「1971年度 (昭和46年度)」の版間の差分

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ファイル:Example.jpg|<div style="text-align:center; >「写真」校友会雑誌03号</div>
ファイル:1971運動会文書名1971昭和46年11月25日小山台新聞復刊第1号.jpg|<div style="text-align:center; >運動会(小山台新聞復刊第1号より)</div>
ファイル:Example.jpg|<div style="text-align:center; >「写真」校友会雑誌04号</div>
ファイル:1971自動車班高24015班活201.jpg|<div style="text-align:center; >自動車班 班活</div>
ファイル:Example.jpg|<div style="text-align:center; >「写真」校友会雑誌04号</div>
ファイル:1971文化祭_文書名1971昭和46年11月25日小山台新聞復刊第1号.jpg|<div style="text-align:center; >1971文化祭(小山台新聞復刊第1号より)</div>
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</gallery>
|-
|-
| style="text-align:center" | できごと || style="text-align:center" | 詳細・引用・寄稿
|-
|-
|style="width: 25%;vertical-align:top" |4月 2日 始業式<br>
4月 3日 健康診断<br>
4月XX~XX日 開校記念日<br>
5月 4日 春の遠足<br>
5月XX日 中間考査<br>
5月XX~XX日 PTA総会<br>
5月XX日 3年ア・テスト<br>
6月XX~XX日 期末考査 生徒総会<br>
6月XX日 終業式<br>
7月X~XX日 林間学校<br><br>
----
9月1日 始業式<br>
9月2日~4日 ア・テスト<br>
9月9日~11日 水泳大会<br>
9月XX~XX日 運動会、X・X日代休<br>
10月XX~XX日  中間考査<br>
11月XX~XX日 2年修学旅行<br>
11月XX日~XX日 3年ア・テスト<br>
11月XX日 生徒総会<br>
12月XX~XX日 期末考査<br>
12月XX日 終業式<br>
----
1月X日 始業式<br>
1月X~XX日 1・2年ア・テスト<br>
1月XX日 3年ア・テスト<br>
1月XX日 ロードレース<br>
3月X~XX日 期末考査<br>
3月 8日 卒業式 [[中8回 | 中八回生]](男子190名)<br>
3月XX日 終業式
| rowspan="3" style="width: 75% ;vertical-align:top" |'''文化祭の日の〝子供の国〟 加藤真由美(旧姓 常安)'''<br>
 「あ、オヤマダイですか。よく知っています。」卒業以来、私の履歴書を見ながら、あるいは私の話に相槌を打ちながら、何度か、これに似た言葉を聞き、その都度、「コヤマダイなんです。」と訂正してきました。すると本当に御存知の方は、「通動会が有名でしたね。」などときて、つい、私も小山台には運動会しかないかのような話をバラまいてきました。でも、文化祭だってあったはず…。何故、私が文化祭に拘っているか、その原因は先日届いた一通の手紙でした。それは、
「文化祭について思い出し、八○○字以内にまとめよ』といった内容と、締切日まで指定された原稿依頼だったのです。「しまった!文化祭って何だっけ」頭は突くか、縦か横に振るかしか使わない生活から一変して、流行作家や試験場で悪戦苦闘の学生の気分まで味わいながら、必死で文化祭なるものを思い出したところ、自分でも意外な事実が記憶の底から魁ったのです。それは『子供の国』でした。実は文化祭を抜け出し、友達と二人、子供の国まで遠足に行っていたのです。発作的行動のため、二人の持参金を足してもわずか。往復の交通費とささやかな昼食、それにアイスクリームに化けたらあとは一文無しでした。そのせいもあってか、あの日の青空と芝生の色か変に生々しく思い出され、小学生のようにはしゃいでいた気持も懐かしいものでした。考えてみれば三年の秋。あれは息抜きでした。受験や就職を控え、各人が緊張の毎日を過ごしそれぞれどこかでホッと息をつく。文化祭や連動会そのものが息抜きだったのかもしれません。殺伐が当然とも言えたあの時期を、案外、伸び伸びやってこれたものだと、今は感謝しています。二人の逃亡を黙って見逃してくださった先生、ありがとうございました。
(高25回・昭和48年卒 主婦 二児の母)<br>
(「60周年記念誌」PY187)<br><br>
'''ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト'''<br>
 ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト
ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト
ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト
ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト ダミーテキスト<br>
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その後弁論班にも入って多くの先輩達の教えを受けたことも今ではなつかしい想い出である。<br>
(「創立XX周年記念誌」PYYY)
|-
| style="text-align:center" |世 相
|-
|-
|style="vertical-align:top"|
6月 光化学スモッグの発生で各地に被害<br>
1月24日 元日水兵横井庄一グァム島で発見<br>
2月3日 札幌オリンピック開幕<br>
2月19日 連合赤軍あさま山荘事件(~28日)<br>
3月26日 高松塚古墳壁画発見
<br><br>
流行語-ガンバラナクチャ・ディスカバージャパン・脱○○<br>
流行歌-知床旅情・また逢う日まで・わたしの城下町<br>
|}
|}
</div>
</div>
82行目: 25行目:
:04.11 進学懇談会(3年)
:04.11 進学懇談会(3年)
:04.19 健康診断(~21)
:04.19 健康診断(~21)
:05.04 開校記念日
:05.04 創立記念日
:05.12 防火訓練
:05.12 防火訓練
:05.14 遠足
:05.14 遠足
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<br>
==世相==
==世相==
:'''1971年'''
:'''1971年'''
:06.30 ビートルズ武道館で公演<br>
:6 光化学スモッグの発生で各地に被害<br>
:08.18 中国文化大革命勝利大集会<br>
:'''1972年'''
:'''1972年'''
:02.11 建国の日が祝日となる<br>
:01.24 元日水兵横井庄一グァム島で発見
:02.03 札幌オリンピック開幕
:02.19 連合赤軍あさま山荘事件(~28日)
:03.26 高松塚古墳壁画発見
<br>
<br>


