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ファイル: | ファイル:1950 恩師の面影 S25年頃 高校3回.jpg|<div style="text-align:center; >恩師の面影(「高3回卒業アルバム」)</div> | ||
ファイル: | ファイル:小山台新聞_1951年3月1日_天野文部大臣会見記.jpg|<div style="text-align:center; >文部省にて天野文部大臣と会見</div> | ||
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==できごと== | ==できごと== | ||
: | :'''1950年''' | ||
: | :04.01 全日制第1学年に新制中学第1回卒業の男子300名、女子100名([[高5回 | 高5回生]])の入学を許可、第1学年8、第2学年9、第3学年8計25学級となる | ||
: | :04. 定時制第1学年に男女計200名入学 | ||
: | :06.22 新聞班主催によるソフトボール大会(~07.03) | ||
: | :07.15 本年度第1 回生徒総会「始業時刻8時繰上げ」など6 議題 | ||
:'''1951年''' | |||
:02.06 新校歌決定(校歌制定審査委員会で栗原源七講師の作詞を採用決定し、平井保喜氏に作曲を依頼) | |||
:02.23 新聞班横堀特派員文部省にて天野文部大臣と会見 | |||
:02.26 生徒総会「校内における下駄ばき禁止」など11議題 | |||
:03.02 卒業式 [[高3回 | 高3回生]](男子386名) | |||
</br> | </br> | ||
==世相== | |||
:'''1950年''' | |||
:06.25 朝鮮戦争始まる | |||
:07.02 金閣寺焼失 | |||
:08. 第二次米国教育使節団来日 | |||
:'''流行語'''-おおミステーク、曲学阿世の徒 | |||
:'''流行歌'''-水色のワルツ | |||
<br> | |||
==小山商店街の焼失と復興== | |||
1945(昭和20)年春、戦時の非常事態から無試験入学の措置がとられました。殆ど授業らしい授業も無いままに勤労動員の日が続き、一年生は類焼を防ぐため強制疎開させられた建物の取り毀しに駆り出されました。物資欠乏のため商店街も営業不能の店が多く、駅から向かって右側の店舗はすっかり取り除かれました。<br> | |||
4月15日夜の空襲により、私の家も焼失、罹災者として、入学したばかりの八中の屋内体操場へ一時収容されましたが、その後、5月23日夜の空襲によりこの体操場も3階の講堂と共に焼失、小山商店街も全域が灰燼に帰しました。<br> | |||
戦争が形の上からも心の中にも大きな傷跡を残したことは確かですが、多くの試練を乗り越えて新時代への復興に目ざましいものがありました。焼け跡に建てられたトタン張りのバラックは低く、私の家の門口から小山の駅舎と康済病院の屋根越しに眺められた校舎もいつの間にか新しい建物によって遮られていきました。<br> | |||
軟式野球部に在籍したときがありました。苦労してやっと手に入れた穴だらけのグローブを使えるようになんとか繕い、放課後のクラブ活動に汗を流しました。地元の町会チームとの対戦もあり、楽しい交流であったように記憶しています。公立校の規制の中でも地元との触れ合いを何らかの形で持つことは望ましいものと思います。<br> | |||
都立八中、併設中学、第八高校、小山台高校と在学6 年間、学制の変遷の殊に激しい時代でした。特に物質的には不足の時代でしたが優れた個性ある多くの師と、素晴しい友に恵まれました。<br> | |||
創立60周年を迎えるに当たり、卒業生としての誇りをもって小山台高校の輝かしい前途を祝し、諸先生並びに同窓生皆様のご健勝を祈念いたします。<br> | |||
(清水 仁 高3回「創立60 周年記念誌」P144) | |||
