった。とくに英語は教科書以外に先生がいろいろと副読本を探してきて下さり、紙の事情の悪かった当時のこととて、ザラ紙に印刷された本で勉強したことは今でも感謝している。 2. わが高4 回生は先にも述べたように、学校制度の節目にあたり、中学高校6 年を通じ高校2 年に至るまで4 年間下級生を持てず、末っ子学年の時期が続いた。男女共学制度は1949年に初めて行われたのである。高校1 年のとき全体でわすか4 名の女子が入っただけで、しかもすべてA 組に所属した。

 ( 浜田 脩ひさし 高4 回「創立60 周年記念誌」P146 より抜粋)

教職員

以下の写真は、高4回 小林大二 様 ご家族の 小林ジュディ由利江 様より提供いただきました。→「高4回生のページ」にたくさんの資料がありますのでご覧ください。
恩師の面影
恩師一覧(敬称略)
上記恩師名の「塩野」は「塩野入」先生のミスプリですね (それにしてもお若い!)。


学芸会

10月30日(火)、31日(水)




運動会

11月1日(木)
総合:黄組(G・H・K)優勝(2年連続)
応援戦:赤組優勝
仮装行列:白組優勝


運動会の写真は「運動会:1951年(昭和26年)」をご覧ください。


運動会終了後、3年間中止されていた「ファイアー・ストーム」が復活。→「小山台新聞 12月1日号」を参照




卒業アルバム

高4回生の卒業アルバムは、保管されていません。





小山台新聞

1951(昭和26)年度発行
「小山台新聞1951(昭和26)年4月5日発行」は以下のリンクからご覧になれます。 「小山台新聞1951(昭和26)年6月18日発行」は以下のリンクからご覧になれます。
「小山台新聞1951(昭和26)年4月5日発行」へのリンク 「小山台新聞1951(昭和26)年6月18日発行」へのリンク



「小山台新聞1951(昭和26)年12月1日発行」は以下のリンクからご覧になれます。
「小山台新聞1951(昭和26)年12月1日発行」へのリンク



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関連項目

 *← 1950年度 (昭和25年度)   *→ 1952年度 (昭和27年度)


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脚注

  1. 「イ」はインテリジェントの略で実力テストのことであろう。ア・テストとどのように異なるのかは不明。
  2. 「ア」はアチーブメントの略で実力テスト。すでにこの頃からア・テストと呼ばれていた。



2025年3月16日:直近編集者:Hosamu
TimeStamp:20250316152534