:'''流行語'''-黒い霧・びっくりしたなあもう<br>
:'''流行語'''-ガンバラナクチャ・ディスカバージャパン・脱○○<br>
:'''流行歌'''-君といつまでも・骨まで愛して・星のフラメンコ<br>
:'''流行歌'''-知床旅情・また逢う日まで・わたしの城下町<br>
<br>
<br>


==文化祭の日の〝子供の国〟 加藤真由美(旧姓 常安)==
==文化祭の日の〝子供の国〟 加藤真由美(旧姓 常安)==
 「あ、オヤマダイですか。よく知っています。」卒業以来、私の履歴書を見ながら、あるいは私の話に相槌を打ちながら、何度か、これに似た言葉を聞き、その都度、「コヤマダイなんです。」と訂正してきました。すると本当に御存知の方は、「通動会が有名でしたね。」などときて、つい、私も小山台には運動会しかないかのような話をバラまいてきました。でも、文化祭だってあったはず…。何故、私が文化祭に拘っているか、その原因は先日届いた一通の手紙でした。それは、「文化祭について思い出し、八○○字以内にまとめよ』といった内容と、締切日まで指定された原稿依頼だったのです。「しまった!文化祭って何だっけ」頭は突くか、縦か横に振るかしか使わない生活から一変して、流行作家や試験場で悪戦苦闘の学生の気分まで味わいながら、必死で文化祭なるものを思い出したところ、自分でも意外な事実が記憶の底から魁ったのです。それは『子供の国』でした。実は文化祭を抜け出し、友達と二人、子供の国まで遠足に行っていたのです。発作的行動のため、二人の持参金を足してもわずか。往復の交通費とささやかな昼食、それにアイスクリームに化けたらあとは一文無しでした。そのせいもあってか、あの日の青空と芝生の色か変に生々しく思い出され、小学生のようにはしゃいでいた気持も懐かしいものでした。考えてみれば三年の秋。あれは息抜きでした。受験や就職を控え、各人が緊張の毎日を過ごしそれぞれどこかでホッと息をつく。文化祭や連動会そのものが息抜きだったのかもしれません。殺伐が当然とも言えたあの時期を、案外、伸び伸びやってこれたものだと、今は感謝しています。二人の逃亡を黙って見逃してくださった先生、ありがとうございました。<br>
 「あ、オヤマダイですか。よく知っています。」卒業以来、私の履歴書を見ながら、あるいは私の話に相槌を打ちながら、何度か、これに似た言葉を聞き、その都度、「コヤマダイなんです。」と訂正してきました。すると本当に御存知の方は、「通動会が有名でしたね。」などときて、つい、私も小山台には運動会しかないかのような話をバラまいてきました。でも、文化祭だってあったはず…。<br>
(高25回・昭和48年卒 主婦 二児の母)(「60周年記念誌」P187より抜粋)<br><br>
 何故、私が文化祭に拘っているか、その原因は先日届いた一通の手紙でした。それは、「文化祭について思い出し、八○○字以内にまとめよ』といった内容と、締切日まで指定された原稿依頼だったのです。「しまった!文化祭って何だっけ」頭は突くか、縦か横に振るかしか使わない生活から一変して、流行作家や試験場で悪戦苦闘の学生の気分まで味わいながら、必死で文化祭なるものを思い出したところ、自分でも意外な事実が記憶の底から魁ったのです。それは『子供の国』でした。実は文化祭を抜け出し、友達と二人、子供の国まで遠足に行っていたのです。発作的行動のため、二人の持参金を足してもわずか。往復の交通費とささやかな昼食、それにアイスクリームに化けたらあとは一文無しでした。そのせいもあってか、あの日の青空と芝生の色か変に生々しく思い出され、小学生のようにはしゃいでいた気持も懐かしいものでした。考えてみれば三年の秋。あれは息抜きでした。受験や就職を控え、各人が緊張の毎日を過ごしそれぞれどこかでホッと息をつく。文化祭や連動会そのものが息抜きだったのかもしれません。殺伐が当然とも言えたあの時期を、案外、伸び伸びやってこれたものだと、今は感謝しています。二人の逃亡を黙って見逃してくださった先生、ありがとうございました。<br>
(高25回・昭和48年卒 主婦 二児の母)(「60周年記念誌」P186より抜粋)<br><br>