<br> | |||
==小山台の教育を現している校歌== | |||
現在の小山台高校校歌は、1950(昭和25)年7月、広く職員・生徒・父母に呼びかけて募集し、初め音楽科担任の柳力先生を中心とする小委員会で、のち職員・生徒・PTA委員からなる校歌選定審査委員会によって広募作品18編の中から、1951(昭和26年)2月6日に採択決定された。制定された新校歌は本校国語科講師の故栗原源七先生の手になるもので、友情・自主・理想を謳いあげあげた格調の高い作品である。作曲は芸大教授平井保喜氏にお願いした。<br> | |||
1951(昭和26)年5月27日、星講堂において作曲者平井保喜教授の指揮により、聴衆1600余人を集めて盛大な発表会が催された。作曲者について、美術科講師の武田良三先生は次のように語っておられる。「わたくしが本校の専任であったとき、担任していたクラスの小林道夫君(現在ピアニスト)が芸大の平井保喜先生に師事していたので、その関係でお願いしました。当時の校欣としては非常に清新な曲で、メロディーも現代的な感覚であったので、生徒がなかなかおぼえられず、8中校歌ばかり歌っていたのを記憶しています。」<br> | |||
'''都立小山台高校校歌''' | |||
:1.富士見はるかす 窓晴れて | |||
: 銀杏のみどり 濃きところ | |||
: 語らいつどう 若人の | |||
: こころの琴に ひびきあり | |||
: 敬愛の花 ここに咲く | |||
: 「小山台」 | |||
: おゝここぞ平和のはなぞの | |||
:2.象る菊の 香も清く | |||
: 純情燃ゆる 青春の | |||
: 我等に自主の 意気高く | |||
: 自由の翼 明日を待ち | |||
: 明るき誇り ここに満つ | |||
: 「小山台」 | |||
: おゝここぞ 文化のみなもと | |||
:3.朝雲流れ 中空に | |||
: 八角塔の そそり立つ | |||
: 揺がぬ力 礎に | |||
: たかき理想へ 進むとき | |||
: 希望の光 ここにさす | |||
: 「小山台」 | |||
: おゝここぞ 精神のふるさと | |||
(「創立50周年記念誌」P29)<br> | |||
==生徒会は昭和25年設立== | |||
生徒会は1950(昭和25)年設立された。会則は設立当時のものが改正されて現行のものは1962(昭和37)年4月1日より実施されたものである。<br> | |||
生徒会は全校生徒で組織され、諸活動は次のように行なわれている。<br> | |||
生徒総会は最高議決機関として前後期2回定例総会を行ない、臨時総会は全生徒の1/3または評議会の要求で中央執行委員会によって開かれる仕組になっている。<br> | |||
ホームルームは生徒が直接活動を行なう場として正代表の外13種の委員19名で運営されている。<br> | |||
クラブ活動委員会は各クラブを代表するクラブ活動委員1名と会計1名からなり、クラブは文芸社会・理工・運動の4部32班、同好会・学佼直轄班から成り立っている。<br> | |||
評議会は生徒総会につぐ議決機関で議長の外25名で構成され、中央執行委員会の活動、実行機関の報告をうけ承認を与え、また生徒会会則の細則を定めている。<br> | |||
中央執行委員会は生徒会の執行機関でHR・クラブ両活動の全般の事務・会計を統轄し生徒会を代表している。構成は会長・副会長各1名、中央執行委員5名、学校祭常任委員長1名からなっている。<br> | |||
実行機関は中央執行委員会の下で9委員会、4局より成り立っている。<br> | |||
(「創立50周年記念誌」P57) | |||
==教職員== | ==教職員== |
2025年3月16日 (日) 15:21時点における最新版
(編集中) (編集完了)
1950(昭和25)年度
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できごと
- 1950年
- 04.01 全日制第1学年に新制中学第1回卒業の男子300名、女子100名( 高5回生)の入学を許可、第1学年8、第2学年9、第3学年8計25学級となる
- 04. 定時制第1学年に男女計200名入学
- 06.22 新聞班主催によるソフトボール大会(~07.03)
- 07.15 本年度第1 回生徒総会「始業時刻8時繰上げ」など6 議題
- 1951年
- 02.06 新校歌決定(校歌制定審査委員会で栗原源七講師の作詞を採用決定し、平井保喜氏に作曲を依頼)
- 02.23 新聞班横堀特派員文部省にて天野文部大臣と会見
- 02.26 生徒総会「校内における下駄ばき禁止」など11議題
- 03.02 卒業式 高3回生(男子386名)
世相
- 1950年
- 06.25 朝鮮戦争始まる
- 07.02 金閣寺焼失
- 08. 第二次米国教育使節団来日
- 流行語-おおミステーク、曲学阿世の徒
- 流行歌-水色のワルツ
小山商店街の焼失と復興
1945(昭和20)年春、戦時の非常事態から無試験入学の措置がとられました。殆ど授業らしい授業も無いままに勤労動員の日が続き、一年生は類焼を防ぐため強制疎開させられた建物の取り毀しに駆り出されました。物資欠乏のため商店街も営業不能の店が多く、駅から向かって右側の店舗はすっかり取り除かれました。
4月15日夜の空襲により、私の家も焼失、罹災者として、入学したばかりの八中の屋内体操場へ一時収容されましたが、その後、5月23日夜の空襲によりこの体操場も3階の講堂と共に焼失、小山商店街も全域が灰燼に帰しました。
戦争が形の上からも心の中にも大きな傷跡を残したことは確かですが、多くの試練を乗り越えて新時代への復興に目ざましいものがありました。焼け跡に建てられたトタン張りのバラックは低く、私の家の門口から小山の駅舎と康済病院の屋根越しに眺められた校舎もいつの間にか新しい建物によって遮られていきました。
軟式野球部に在籍したときがありました。苦労してやっと手に入れた穴だらけのグローブを使えるようになんとか繕い、放課後のクラブ活動に汗を流しました。地元の町会チームとの対戦もあり、楽しい交流であったように記憶しています。公立校の規制の中でも地元との触れ合いを何らかの形で持つことは望ましいものと思います。
都立八中、併設中学、第八高校、小山台高校と在学6 年間、学制の変遷の殊に激しい時代でした。特に物質的には不足の時代でしたが優れた個性ある多くの師と、素晴しい友に恵まれました。
創立60周年を迎えるに当たり、卒業生としての誇りをもって小山台高校の輝かしい前途を祝し、諸先生並びに同窓生皆様のご健勝を祈念いたします。
(清水 仁 高3回「創立60 周年記念誌」P144)
小山台の教育を現している校歌
現在の小山台高校校歌は、1950(昭和25)年7月、広く職員・生徒・父母に呼びかけて募集し、初め音楽科担任の柳力先生を中心とする小委員会で、のち職員・生徒・PTA委員からなる校歌選定審査委員会によって広募作品18編の中から、1951(昭和26年)2月6日に採択決定された。制定された新校歌は本校国語科講師の故栗原源七先生の手になるもので、友情・自主・理想を謳いあげあげた格調の高い作品である。作曲は芸大教授平井保喜氏にお願いした。
1951(昭和26)年5月27日、星講堂において作曲者平井保喜教授の指揮により、聴衆1600余人を集めて盛大な発表会が催された。作曲者について、美術科講師の武田良三先生は次のように語っておられる。「わたくしが本校の専任であったとき、担任していたクラスの小林道夫君(現在ピアニスト)が芸大の平井保喜先生に師事していたので、その関係でお願いしました。当時の校欣としては非常に清新な曲で、メロディーも現代的な感覚であったので、生徒がなかなかおぼえられず、8中校歌ばかり歌っていたのを記憶しています。」
都立小山台高校校歌
- 1.富士見はるかす 窓晴れて
- 銀杏のみどり 濃きところ
- 語らいつどう 若人の
- こころの琴に ひびきあり
- 敬愛の花 ここに咲く
- 「小山台」
- おゝここぞ平和のはなぞの
- 2.象る菊の 香も清く
- 純情燃ゆる 青春の
- 我等に自主の 意気高く