==??“人生の原型”の日々 五十嵐裕治(旧姓 関)==
==I・H四○○M三位に入賞して 渡部誠==
 少年から青年へ。未来への淡い希望を内に蔵しつつ、目前の受験勉強に半ば機械的に取り組んでいた、あのくすんだ日々。世は高度経済成長の坂を昇り始め、物の豊かさを追い求めて、日本人の多くが何か得体の知れないものに向かって突進し始めていたころだった。東大はじめ一流大学への捷径とされていた当時の小山台にあって、私たちは繁栄への道をひた走る親たちの期待に、忠実に応えようとしていただろう、と今あらためて思う。
 八月二日、快晴。五時起床、暑くなりそうだ。七時四○分、宿舎を出て競技場へ歩いて一五分。八時一○分、ウォーミング・アップ開始。一○時一○分、予選七組に出場し二着で通過。タイムは五一秒○。二○番目ぐらいのタイムである。一一時四○分、準決勝一組、予選が終わってから休息の時間も短い。なんとなく体が重い。スタート付近でボーッとしていると、「コーナーまで走ってこい」という岡野先生の声。走ったあとで目ざめ、気合が入った。三着でゴール。各組二着と上位二名が決勝へ進出できる。自信はあったが不安は残る。やっとプラスで拾われた。<br>
私自身、自分について考えるようになるまでは、全てが点数で表示されるそのときの教育のあり方に、無機質な快感を抱いていた。しかし、その快感が、高校三年の春、突如として不快感に変わった。揺れ動く少年の心にそのとき映じていたのは何だったろうか。定まらない形を求めて、私は何かを表現しようとしていた。しかし、いくら表現しても核心がつかめない。つかめぬまま日々は過ぎた。
そして決勝、コースは二コース。準決勝でただ一人四九秒台で走っているY君は四コース。準決勝の記録からすると四九秒台は一人だけであり、だれが優勝してもおかしくない。四時四○分、スタート。前半からとばした、第四コーナー、ではトップに立っている……四コースのY君がゴール前四○メートルで出てきた…:.結果は三位。とにかく全力を投入した。暑さとの戦いであり、三位に入れたのはとてもラッキーであった。<br>
私のいらだちは、おそらく同世代の者たちのそれでもあったろう。卒業のころから吹き荒れ出した全国学園闘争のすさまじい嵐は、ぜいじゃくな私や、私を取り巻く多くの友人たちを、否応なく呑み込んでいった。
ここまで応援に来て下さった伊藤太一郎校長、前顧問の榎木先生、班長の田中君、そしてOBの方々、東京で応援してくれている仲間たち、わざわざゴザを競技場まで運んでくれた民宿のおじさん、おばさん、ありがとう。この入賞は私だけの力ではなく、周囲の人たちの応援があったからだ。そして現在、私は日本女子体育大学に勤務し、陸上競技のコーチをしている。陸上競技は私にとって、かけがえのないものになっている。<br>
今、私は思う。その後の道がどうあれ、小山台の三年間は、“いま”を胚胎する濃密な日々であった、と。あの千日余の期間に、現在を予兆させるすべてが刻まれている。いわば、“人生の原型”を形づくった日々――。
(高25回・昭48年卒 日本女子体育短期大学講師)(「60周年記念誌」P186より抜粋)
その底に、現世を超えて生きようとする永遠の美意識が流れているとするならば、それは二年間担任であった安藤千鶴子先生の人格的影響によるところが大きい。教師はおそらく、授業の質によってでなく、その人間性において教え子を感化する。
<br>
さて、小山台の三年間で象られた“人生の原型”が、今後どのような変奏曲をかなでるにしても、私の場合、友人たちと同じように曲は始まったばかりである。<br>
(高19回・昭42年卒 天理教教会本部・「天理時報」記者)(「第60周年記念誌」P176より抜粋)


==寒かった旧事務室 森井節子==
 私が、小川台高校に勤務しましたのは、昭和四二年から、昭和五一年までの九年間でした。四二年初春内示を受け木村校長先生外のかたと面接していただきました。外は小春日和で、校庭には生徒たちが運動に興じていました。校長先生は開口一番「あなたは体は丈夫ですか?病気はしたことありませんか?なにしろ冬は事務室はぜんぜん陽があたらない、夏の夕方西の小窓に一条のひかりが入るだけ、よほどの人でないとたえられないから」とのこと、勤務を始めてなるほどと思いました。建物は戦前の頑丈そのものですが、北側に面しているため穴倉のようで、それに書類、書庫、机等ところせましとおかれて昼でも電気をつけないと暗く冬は当時のこととて石炭ストーブを二つたいてなおどこからともなくすきま風が入り、女性だけにと机の下に電気ストーブを入れてくれても寒いありさま、又夏はとても涼しいのですが風がなくとも校庭からの砂ぼこりで、机はふけどもふけども白くざらざらしておりました。それでも先生がたとも親しみ、事務室内も皆さんなごやかで活気にみちていましたし、旅行なども一年に一度はしていました。
(旧職員・都立大崎高校)(「60周年記念誌」P187より抜粋)<br>
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2025年3月14日 (金) 10:50時点における最新版

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1971(昭和46)年度



できごと

04.08 午前 始業式
04.08 午後 入学式 高26回生(男子281、女子97、計378名)
04.11 進学懇談会(3年)
04.19 健康診断(~21)
05.04 創立記念日
05.12 防火訓練
05.14 遠足
05.24 中間考査(~26)
05.29 PTA総会
05.31 校内球技大会(~06.05)
06.09 合唱コンクール予選(~11)
06.16 合唱コンクール
06.17 ア・テスト(3年)(~18)
06.25 定例前期生徒総会(6月28日,29日に継続)
07.08 期末考査(~12)
07.20 終業式
07.27 クラブ合同合宿(~08.01)
08.02 体育館改修工事(雨漏りしなくなる)(~09.07)

09.01 始業式
09.02 ア・テスト(1・2年)(~03)
09.02 ア・テスト(3年)(~04)
09.08 水泳大会(~10)
09.18 第26回寒菊祭(~19)
10.03 運動会:優勝(白組)
10.21 中間考査(~23)
10.26 講演会(3年)講師:笠松章氏
11.08 修学旅行(2年:京都・奈良方面) (~11)
11.10 遠足
11.18 ア・テスト(3年)(~20)
11.24 防火訓練、50周年記念事業準備委員会発足
11.25 生徒総会
11.30 校庭改修工事(~03.08)
12.13 期末考査(~16)
12.25 終業式
01.03 スキー教室(12月末雪不足で延期)(~07)