- 自由の翼 明日を待ち
- 明るき誇り ここに満つ
- 「小山台」
- おゝここぞ 文化のみなもと
- 3.朝雲流れ 中空に
- 八角塔の そそり立つ
- 揺がぬ力 礎に
- たかき理想へ 進むとき
- 希望の光 ここにさす
- 「小山台」
- おゝここぞ 精神のふるさと
(「創立50周年記念誌」P29)
生徒会は昭和25年設立
生徒会は1950(昭和25)年設立された。会則は設立当時のものが改正されて現行のものは1962(昭和37)年4月1日より実施されたものである。
生徒会は全校生徒で組織され、諸活動は次のように行なわれている。
生徒総会は最高議決機関として前後期2回定例総会を行ない、臨時総会は全生徒の1/3または評議会の要求で中央執行委員会によって開かれる仕組になっている。
ホームルームは生徒が直接活動を行なう場として正代表の外13種の委員19名で運営されている。
クラブ活動委員会は各クラブを代表するクラブ活動委員1名と会計1名からなり、クラブは文芸社会・理工・運動の4部32班、同好会・学佼直轄班から成り立っている。
評議会は生徒総会につぐ議決機関で議長の外25名で構成され、中央執行委員会の活動、実行機関の報告をうけ承認を与え、また生徒会会則の細則を定めている。
中央執行委員会は生徒会の執行機関でHR・クラブ両活動の全般の事務・会計を統轄し生徒会を代表している。構成は会長・副会長各1名、中央執行委員5名、学校祭常任委員長1名からなっている。
実行機関は中央執行委員会の下で9委員会、4局より成り立っている。
(「創立50周年記念誌」P57)
教職員
職名 | 担任学科 | 氏 名 | 担任 | 分 掌 | 班活顧問 | 本校就職 | PTA | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
校長 | 修身 | 岩本 實次郎 | 1923/04/12 | |||||
教諭 | 国語 | 坂井 寿夫 | 1941/03/31 | |||||
松永 正修 | 1939/03/31 | |||||||
落合 光禎 | 1945/09/30 | |||||||
舞田 正達 | 1939/06/30 | |||||||
渋谷 素男 | 1946/05/15 | |||||||
伊藤 茂 | 1948/06/10 | |||||||
鵜川 昇 | 3E | 1949/10/31 | ||||||
青木 木菟哉 | 1950/03/31 | |||||||
社会 | 日下部 寅次郎 | 1939/03/31 | ||||||
森 貞成 | 1944/03/31 | |||||||
平井 正士 | 1947/06/30 | |||||||
宮田 時雄 | 1947/06/15 | |||||||
塩野入 啓晃 | 1948/03/31 | |||||||
野々山 正司 | 1949/03/31 | |||||||
木村 稔 | 1949/09/15 | |||||||
赤堀 景章 | 1950/03/31 | |||||||
世界史 | 三橋 力 | 3B | 1949/05/15 | |||||
数学 | 高輪 休郎 | 1925/05/15 | ||||||
赤沼 実 | 1929/10/09 | |||||||
崎谷 巖 | 1940/03/26 | |||||||
奥野 一雄 | 1946/03/31 | |||||||
松岡 剛 | 1947/10/10 | |||||||
不島 静夫 | 1947/09/30 | |||||||
井沢 弘児 | 1950/03/31 | |||||||
竹内 庸雄 | 1950/03/31 | |||||||
理科 | 鈴木 幸夫 | 1950/03/31 | ||||||
物理 | 氷見 至 | 1944/09/20 | ||||||
八乙女 盛典 | 1949/04/30 | |||||||
化学 | 大岩 誠 | 1944/07/14 | ||||||
園山 忠夫 | 3F | 1946/09/15 | ||||||
生物 | 矢野 佐 | 3G | 1942/03/31 | |||||