01.08 始業式
01.10 ア・テスト(1・2・3年)(~11)
01.24 定例後期生徒総会(制服廃止案却下など)
01.29 ロードレース大会
02.08 卒業記念品として、時計台時計、ウォータークーラー取付
02.14 校内球技大会(~19)
02.22 入学選抜学力検査
03.06 期末考査(~09)
03.18 卒業式 高24回生(男子279、女子99、計378名)
03.22 終業式


世相

1971年
6 光化学スモッグの発生で各地に被害
1972年
01.24 元日水兵横井庄一グァム島で発見
02.03 札幌オリンピック開幕
02.19 連合赤軍あさま山荘事件(~28日)
03.26 高松塚古墳壁画発見


流行語-ガンバラナクチャ・ディスカバージャパン・脱○○
流行歌-知床旅情・また逢う日まで・わたしの城下町


文化祭の日の〝子供の国〟 加藤真由美(旧姓 常安)

 「あ、オヤマダイですか。よく知っています。」卒業以来、私の履歴書を見ながら、あるいは私の話に相槌を打ちながら、何度か、これに似た言葉を聞き、その都度、「コヤマダイなんです。」と訂正してきました。すると本当に御存知の方は、「通動会が有名でしたね。」などときて、つい、私も小山台には運動会しかないかのような話をバラまいてきました。でも、文化祭だってあったはず…。
 何故、私が文化祭に拘っているか、その原因は先日届いた一通の手紙でした。それは、「文化祭について思い出し、八○○字以内にまとめよ』といった内容と、締切日まで指定された原稿依頼だったのです。「しまった!文化祭って何だっけ」頭は突くか、縦か横に振るかしか使わない生活から一変して、流行作家や試験場で悪戦苦闘の学生の気分まで味わいながら、必死で文化祭なるものを思い出したところ、自分でも意外な事実が記憶の底から魁ったのです。それは『子供の国』でした。実は文化祭を抜け出し、友達と二人、子供の国まで遠足に行っていたのです。発作的行動のため、二人の持参金を足してもわずか。往復の交通費とささやかな昼食、それにアイスクリームに化けたらあとは一文無しでした。そのせいもあってか、あの日の青空と芝生の色か変に生々しく思い出され、小学生のようにはしゃいでいた気持も懐かしいものでした。考えてみれば三年の秋。あれは息抜きでした。受験や就職を控え、各人が緊張の毎日を過ごしそれぞれどこかでホッと息をつく。文化祭や連動会そのものが息抜きだったのかもしれません。殺伐が当然とも言えたあの時期を、案外、伸び伸びやってこれたものだと、今は感謝しています。二人の逃亡を黙って見逃してくださった先生、ありがとうございました。
(高25回・昭和48年卒 主婦 二児の母)(「60周年記念誌」P186より抜粋)

I・H四○○M三位に入賞して 渡部誠

 八月二日、快晴。五時起床、暑くなりそうだ。七時四○分、宿舎を出て競技場へ歩いて一五分。八時一○分、ウォーミング・アップ開始。一○時一○分、予選七組に出場し二着で通過。タイムは五一秒○。二○番目ぐらいのタイムである。一一時四○分、準決勝一組、予選が終わってから休息の時間も短い。なんとなく体が重い。スタート付近でボーッとしていると、「コーナーまで走ってこい」という岡野先生の声。走ったあとで目ざめ、気合が入った。三着でゴール。各組二着と上位二名が決勝へ進出できる。自信はあったが不安は残る。やっとプラスで拾われた。
そして決勝、コースは二コース。準決勝でただ一人四九秒台で走っているY君は四コース。準決勝の記録からすると四九秒台は一人だけであり、だれが優勝してもおかしくない。四時四○分、スタート。前半からとばした、第四コーナー、ではトップに立っている……四コースのY君がゴール前四○メートルで出てきた…:.結果は三位。とにかく全力を投入した。暑さとの戦いであり、三位に入れたのはとてもラッキーであった。
ここまで応援に来て下さった伊藤太一郎校長、前顧問の榎木先生、班長の田中君、そしてOBの方々、東京で応援してくれている仲間たち、わざわざゴザを競技場まで運んでくれた民宿のおじさん、おばさん、ありがとう。この入賞は私だけの力ではなく、周囲の人たちの応援があったからだ。そして現在、私は日本女子体育大学に勤務し、陸上競技のコーチをしている。陸上競技は私にとって、かけがえのないものになっている。
(高25回・昭48年卒 日本女子体育短期大学講師)(「60周年記念誌」P186より抜粋)