松田 亀吉 | 1938/03/31 | |||||||
杉村 親一 | 1947/03/31 | |||||||
英語 | 大伴 峻 | 3H | 学年主任 | 1924/03/31 | ||||
中村 禎 | 1938/03/31 | |||||||
大島 長次 | 3A | 1945/06/20 | ||||||
深堀 修 | 3K | 1945/10/31 | ||||||
堅川 吉英 | 1950/03/31 | |||||||
勢山 秀子 | 1949/05/31 | |||||||
保健体育 | 岐部 信之助 | 1924/02/11 | ||||||
薗頭 潔 | 1946/08/31 | |||||||
松永 節 | 1949/03/31 | |||||||
榎木 繁男 | 1949/03/31 | |||||||
古野 雅子 | 1950/03/31 | |||||||
音楽 | 柳 力 | 1948/03/31 | ||||||
工作 | 田村 耕 | 1941/07/20 | ||||||
書道 | 麻生 秀二 | 1923/03/31 | ||||||
嘱託 | 国語 | 飯沢 紳美 | 1944/03/31 | |||||
理科 | 上島 千一 | 1949/08/31 |
講師・校医
教科 | 氏名 | ||
---|---|---|---|
講師 | 国語 | 栗原 源七 | |
英語 | 黒岩 善吉 | ||
美術 | 武田 良三 | ||
学校医 | 岡田 省三 | ||
武田 久孝 | |||
学校医 | 歯科 | 鎌田 栄一 |
事務職員
職 名 | 氏 名 | 着 任 |
---|---|---|
事務長 | 小田 実 | 1947/10/01 |
事務主事 | 唐木 厚 | 1946/10/09 |
井上 とみ | 1948/10/15 | |
三浦 忠雄 | 1950/02/31 | |
白川 房子 | 1950/03/31 | |
国分 英太郎 | 1949/08/31 | |
佐生 せい子 | 1949/08/31 | |
事務助手 | 岡本 秀男 | 1947/06/07 |
中村 満 | 1948/11/15 | |
渡辺 里子 | 1950/03/31 | |
主事補 | 茂木 弘 | 1947/02/22 |
事務補佐 | 竹花 隆司 | 1948/03/31 |
用務員 | 上田 信吉 | 1936/07/22 |
君塚 盛 | 1945/03/15 | |
河隅 幸一 | 1946/03/31 | |
平野 福三郎 | 1947/05/06 | |
守衛 | 高橋 芳雄 | 1946/07/09 |
学芸会
- 11月 1日
学芸会の写真
- 以下の写真は、高4回 小林大二 様 ご家族の 小林ジュディ由利江 様より提供いただきました。→「高4回生のページ」にたくさんの資料がありますのでご覧ください。
- 高4回の学芸会の写真の中に、中2Eのときの写真が混入したので、こちらに掲載しています。中2Eのときでしたら1947(昭和22)年の学芸会でしょうか。
卒業アルバム
小山台新聞
- 1950(昭和25)年度発行 1950年度から新聞発行元は「新聞班」と変更になる。
- 「小山台新聞1950(昭和25)年7月20日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→ 「小山台新聞1950(昭和25)年7月20日発行」へのリンク
- 「小山台新聞1950(昭和25)年12月1日発行」は以下のリンクからご覧になれます。→ 「小山台新聞1950(昭和25)年12月1日発行」へのリンク
「小山台新聞1951(昭和26)年3月1日発行」は以下のリンクからご覧になれます。 | |
「小山台新聞1951(昭和26)年3月1日発行」へのリンク |
関連項目
*← 1949年度 (昭和24年度) *→ 1951年度 (昭和26年度)
脚注
・
2025年3月16日:直近編集者:Hosamu
TimeStamp:20250316152113