寒かった旧事務室 森井節子

 私が、小川台高校に勤務しましたのは、昭和四二年から、昭和五一年までの九年間でした。四二年初春内示を受け木村校長先生外のかたと面接していただきました。外は小春日和で、校庭には生徒たちが運動に興じていました。校長先生は開口一番「あなたは体は丈夫ですか?病気はしたことありませんか?なにしろ冬は事務室はぜんぜん陽があたらない、夏の夕方西の小窓に一条のひかりが入るだけ、よほどの人でないとたえられないから」とのこと、勤務を始めてなるほどと思いました。建物は戦前の頑丈そのものですが、北側に面しているため穴倉のようで、それに書類、書庫、机等ところせましとおかれて昼でも電気をつけないと暗く冬は当時のこととて石炭ストーブを二つたいてなおどこからともなくすきま風が入り、女性だけにと机の下に電気ストーブを入れてくれても寒いありさま、又夏はとても涼しいのですが風がなくとも校庭からの砂ぼこりで、机はふけどもふけども白くざらざらしておりました。それでも先生がたとも親しみ、事務室内も皆さんなごやかで活気にみちていましたし、旅行なども一年に一度はしていました。 (旧職員・都立大崎高校)(「60周年記念誌」P187より抜粋)


教職員

職名 教科目 氏 名 担任 校務分掌 班活顧問 就 任 PTA・菊桜会 財団小山台
校長 (国語) 伊藤 太一郎 1967/04/01 PTA顧問 財団理事長
教頭 社会 宇野 一 1969/04/01 PTA副会長 財団常任理事
教諭 国語 落合 光禎 1H 図書部 硬式テニス 1945/09/30
安藤 千鶴子 1年係 保健部 華道 1960/04/01
土屋 泰男 3年係 教務部 剣道 1965/04/01
野沢 穣 2C 教務部 ワンゲル 1965/04/01
江藤 秀男 図書部長 卓球 1968/04/01 PTA実行委員
高村 元継 2H バドミントン 1969/04/01 PTA書記長
柳原 博 3F 庶務部 文芸同好会 1970/04/01
田村 達之 2年係 庶務部 サッカー 1971/04/01
社会 地理 宮田 時雄 1年係 庶務部 軟式テニス 1947/06/15
斎藤 績 2B 進路部 美術 1962/04/01
世界史 三橋 力 保健部長 野球 1949/05/15 PTA実行委員
佐藤 周蔵 2E 保健部 軟式テニス 1970/04/01
日本史 沢井 景之助 教務部長 1960/04/01 PTA実行委員
宇野 順之助 3D 生徒部 社会科学研究 1970/04/01
政経 塩野入 啓晃 3A 学年主任 演劇 1948/03/31 PTA実行委員
倫社 岡野 尚起 1E 学校祭委員長 心理研究 1969/04/01 PTA実行委員
数学 奥野 一雄 1年係 図書部 天文 1946/03/31
不島 静夫 2年係 保健部 鉄道研究 1947/09/30
石井 孝雄 3B 教務部 写真 1960/04/01
斎藤 昉 1D 図書部 ワンゲル 1960/04/01
若林 明弘 3E 生徒部 ラグビー 1963/04/01
児玉 一成 2A 学年主任 バスケットボール 1967/04/01 PTA実行委員
石黒 富美男 生徒部長 1967/10/01 PTA実行委員
竹内 淳博 1年係 教務部 ラグビー 1971/04/01
理科 物理 鬼崎 菖三 2年係 教務部 ラジオ 1967/04/01
芝 茂雄 進路部長 物理 1969/04/01 PTA実行委員
化学 園山 忠夫 3年係 図書部 化学 1946/09/15 財団理事
萩原 祥宏 庶務部長 陸上競技 1968/09/01 PTA実行委員
生物 鈴木 亨 1A 学年主任 自動車 1951/04/01 PTA実行委員
水越 虔二 3年係 進路部 生物 1963/05/01
地学 多胡 忠治 1G 生徒部 合唱 1965/04/01
英語 深掘 修 3G 保健部 硬式テニス 1945/10/31
中山 重男 柔道 1959/04/01
直井 鋠治 3H 進路部 野球 1967/04/01
稲田 宏 2D 進路部 新聞 1968/04/01
川端 一男 1F 教務部 バスケットボール 1969/04/01
細田 健次 1B 進路部 ESS 1970/04/01
出来 成訓 2G 生徒部 水泳 1970/09/01
大阪 芙佐枝 2年係 図書部 バドミントン 1971/04/01
保健・体育 小林 年子 3C 生徒部 バレーボール、フォークソング同好会 1952/04/01
阿部 修二 1C 保健部 器械体操 1958/01/01
粂 太郎 2F 生徒部 サッカー 1964/09/01
中村 洋一 3年係 生徒部 バレーボール 1967/04/01
岡野 進 2年係 庶務部 陸上競技 1970/04/01
音楽 土屋 公平 ブラスバンド 1968/04/01 PTA書記
司書教諭 図書 矢口 洋子 図書部 弦楽 1955/04/01
養護教諭 養護 斎藤 千代 保健部 1964/03/01

講師・校医

教科 氏名
非常勤講師 理科 物理 立花 靖弘
伊藤 甕雄
化学 松井 順三
林 良重
英語 佐藤 治夫
芸術 美術 武田 良三
書道 黒沢 岩資
家庭 金子 純子
校医 内科 武田 久孝
耳鼻科 仙頭 哲夫
眼科 早川 和夫
歯科 鎌田 栄一
薬剤師 三村 薫

事務職員

職 名 氏 名 就 任
事務長 斎藤 斉 1970/04/01
事務主事 諸  孝 1961/05/01
真保 孝 1962/07/01
見村 スミ子 1964/04/01
事務主事補 森井 節子 1967/04/01
小泉 洋子 1971/05/16
山本 瑛子 1964/04/01
業務員(理科) 兼平 ケイ子 1970/04/16
用務員 平野 福三郎 1947/05/06
樋口 和三郎 1967/04/01
浅野 修一 1968/01/01
警備員 浜村 辰次郎 1954/08/01
神原 孝史 1966/02/01
PTA(事務) 金井 延 1970/05/01
PTA(清掃) 槌屋 フミヨ 1963/04/01

生徒在籍数  (1971年4月現在)

A B C D E F G H
1年 35 35 35 36 35 36 35 34 281
13 12 13 11 12 12 12 12 97
48 47 48 47 47 48 47 46 378
2年 37 35 35 35 35 37 36 36 286
12 13 13 13 13 12 13 12 101
49 48 48 48 48 49 49 48 387
3年 36 35 36 35 34 34 35 35 280
12 13 12 13 13 13 13 11 100
48 48 48 48 47 47 48 46 380
総 計 847 298 1,145


寒菊祭(学芸会、展示会、招待試合、後夜祭)

9月18日(土)、19日(日) 開催




「1971年寒菊祭」は以下のリンクからご覧になれます。
1971年寒菊祭.pdfファイルへのリンク



文化祭(寒菊祭)パンフレット一覧は以下のページからご覧いただけます。
文化祭(寒菊祭)一覧表



運動会

10月3日(日) 開催
白組優勝




菊香 休刊

「生徒会誌 菊香」はこの年度と翌1972(昭和47)年度は発行されず。
1973(昭和48)年度より復刊された。
詳細は「菊香第6号」を参照ください。


生徒会誌「菊香」の一覧はこちら → 生徒会誌「菊香」一覧表




卒業アルバム





小山台新聞

1971(昭和46)年度発行
→「八高・小山台新聞」一覧へ移動



関連項目

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脚注




2025年3月14日:直近編集者:NMKtakaji
TimeStamp:20250314105024